届かない声


 晴れ渡った空も、西の方から少しずつ橙色に染まり始めていた。
 静まり返っていた塔から外に出ると、いつの間にか少しだけ涼しくなった夕方の風がザインの髪を揺らして通り過ぎて行った。

 夕刻ではあるが、まだ家路を急ぐような時間でもない。
 正面にある大門に向いていた足を止め、ザインは自分の執務室がある三階層造りの棟の方へと歩き出した。
 すでに髪を下ろし、一目見ればもう仕事を終えて帰途にある事は明らかであるにも関わらず、すれ違う宮仕えの女中や役人達がみな丁寧に礼をして通り過ぎていく。
 その度にザインは足を止め、朔としてその者達に労いの声をかけて歩いた。

 歩いては立ち止まり声をかける事を何度も繰り返し、やっと辿り着いた棟にザインが入ると、先ほどまでいた塔の静けさが嘘のようにあちらこちらに人の気配があり、それぞれが忙しそうに動き回っていた。

 この棟は左右が全くの対称に造られており、その内部も通用口からまっすぐに貫く最上階層まで吹き抜けた廊下を中心に、その全てが左右対称に作られている。
 入り口から入った状態で右側が朔の執務室を中心に各部署の文官の長達が執務を行っている部屋が並び、その逆の左側は禁軍の詰め所を中心として、武人達が使用している部屋が並ぶ。

 つまりこの棟は、この国を動かす中枢とも言えるのだ。
 だからこそ、各部署が王の対応を待って手詰まりとなって動けない中、ここだけがその辻褄合わせなどの雑務に追われて絶えず忙しいのだろう。
 朔を見つけても、軽く会釈をする程度で足早に通り過ぎていく部下達を目にして、ザインは何ともやりきれない気持ちになっていた。

 ザインは執務室へ向かう右側の階段に背を向け、左側の階段を上り始めた。
 向かったのは、左側の二階層目にある禁軍の詰所である。

「ヒリュウはいるか?」

 ザインが詰所の入り口から顔を覗かせると、禁軍兵士達はスッと立ち上がって敬礼をした。

「あぁ、もういいよ。今日はもう仕事は上がったんだ」

 そう言うと、慣れた様子で中へ入って行った。

 ザインは文官で、武人の集団である禁軍に籍を置いた事はなかった。
 文官と武官は昔からどこか相容れず、互いに他者を馬鹿にしているようなところがあるのだが、朔だけは違った。
 機転を利かせた朔の働きにより、幾度となく助けられ、待遇も以前より格段に上がっている。
 そういった事情があり、さらには現禁軍将軍のヒリュウと十年来の親友でもあるザインは、普段からこの詰所にも頻繁に顔を出していた。

 軍部の中で、一騎当千とも言われる選りすぐりの兵達が集まる国王直属の軍団、禁軍。
 その禁軍の中でも、ヒリュウはさらに抜きんでている。
 強さのみならず、その人柄をもってしてもヒリュウの人望はとても厚い。
 そのヒリュウの親友というおかげで、ザインは文官でありながら武人の集団であるこの禁軍においても一目置かれる存在となっていた。

「朔殿、今日はどう言った用件で?」
「だからさ、もう仕事は終わったんだって。ザインでいいよ」
「いや、そうは仰られても…」

 この国において、朔と言えば、王の片腕として、いや現在の状況では実質この国の政治を動かしているも同然の存在である。
 例え仕事を離れたとはいえ、やはりその存在の大きさは絶対的なものだった。

「まぁいいけどね。で、ヒリュウは?」

 ザインはヒリュウの使っている文机に腰掛け、もう一度聞いた。

「将軍はまだお帰りになっていません」
「そうか…また内紛の鎮圧か?」

 思わず眉間に皺が寄ってしまったザインに、兵士の1人が答える。

「いえ、今日はルゥーンとの国境いにあります国境警備の部隊の指揮に…」
「ヒリュウが? なんでまた…」

 不思議そうにザインが聞き返すと、その兵士は申し訳なさそうに小さな声で言った。

「大変申し上げにくいのですが…あの、暇で死にそうだからとおっしゃって……」

 まるでその兵士自身が何か悪い事でもしたかのようなその言い様に、ザインは思わず噴出してしまった。

「……禁軍将軍が自ら国境警備の指揮か。国境警備の連中の恐れおののく顔が見たかったな」

 文官の頂点にいる朔が現れたことで少し張り詰めていた詰所の空気が、しだいに緩んで場が和んできた。
 ザインはそれを感じ取って、そのままそこに居座り話を続けた。

「お前達も大変だなぁ、あんなヤツを将軍として頭に……」

「誰があんなヤツだ、ザイン」

 悪態の1つもついてやろうとザインが話を始めたその言葉を遮って、日に焼けた精悍な顔立ちの男が詰所の入り口から顔を覗かせた。