ネイルサロン 第4章 揺れる心

揺れる心


 廊下にはヒリュウの足音だけが響いていた。
 階段をかけおり、塔の外に出たヒリュウを、待ち構えていたザインが捉まえた。

「ヒリュウ」
「お? なんだ、ザイン。お前ずっとここで俺の事待ってたの? 暇だねぇ」
「そんなわけあるか! たまたま通りかかったところに階段を品なく駆け下りる足音が聞こえたから、足を止めただけだ」

 茶化すように言うヒリュウに、ザインが腹立たしげに言い返した。

「はいはい。わかったわかった」

 そう言って歩き出すヒリュウの横に、ザインが並んで歩き出す。
 ヒリュウは大きく一つ伸びをすると、ふと思いついたようにまとめていた髪をほどき始めた。

「あぁあぁ……苦労してやってくれた女官達が嘆き悲しむぞ?」

 ザインがそう言って笑うと、ヒリュウは苦笑して返事をした。

「それはそうなんだが……どうも窮屈でなぁ、頭も、この恰好も」
「そうか? まぁ、わからんでもないが」

 さぁっと自由になったヒリュウの黒髪が、風を孕んでさわさわと靡いて揺れた。
 いつものように、並んで歩く朔と禁軍将軍の二人に行き交う者達が足を止め、深々と礼をして去っていく。
 そして二人もまた、いつものように労いの声をかけたりしながら歩いて行った。

 朔の執務室、そして禁軍の詰所のある三階層建ての棟は、その左右対称の美しい姿から飛翔殿と呼ばれていた。
 この国の文武の両翼を担う長が、文字通りこの棟の両翼に詰めている。

「じゃ、俺はこっちだから」

 そう言って右側の階段に向かってザインが歩き出すと、なぜかヒリュウが後をついてきた。
 不思議に思ったザインがヒリュウの方を振り返る。

「なんだ? その窮屈な恰好を先にどうにかしてこないのか?」
「うーん、まぁ……そうなんだけどさ」

 そう言って、ザインを追い抜いてヒリュウはさっさと階段を上っていく。
 わけのわからないザインは、ただ黙ってその後をついていった。
 いつもなら、話しかけてくるなり独り言を言うなりにぎやかなヒリュウが、今日は何か思い詰めたように黙って先を歩いている。

 ――なんだ?

 訝しげに首を傾げ、ザインは前を行く親友の背を見つめていた。

 執務室に着くと、まるで自分の部屋であるかのようにヒリュウは躊躇いもせずに中に入り、そのままザインの執務机の椅子に腰を下ろした。

「おい。お前はそこじゃないだろう?」
「いいからいいから……」

 いつもなら少しふざけたくらいに聞こえる口調にも、今日はどことなく無理がある。
 やはりヒリュウの様子がおかしかった。

「勝手にしろ」

 ザインはそう言って、周りの片付けをしながら女官達にお茶の用意をするように指示した。
 ちょこんと膝を少し折って拝礼した女官達が、それぞれに指示された通りに動き出す。
 部屋の中は少し騒がしくなったが、ヒリュウの周りだけは妙に空気が沈んでいるように見え、さすがにザインも気になって声をかけた。

「何かあったのか、ヒリュウ」

 ヒリュウは手にしていた髪の飾り物などを雑然とザインの机の上に置いて、ぼんやりと天井を眺めていた。

「おい、ヒリュウ!」
「え? あぁ、何?」

 ザインは大きな溜息をついて、ヒリュウに歩み寄った。

「何、じゃないだろう。お前、何かおかしいぞ」
「俺? そんなおかしい?」
「あぁ、めいっぱいおかしいな」

 二人のもとにお茶を持った女官が近付いてきた。
 いったいどうしたものかと戸惑っているのを見て、ヒリュウは自分の分を手渡しに受け取り、ザインは長椅子の方の卓におくように言った。
 指示通りお茶を置いた女官が一礼してその場を去ると、ザインとヒリュウだけの執務室は静けさに包まれた。
 何も話しそうにないヒリュウに、ザインは背を向けて長椅子の方に腰を下ろす。
 ヒリュウは天井を見上げたまま、盛大に溜息を一つ吐いて口を開いた。

「なぁ、ザイン」
「……なんだ?」

 返事の後、お茶を啜る音が聞こえてくる。
 ザインはヒリュウの言葉をじっと待った。
 ヒリュウはまだぼんやりと天井を見つめていたが、やがて自嘲するような笑みを浮かべると静かに話し始めた。

「どうしても行きたくない道があって、さ。だけどどう考えてもそこを行くしかないって時、お前ならどうする?」