ワーキングホリデー 第3章 見つめる瞳

見つめる瞳


 当のヒリュウも、そんな二人の想いを感じていないわけではない。
 出来れば二人の優しい老官吏に心配をかけるような真似はしたくなかったが、それでもなぜか今回ばかりは、何かに突き動かされているような自分を抑えようとは思わなかった。

「また上まで上がんのか……」

 小さくつぶやいて三つ並んだその真ん中の塔を見上げると、その向こうに広がる空はどこまでも澄んで、透き通った風が吹き渡っていた。

 少しだけ見える露台に人影はないが、おそらくそこに蒼月はいる。
 ヒリュウが溜息を吐いて塔の中に入ると、少し冷えた空気がまとわりついてきた。
 着慣れない正装に身を包んだヒリュウにはそれが少し心地良い。
 一つにまとめた髪を窮屈そうに指でぽりぽりと掻くと、階段を上り始めた。

 行き交う女官達は、正装した禁軍将軍の姿を見つけると慌てて道を譲って膝をつき拝礼する。
 その度にヒリュウは何とも申し訳ないような気分になりながらも、労いの言葉をかけながら階段を上っていった。

 目的の部屋の前に着いた時、妙に疲れていたのは恐らく階段のせいだけではなかったろう。
 そう息が上がっているわけでもないのに心臓の音がやけに耳についた。
 少し着崩れた装束を手早く正し、呼吸を整えたヒリュウは、そのよく通る声で扉の中に向かって声をかけた。

「禁軍将軍ヒリュウ、先ほど申し上げました通り参上いたしました。お目通り願えますでしょうか、陛下」

 朝議の場でのやり取りではあったが正式に約束を取り付けての訪問ではない。
 どのような反応が返ってくるか、若干の緊張をもってヒリュウは返事を待った。
 じっと耳を澄まして部屋の中の気配を窺う。
 何か小さな物音がしたが、それも気のせいだったのか、中からは何の返事もなかった。

「誰か、どなたかご在室ではありませんか?」

 そう言って、ヒリュウは扉に寄り耳を近付ける。
 気だるそうな足音がゆっくりゆっくりと扉の方に近付いてくる気配があった。

 ――女官、かな?

 ヒリュウはニ、三歩退いて扉が開くのを待った。
 やがて、ゆっくりと扉が少しだけ開いた。
 そこから覗いた人物の顔を見て、ヒリュウは心底驚いた。

「……なんじゃ。お前か、将軍。いったい何事じゃ?」
「へ、陛下!」

 顔を覗かせたのは他ならぬ王、その人だった。
 ヒリュウは慌てて膝をつき、跪拝の礼を取った。

「こ、これは失礼いたしました。あの……女官達はどうなさったのですか?」
「あぁ、おらぬ。休みたいからと言って人払いした」
「そんな無用心な! 仰って下されば、こちらから人を遣しましたものを」

 王の近衛師としての勤めを担う禁軍の長としては、聞き捨てならないことだった。
 ヒリュウがそう言うのも当然だったが、蒼月はそんな事知らぬとも言いたげに、怪訝そうな顔をして言った。

「護衛の者などおったら、それこそ休まらぬ。疲れているようだと申したのはそなたであろう?」
「ですが……」
「もう良い。何か用事があって参ったのであろう? 入れ」

 そう言って蒼月はおろした髪をゆっくりとかき上げて、部屋の中へと消えて行った。

「では、失礼致します」

 ヒリュウは恭しくそう言うと頭を下げ、一応の礼をとってから入室した。
 静かに扉を閉め振り返ると、王、蒼月は長椅子に足を投げ出して寛いでいた。
 まるで時間が止まってしまったかのような静かな空間に王と将軍が二人きり。
 いつもとは違う緊張感にヒリュウが扉の前から一歩も動けずにいると、それに気付いた蒼月が視線だけを扉の方に投げかけて言った。

「なんだ、どうしたのじゃ? 何をそこで突っ立っておる」

 少し苛立ち混じりの問いかけに、ヒリュウは一瞬の間をおいて返事をした。

「いえ、その……どうも女官も誰もいないところで陛下にお会いするとは思ってもおりませんでしたから。なんというか……少々、勝手が違ってどうしたものかと」
「おかしな事を申す。そなた、近衛の筆頭であろう? 二人きりになったくらいでなんじゃ。これだけ広い部屋で気まずいも何もあるまい?」
「はぁ、それはそうですが……」
「……わかった」

 そう言って蒼月はゆっくりと立ち上がると、ゆるゆると歩き、露台へと続く扉を開け放った。