若返り トナー 1.夜明け前

夜明け前


「お前はどうだ? ユウヒ」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「ん…何か他に、言ってやる事はないのか?」

 そう確認するシュウの言葉はどこか意味深ではあったが、ユウヒは首を横に振って答えた。

「何もありません。お気遣いありがとうございます」
「いや。そうか…ない、か」

 何か言いたげな顔でシュウはユウヒを見つめていたが、まるで自嘲するかのように苦笑すると、また口を開いた。

「ならば良し、出発するとしよう」
「はい」

 ユウヒが返事をすると、ヒヅルの顔が一層曇った。

「ヒヅル…」

 かけてやる言葉が見つかるはずもなく、立ち尽くすユウヒにヒヅルは言った。

「行ってらっしゃいませ、ユウヒ様! また会える日を楽しみにしております!」
「ヒヅル…あ、あぁ、行ってきます」

 ユウヒはそう言ってヒヅルに歩み寄ると、そのままヒヅルを力強く抱きしめた。

「ごめんね、ヒヅル。本当に…ごめんね」

 ただそう繰り返す言葉がヒヅルに降ってくる。
 ヒヅルはユウヒの背中に回した手に力を籠めて言った。

「お謝りにならないで下さいませ、私ならば大丈夫でございます。ユウヒ様、道中、くれぐれもお気をつけて下さいませ」
「うん…ありがとう。ヒヅルも、元気で…」

 ユウヒは礼を言って、ヒヅルの体をすぅっと自分から引き離した。

「お待たせして申し訳ありません、シュウさん。あの…もう行けます」

 ユウヒの言葉にシュウの顔が引き締まる。
 両側に控えていた刑軍が立ち上がった。
 シュウがユウヒを見て声をかける。

「じゃ、行くか」
「…はい」

 ユウヒが返事をすると、シュウは王宮の正門の方に向かって歩き出した。
 後に続くユウヒの周りを、また刑軍が取り囲む。
 その様子を見てそこら中で重たい溜息が吐かれていることにユウヒが気付くはずもない。
 ゆっくりとした歩みで正門まで辿り着くと、前を行くシュウが足を止めた。

「お前達はここまでという話だったな、ごくろうだった。下がれ」

 振り向きざまにシュウが言うと、刑軍がすばやい動作でユウヒの周りからサッと退いた。

「ユウヒ」

「はい」

 近付いてきたシュウがユウヒの肩に手を置いてくるりと向きを変えさせた。
 短い間ではあったが、たくさんの人に触れ合い過ごした王宮がその目の前にあった。

「お前を案じて、いったいどれだけの目が今お前に向けられてると思う? あいつらは姿を見せることは出来ない。だが…その視線の先にある想いに、お前は応えてやるべきじゃないか?」

 そう言ってシュウがユウヒの背中をとんと押す。
 ユウヒは不意をついて押し出されるかたちとなり、ふらふらと二、三歩前に出た。

 ――視線?

 もう今となっては見慣れた篝火に浮かび上がる王宮の、その隅々にまで視線を走らせる。
 だが、いくら目を凝らしてもその姿はどこにも見当たらず、どれだけ耳を澄ましても自分の名を呼ぶ声も聞こえない。

 だだ不自然に多い禁軍の兵士達の視線は、罪人を見るそれではなかった。
 この様な目をした誰かが、今この瞬間、この城のどこかから見ているとシュウは言っていた。
 刑軍に囲まれて中庭に出てきた時、全身に感じたあの異様な気配の事を言っているのだろう。
 姿の見えないその人達は、いったいどのような思いでこの時を過ごしているのだろうか。

 様々な想いがユウヒの中で交錯する。
 視界の端に、拝礼することも忘れて立ち竦むヒヅルの姿が映っている。
 湧き上がる想いは、とても言葉で伝えられるようなものではない。
 ユウヒは着衣を正し、その場で静かに深々と頭を下げた。
 ユウヒも、そしてその場にいる誰一人として別れの言葉さえ口にしない。
 吹き渡る風の音が、ユウヒの髪を揺らし、その背中を通り過ぎていく。

 ずいぶんと長い礼の後、ゆっくりと頭を上げたユウヒは、もう一度、こちらからは見えない視線一つ一つに応えようとしているかのように王宮を隅々まで見渡した。
 そして静かに目を閉じ深呼吸をすると、くるりと踵を返してユウヒは一歩を踏み出した。
 シュウはその横にすぅっと進むと、そのまま並んで静かに歩き出す。
 二人が門の外に出ると、気まずそうな顔をした門番が大急ぎで城門を閉め始めた。
 重たい軋み音を立てて徐々に閉まっていく門の向こうで誰かの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、ユウヒは足を止めただけで振り返ることはしなかった。
 その門が完全に閉まったところでユウヒは一瞬振り返るような素振りを見せたが、そうはせず、ぎゅっと手を握り締めると顔を上げてシュウの方を見た。

「行くぞ」

 シュウの言葉に、ユウヒはただ静かに頷いた。
 二人は黙ったまま、まだ静まり返った王都をゆっくりと歩き始めた。
 東の空が深い緑から群青へと変わり始め、少しずつ夜明けが近付いてきている。

 そして一筋の閃光が一日の始まりを告げ、日の光が空を明るく照らし始めた頃には、もうその街のどこにも二人の姿はなかった。