札幌 中古住宅 序章 運命の子

運命の子


『飛竜』

 たった二文字。
 筆を使って書かれた、力強い見事な文字だった。

「読めるか? ヒリュウ」
 ユタに訊かれて、ヒリュウはひょいっと首を傾げる。
「いんや。でも…これ、ヒヅ文字だろ?」
 ヒリュウの言葉に、ユタは感心して嬉しそうに頷く。
「そう。ヒヅ文字でヒリュウと書いてある。お前の名前だよ」
「俺の!?」
 驚いたようにそう言うと、ヒリュウはその二つのヒヅ文字を食い入るように見つめている。

 ユタはさらに話を続けた。

「それはな、お前の父さんが書いたもんだ」
「俺の父さん? 俺にも父さんがいたのか?」

 紙切れから目を離そうともせずにそう言うヒリュウの声は、興奮で上ずっている。
 ユタは笑いの混じった声でヒリュウに告げた。

「そりゃぁいるだろうよ、父親も、母親も」
「母さんもいるのか!? なんだ、俺も郷塾の皆と同じなんじゃないか!」

 最近では難しい話も大分理解できるようになったヒリュウの、何ともとぼけた発言にユタがたまらず噴出した。

「ははは、お前、おかしな事を…親が今いないからと言って、父と母がいなかったらどうしてお前はここにいるんだ、ぁあ?」
「それは…わかんねぇけどさ。俺、皆と何か違うしさ、何も覚えてないから…」
「はは…は、そ、そうか。それは笑ったりして悪かったなぁ、ヒリュウ」
「いや、もう別に、そんなん慣れた」
 そう言って、ヒリュウはまた紙切れをじっと見つめている。
 ユタは笑ってしまった事を後悔しながら、優しくヒリュウに声をかけた。
「慣れたって、お前そんな…」
 申し訳なさそうに言うユタの言葉をヒリュウの言葉が遮った。

「俺にも親いるんなら、もうどうでもいいや。ユンタもそんな顔して俺を見るな」

 ヒリュウに言われてユンタが苦笑する。

「そうだな、馬鹿な爺だな、困ったもんだ」
「そうだ。困った爺だ、ユンタは…だから…」

 ヒリュウが気まずそうに言葉を飲み込むのに気付いて、ユタが腰を曲げ、身体をさらに小さくして首を傾げる。

「だから、どうすればいいんだい?」

「だから父さんと母さんの事、俺に教えてくれ」

 目を逸らしてそう言ったヒリュウに、ユンタはまた目を細めてゆっくりと頷くと、そのまま静かに口を開いた。

「お前の父さんは、ヒヅの人間でな。そりゃぁ勇敢な、イルの戦士だった男なんだぞ。イル族については、お前も耳にした事があるんじゃないかな?」

 ヒリュウは少し考えて、首を横に振った。

「そうか…幻の一族なんぞと言われておるからなぁ。でも確かにイルは存在する。お前にも、その血が流れておる」
「俺にもか?」
 驚いて顔を上げるヒリュウに、ユタが静かに頷いて応える。
「あぁ、お前にもだ、ヒリュウ。お前さっき、怪我を治して見せただろう? あれがイルの力だ。イルは治癒能力を持っとると言われるが少し違う」

 ユタの顔にふっと厳しい表情が浮かび、ヒリュウが緊張した面持ちでそれをのぞき込む。
 それを見て、ユタは手招きしてヒリュウを膝がぶつかるくらいまで近くに呼び寄せた。
 不思議そうに顔を見上げてくるヒリュウに向かって、ユタは小さな声で話し始めた。

「いいか、これは内緒話だ。誰にも言うな、絶対に気付かれるな。それこそな、いっそ忘れてしまってもいい。どうだ、ヒリュウ。できるか?」

 ヒリュウはごくりと息を呑み、できる、と小さな声で囁いた。
 ユタは寂しそうな笑みを浮かべ、また口を開いた。

「イルはな、自分の寿命とひきかえに傷を癒す。自分の傷だけじゃない、他人の傷や、病まで癒すことができる。さっきみたいな小さな怪我ならそれこそ瞬きくらいの一瞬の自分の命と引き換えで済むが、重い病やひどい怪我ではそれ相応の代償を伴う。わかるか?」
 ヒリュウは蒼い顔をして頷いた。
「医者を営む者もいるが、イルはな、お前の父もそうだったが、イルは…特にイルの男はな、戦士として戦場に駆り出されるんだ。命のやり取りができる種族だからな。戦いに出られる年頃と言ったらだいたい限られておる。死にそうな者がおればその者から残りの命の火を奪い、他の者に分ける。命を継いでいくといえば聞こえはいいが…さらには自分の傷も自分の命を削って癒す。なぜイルが戦士として重宝がられているか、十にもなったお前にならわかるな?」

 震えるヒリュウの手をユタがしっかりと握ってやると、ヒリュウは血の気の引いた顔に、にこりと引き攣った笑みを浮かべてみせた。

「いいか。イルである事は知られてはならない。他人の命を大切にできないような者のために自分の命を削るような道だけは、お前に歩いてもらいたくないんじゃよ」
「と…父さんは? 父さんはどうだったの? さっき勇敢な戦士だったって言ったよね?」

 ユタはヒリュウの手を擦りながら、穏やかに言った。

「お前の父さんは、お前の母さんにその命の残り火全てを託してこの世を去った。そうして助けられた事で、お前はこの世界に生まれてきたんだ」
「…母さんは病気だったの?」
「いや、そうじゃないが、身体は丈夫な方ではなかったかな。でも、明るくて賑やかで強い女だったぞ」
「ふ〜ん、そうか…」
 血の気の戻って来た顔を、さらにほんのり赤く染めてヒリュウはつぶやいた。
 そんなヒリュウに、ユタは箱の中から取り出した手作りの小さな巾着袋を手渡した。

「これは? 俺の?」

 ヒリュウがそれを両手で受け取り、見た目よりも重さのある袋の中身を想像しながら掌の上でぽんぽんとはずませる。

「見てもいい?」

 ユタが頷いたのを見て、ヒリュウは嬉しそうに袋の口を縛った紐を緩める。
 袋の底をつまんでひっくり返すと、中からきれいに磨かれた勾玉が転がり落ちてきた。
 ユタの表情に緊張が走る。
 ヒリュウは袋の中に一所に入っていた革紐を、勾玉の穴に通し、その紐の先を首の後ろで結わいて首から提げた。

「これは母さんの形見か何かか?」

 嬉しそうに言うヒリュウにユタは首を振り、そしてその勾玉をヒリュウの胸に突きつけるように指差して言った。

「ヒリュウ。これはお前が母さんの腹の中から出てきた時に握り締めていたもんだ。とても特別な石で…名前も、ある。『黄龍の涙』という名が…」

 ユタの言葉にヒリュウの顔からまた血の気が失せる。
 そんなヒリュウをしっかりと抱き寄せて、ユタは静かに言った。

「大きな運命を背負って生まれきた子、ヒリュウよ。お前は、土を司る者としての運命を、この小さい手にしっかりと握り締めて生まれてきたんだよ」
 あまりに大きな運命の前で、驚き、怯えて震えるヒリュウの体を、ユタはしっかりと抱きしめた。
「大丈夫…大丈夫だぁ。ヒリュウ、お前ならそんな運命に弄ばれることなく、自分の足で、しっかりと歩いていけるさぁ。大丈夫だよぉ…」
 ユタは小さな背中を優しく擦りながら、何度も何度も呪文のように繰り返しては、ともすれば流れ落ちそうになる涙を、ヒリュウに見つからないようにと必死にこらえていた。


 その夜、ヒリュウは夢を見た。
 見た事もない砂ばかりの土地にある、石造りの暗い神殿。
 その一番奥の祭壇には、不自然なまでに頑丈な鉄格子の門がある。
 中には何もないように思えるが、辺りに漂う気は総毛立つほどに強烈だ。
 その門の前に立ち、何者かと言葉を交わしている自分がいた。

 ――誰だお前は…名はなんという?

「俺の名はヒリュウ……」

 夢とは思えぬその感覚に恐ろしくなって飛び起きたヒリュウの汗ばんだ手の中には、今日手渡された『黄龍の涙』の首飾りがしっかりと握り締められていた。
 震える手でそれをさらに強く握り締め、嗚咽を必死にこらえるヒリュウの耳に蘇ったのは、呪文のように何度も繰り返されたユタの祈るような囁きだった。

 ――大丈夫だ、ヒリュウ。運命はいつでもお前の掌の中に…大丈夫、大丈夫だよ…――