ソノイは溜息を吐きながらも、その背を笑って見送った。
ふと、背後に人の気配がしたかと思うと、それと同時にその人物が声を掛けてきた。
「さすがのソノイ殿も、ヒリュウ相手では調子も狂いますかな」
「これはこれは、ホウエン殿じゃったか。いやはや、お恥ずかしい」
「いえ、お気になさらずとも。私とて同じです。あやつを前にするとどうもいかんですな」
二人は目を細めてヒリュウの去った方を見やる。
笑みを含んだその眼差しは、やがて暗い光を帯びて沈んでいく。
先に口を開いたのはホウエンだった。
「ソノイ殿の目にはいったい、どう映りますかな。今のヒリュウは」
やはりそうかと言った風にソノイはゆっくりと頷いて言った。
「そうじゃな。ヒリュウがどうと言うよりは、自分の無力さを感じずにはおれんのぅ」
「……私もです、ソノイ殿」
「ホウエン殿……」
ホウエンは武官として長いことヒリュウの成長を見守ってきた。
だが、上司であること以上にヒリュウを影で気にかけている。
宮中での様々な約束事や作法など、ヒリュウにあらゆる教育をしてきたのはホウエンだった。
ある時、軍の最前線に突然現れたヒリュウは、後々語り草となる程に数多くの武功を上げ、名のある武官達を唸らせた。
無茶ばかりするヒリュウの真実を見抜いたザインがその事情をソノイに話し、ソノイはまだヒリュウが土使いであるという事以外、その出生も、素性すらもよくわからないうちからヒリュウを信じ、その後見人を秘密裏に買って出たのだった。
今ヒリュウがこうしていられるのも全てソノイのおかげと言っても良かった。
ソノイやホウエンの信用や期待に応えるべく、誰にも気付かれないところで常軌を逸しているとすら思えるほどの努力をしてきたヒリュウは、しばらくすると当然のように頭角を現してきた。
それはヒリュウ自身が自らの力で勝ち取ってきたことで、まさかヒリュウの後ろにソノイという大物官吏がいようなどとは、誰一人思いもしなかった。
ソノイもホウエンも、ヒリュウを長い間影で支えてきたのだ。
そしてずっと見守ってきた二人だからこそ、わかることがある。
ヒリュウは歩く道があるうちは自ら考えて動くことはない。
いや、正確には考えないわけではなく、そういう面での優れた嗅覚でもって事態を把握し、進むべき道をその天性の勘でもって選び取り、進んでいくのだ。
本人がそれに気付いているのかどうかは不明だが、彼はいつでもそうしてきた。
そしてそのヒリュウが自ら考えて動きだす時、それは進むべき道が全て閉ざされてしまった時だった。
「我々にはもう、あやつの先を歩いてやる力すらないのじゃろうか」
「これまでだって、先を歩いていたのかどうか……ずっと、見守ってやることしかできなかったように思います」
ホウエンの言葉にソノイが寂しそうに頷く。
「ホウエン殿。あやつは進もうとするその先に、いったいどんな未来を見ておるんかの」
「あいつが切り開いて進む道です。間違いはありますまい。ただ……」
躊躇うようにホウエンが言葉を切る。
ソノイはその先を承知しているかのようだったが、それでもぽつりと問い返した。
「ただ?」
ホウエンは澄み切った空を見上げて、苦しそうに歪んだ笑みを浮かべた。
「ただ、今日私が、あいつの策に一枚咬んだ事を後悔する日が来ない事を願います。また無茶をしなければいいが……と、そう切に思います」
ホウエンの視線を追って、ソノイも空を見上げた。
「そうじゃの。ほんに、その通りじゃの……」
ヒリュウを想う二人の言葉は響きは小さくとも互いの心をひどく揺さぶり、その足元には影が二つ、寂しげに小さく並んでいた。