薪ストーブ 第3章 見つめる瞳

見つめる瞳


「久しいな、その呼び方も」

 そう言った蒼月の方に、ヒリュウがチラリと視線を投げる。

「話し方も…その、よろしいですか?」

 蒼月はゆっくりと頷いて言った。

「あぁ、かまわぬ」
「……じゃ、遠慮なく」

 ヒリュウはそう断わってから話し始めた。

「でも、いざ普通に話すとなると緊張するな……もうずっと陛下だったし敬語だったし」

 急に落ち着かない様子になったヒリュウを蒼月が静かに笑う。

「かまわぬと言っている」

 ヒリュウはその言葉に思わず苦笑した。

「お前はもう、すっかり王様言葉だな、カヤ」
「あ……」

 慌てて口許を両手で押さえた蒼月の体がぐらりと揺れ、ヒリュウが慌てて抱き止める。
 蒼月はすぐ体勢を立て直して、また元のように手すりに手を置いた。
 それを見たヒリュウが溜息混じりにこぼす。

「どうあってもそこに座ってたいのか? 危ないって」

 蒼月はそんなヒリュウに楽しげに微笑みかけた。

「危なかったら助けてくれるんでしょ、将軍? 仕事だけは、きちんとしなさいよ」
「何だよそれ!?」
「だって私、ここに座っていたいんだもの」

 くすくすと楽しそうに笑う蒼月に、ヒリュウも思わず破顔した。

「へぇへぇ。わかったよ、王様。まったく……わがままなのはちっとも変わんねぇなぁ、カヤ」
「ヒリュウも、なんだかんだで面倒見がいいのは変わらないね。小さいくせに小生意気で、やんちゃ坊主だったのに、なんかいつの間にか大きくなっちゃって。ふふ、笑っちゃう」
「いつの話だ! また豆粒だの何だの言いやがったら許さねぇからな。お前ら姉妹はちょっと俺より年上だと思って、本当にいっつも好き勝手言ってたよなぁ」
「あぁ……そうだったね…………」

 そう小さく言った後、また急に暗い表情に戻ってしまった蒼月の顔を、ヒリュウは不思議そうに覗きこんだ。

「なんだ? どうかした?」
「いや、別に……なんでもない」
「……? なら、いいけど」

 そうは言ったものの何かあったのは明らかで、蒼月はそれきり黙りこくってしまった。
 ヒリュウはいったい何が失言だったのかまったくわからず、気まずい空気のまま、蒼月が見つめている遠くの方に自分も視線を流すより他なかった。
 どうにも気になって盗み見た蒼月、カヤの横顔は、ヒリュウがこの部屋に来た時と同じ、無気力で翳りのあるものに戻ってしまっていた。
 こっそりと見たはずの、そのヒリュウの視線に気付いたのか、蒼月は寂しそうに笑ってぼそりとこぼした。

「いろいろと……変わってしまったな」
「カヤ?」

 ヒリュウのその呼びかけに返ってくる言葉はなかった。
 ただ、耳に残るその口調はまた聞き慣れた蒼月のものに戻っていた。
 ほんの少しだけ顔を出した「カヤ」は、今はもうどこにもいない。

「そろそろ、女官達も戻ってくる頃合いだろう」

 蒼月はすとんと手すりから降りると、またゆるゆると部屋の中へと戻って行った。
 ヒリュウはその後姿に何となく一礼して、続いて部屋に入った。
 露台へと続く扉を閉めると、その閉め切られた空間にまた緊張感が戻ってくる。
 施錠して振り返ったヒリュウの目に飛び込んできたのは、この部屋に来た時に目にしたものと同じ、気だるそうに長椅子に身を預けた蒼月の姿だった。
 ヒリュウは小さく溜息をつくと、部屋の中ほどまで進んでから蒼月の方を向いて立ち止まった。

「カ……」

 カヤ、と言い掛けてすぐに口を噤む。
 そして姿勢を正すとまた口を開いた。

「陛下。私はこのへんで……」
「ん? あぁ、そうだな」

 陛下と呼んだ事に対して、蒼月は何の反応もしめさなかった。
 その事が妙にヒリュウの心を揺さぶったが、そこは禁軍の将軍をも務める人間である。
 そういった感情の起伏は億尾にも出さず、ヒリュウは片膝をつき、その右手を左胸に当てて頭を下げた。
 それはこの国での最上級の敬意と忠誠を示す。
 つい先ほどまで自分をカヤと呼んでいた男のその姿に、蒼月の表情は一瞬だけ、人知れず苦しそうに歪んだ。

「今日は、良い気分転換になった。礼を言うぞ、将軍」
「……はい」

 蒼月の視線を感じつつ、ヒリュウは床を睨みつけるようにして返事をした。
 少しの沈黙の後、ヒリュウは立ち上がると蒼月に向かって言った。

「私のような者が申し上げるのも差し出がましいでしょうが、陛下は本当に少しお休みになられた方がよろしいかと存じます。お顔の色もとても悪い。何か美味しいものでも召し上がって、できれば数日、ゆったりとお過ごし下さい」

 差し出がましいと前置きをしておきながら、言いたい事を言うその物言いに、蒼月の表情が少しだけ揺らぐ。

「お前は……将軍でも何でも、全然変わらぬのだな」

 そう言った蒼月の表情は本当に寂しげで、ヒリュウは次の言葉を継ぐ事ができなかった。
 蒼月は自分の長い髪を指で梳きながら、そのままゆったりとした口調で話を続けた。

「そうだな。疲れているのかどうかはもうわからぬが、しばらくの間、ここに籠もって過ごすのも良いかもしれぬ。こんな事を言ってはまた王のくせにとお前達は思うのだろうが、今は正直、何も考えとうないのじゃ」