「来い、ヒリュウ」
「……はい」
開け放たれたそこから、少し肌寒いくらいの心地良い風が吹き込んでくる。
煽られた髪を抑えようともせず、露台に出た蒼月はその手すりに腰をかけた。
後に付いて露台に出たヒリュウが慌てて側に駆け寄った。
「おやめ下さい。落ちたらどうするんです」
「落ちはせぬ。ここでこうすると気分が落ち着くのだ。好きにさせろ」
「ですが……」
「好きにさせろと言っている。うるさいぞ、ヒリュウ」
そう言った蒼月の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
蒼月のこんな顔を見るのはいつ以来だろうかと、ヒリュウはその表情に釘付けになっていた。
いったい何を見ているのか、視線を逸らせた蒼月の双眸は遥か遠くに向けられ、風になびく長い髪が日に透けて光っている。
「陛下」
ヒリュウが声をかけると、蒼月は驚いたように振り返った。
その声があまりに穏やかで優しかったせいかもしれない。
だが蒼月の顔から驚きの色はすぐに消え、その代わりに何かを疑うように、訝しげに眉間に皺が刻まれた。
「……ここまで追いかけてきて、また国がどうとかいう説教をする気か?」
その言葉にヒリュウは思わず苦笑する。
まるで睨みつけるような蒼月の突き刺さる視線に、ヒリュウは笑みを浮かべて返事をした。
「まさか! お疲れなのではないかと先ほど申し上げましたのに、そのような事は考えてもおりません」
「ではなんだ?」
蒼月はまるで何かに脅えているように身構えて、それに続くヒリュウの言葉を待っている。
その姿は哀れなほどに疲れ果てていた。
そんな蒼月を間近で見てしまったヒリュウはその時、この人は王であること自体に疲れているのではないかと、何となくそんな気がした。
ヒリュウはゆっくりと首を横に振り、蒼月の座っているすぐ横の手すりに腕をついた。
「私は陛下の御身を護るのが仕事です。でも陛下はそうして危ない真似をしておきながら、好きにさせろと仰る。こちらの立場から申し上げますなら、ここは正直、陛下を抱きかかえてでも、そこから降りていただかなくてはならないところなのですが……」
蒼月はすぐ横にいる男が何を言い出すのかと黙って話を聞いている。
ヒリュウはそれを横目に見ながら話を続けた。
「仕事をさせてもらえないのであれば、将軍としてここにいる意味もあまりない。違いますか?」
「……何が言いたい?」
警戒するかのように蒼月が少し身構えると、ヒリュウは小さく微笑んで、その必要はないと首を振って言った。
「でしたら禁軍将軍としてではなく、ただのヒリュウとしてここにいる事をお許しいただけると……嬉しいのですが? 俺達、幼馴染みなんだからさ、カヤ」
カヤ、とは蒼月の本来の名でヒヅ文字表記では華耶、蒼月とは王の称号、呼び名だ。
ヒリュウの呼びかけに、蒼月が驚いて身を硬くする。
その拍子に体勢を崩しそうになった蒼月の腕をヒリュウが慌ててつかんだ。
「す、すまぬ」
「いえ、仕事ですから。やはり……きちんと勤めを果たしていた方が良さそうですね。申し訳ありません、陛下。馬鹿な事を申しました」
「か……っ、かまわぬ!」
「え……!?」
腕を離して一礼し、一歩下がろうとしたヒリュウの腕を今度は蒼月がつかんだ。
驚いたように顔を上げたヒリュウを、戸惑いながら蒼月が見つめていた。
「いや、その……久々にそう呼ばれたから」
戸惑ったヒリュウの顔に、優しい笑みが浮かぶ。
「カヤ……」
ヒリュウはまた蒼月に歩み寄り、そのすぐ横の手すりに頬杖をついて並んだ。
蒼月は別人かと見違えるくらいに穏やかな顔をして、ヒリュウの方を見て言った。