ザインが悔しそうに考え込み始めた。
直接王に進言できる朔という称号を持つ身でありながら、自分の生まれ育った街のために何もできない自分が許せないからだ。
ヒリュウは親友とはいえ、その出身は山間にあるホムラという郷でライジ・クジャではない。
だが、そんな風に考えてしまうザインの事を一番よく理解していた。
今でこそ禁軍将軍という地位にいるヒリュウも、昔はただの兵士の一人に過ぎなかった。
クジャの東に位置するヒヅ皇国という大国と国境付近で、数年に渡り小競り合いが耐えなかった頃、ある日突然その最前線に飛び出して行ったのがヒリュウだ。
ヒリュウは、とある特殊な能力を持つイルという一族の血を受け継いでいる。
育て親の教えによりそれを公言してはいないが、それをいち早く見破ったのが当時朔付きの文官で戦場まで遣い走りに出張ってきていたザインだった。
前日に深手を負ったはずのヒリュウが怪我をもろともせずに戦場へと赴く様を見て、不審に思ったザインがヒリュウを呼び止めたのが始まりだった。
別室にヒリュウを呼びザイン自ら確認すると、救護班の手によって巻かれた包帯の下は、もう傷跡すらほとんど見えなくなっていた。
黙り込むヒリュウをザインは責めようともしなかった。
ヒリュウは覚悟を決めて、自分の正体を全て明かし、証拠となる首飾りもザインに見せた。
ザインはその首飾りに着いた勾玉を手にして一瞬その顔に驚愕の表情を浮かべたが、すぐにそれは怒りすらも混じったような厳しい表情へと変わった。
土使いであるヒリュウに向かって、ザインは片膝をついて最高位の敬礼をすると、ゆっくりと立ち上がり、ヒリュウを見下ろすような体勢でまっすぐに見据えて言った。
「自分が何者かわかっているのであればなおさら、自分を大切に…お前の命はお前だけのものではない。それにこの際言わせてもらう。こうあるべきだと押し付けるつもりはないが、土使いの命の火が人より長いからと言ってむやみに前線へ飛び出ていくのは感心しない。傷を癒す能力があるにしてもだ。お前に庇われた者達が、目の前で自分の代わりに切られたお前を見てどう思うか、お前は少しでも考えた事はあるか? その者達は血こそ流さずに済むだろうが、お前に負い目を持つ、心に傷を負う。それはお前の能力をもってしても癒す事はできない。周りの者達を護りたいと思うのであれば、お前はお前自身の事も大切にしろ」
その時ザインに言われたこの言葉が、それ以降のヒリュウを作ったと言ってもいい。
その後ヒリュウは生まれ変わったかのように頭角を現し、そしてついには現在の職、禁軍将軍にまで上り詰めたのだ。
自分の横でライジ・クジャの街を見つめるザインをの暗い顔を見て、ヒリュウは自分を変えた男の言葉を思い出して小さく笑みを浮かべた。
ザインの事を一番理解しているのがヒリュウならば、初めて言葉を交わしたその時から、ザインはヒリュウの一番の理解者である。
ヒリュウがそのザインの肩にポンと手を置いた。
「ここでお前が頭抱えてたって、この街はどうにもならねぇよ。そう悩むな、ザイン」
「ヒリュウ…」
「俺だって今はこの街の人間だ。この状況をどうにかしたいって気持ちはお前と変わらんよ」
ハッとしたようにザインはヒリュウを見て、冷静さを取り戻したようだった。
「あぁ、そうだな」
ふっと破顔したザインに、ヒリュウも安心したように微笑み、穏やかな声で言った。
「昔の話をもっと知りたいな。この国の歴史や、いろいろな事を…ホムラの郷塾でも聞いたような記憶はあるんだけどな。困った事にその中身はほとんど記憶にない」
「書物ならいくらでも貸すぞ。宮の俺の部屋にも、うちにもそういった類の本や巻物が溢れてる」
「いや、いいよ」
ヒリュウが苦笑した。
「なんだ? 知りたいって今言っただろう?」
「読むよりお前に聞いた方が早い」
ザインが噴出した。
「なんだよ、それ? 威張っていうような事か?」
「違う。今から読んでるようじゃ、読み終わる頃には都は砂漠になってるって言ってんだよ」
ヒリュウにふざけたような様子は微塵もなく、その真剣な眼差しの先にはライジ・クジャの街があった。
「俺が今やらなきゃならんのは、書物を読むことじゃない。足りない知識はお前からもらうとして、俺は俺で、俺のやるべき事を探すよ」
その視線を動かしもせず、ヒリュウは言葉を続ける。
「そうか…」
ザインの顔に安心と驚きとが同時に浮かんだ。
「単純馬鹿かと思ったら、案外ちゃんと考えてたんだな、ヒリュウ」
ザインが冷やかすように言うと、ヒリュウもそれに答えた。
「何でもかんでも一人でどうにかしようっていう馬鹿がいるからな。俺だって嫌が上にも考えるようになるさ」
ザインは苦笑した。
「お前、本当に変わったな。昔はもっと無茶ばかりしてたのに」
「変えるような事を言ったのはお前だろう? 俺だってそれなりの人間にはなったつもりだよ」
ヒリュウが言うと、ザインは何かまだ言いたげな顔をしたが、ふぅっと溜息を吐いてヒリュウの視線を追ってライジ・クジャの街に目をやって言った。
「そうだな…俺一人じゃ、もうどうにもならないよ。この街も、この国も」
黙ったままで街を見つめる二人の視界を、王宮の方へ向かって飛ぶ赤い影が横切った。
「…王と朱雀殿のおかえりだ」
ヒリュウがその赤い影を目で追って言った。
「俺はもう今日は帰るから。また明日、言うだけ言ってみるさ」
「だな。俺もなんだか国境兵を突きまくって疲れたよ。帰って寝るわ」
二人は顔を見合わせると、騎獣の繋いである山桜の木に歩み寄った。
「そうだ、ヒリュウ。こいつらを宮に返した後、うちに夕飯を食いに来ないか?」
騎獣の背にまたがり、その金色の背を撫でながらザインが言うと、ヒリュウは嬉しそうに笑いながらも首を横に振った。
「いや、遠慮しとくよ。俺はいいから、お前は早く嫁さんのところに帰ってやれよ」
「そうか…」
ザインは少し残念そうにそうつぶやくと、手綱を握り、騎獣の腹を軽く蹴った。
「そういう事なら急いで帰らせてもらうよ。じゃ…ヒリュウ、また明日!」
そう言って手を上げると、ザインは夕闇の迫る薄暗い空に向かって、風と共に駆けて行った。
一人残ったヒリュウはただぼんやりとその姿を目で追いながら、その先にあるライジ・クジャの街を見つめていた。
「わかってんだろう? ザイン…問題は、問題なのは蒼月なんだよ。あの王じゃ…あの王を何とかしなけりゃこの国はこのまま……」
ヒリュウはそうつぶやいて、しばらくの間、その場を動こうとはしなかった。