国内旅行 高級賃貸 マンション 序章 運命の子

運命の子


「ユンターッ! ただいまーっ!!」

 引き戸が勢いよく開かれて、傷だらけの少年が飛び込んでくる。

 山間のホムラ郷には郷塾という独自の教育制度があった。
 そこでは郷の子ども達が、読み書きから国の仕組みなど、様々な事を学んでいた。

 毎朝、家を飛び出していくこの少年は、その帰宅もそれはそれは賑やかだったが、この日はまたひときわ騒がしかった。
 いったい何ごとかと奥から出てきた老人の顔から、思わず笑みがこぼれる。

「ユタだと何度言ったらわかるんだヒリュウ。今日はまた一段と元気がいいなぁ、おい…」

 そう言って、ヒリュウと呼んだその少年を目を細めて愛おしそうに見つめると、棚から餡のたっぷり詰まった餅を出してやる。
 土間に座り込んで餅に手を伸ばしたヒリュウを、ユタが先に手を洗ってくるようにとたしなめると、ヒリュウは滑稽なほどに肩を落として泥だらけの小さな手を引っ込める。
 持っていた郷塾の教本を無造作にそこらに放り、ヒリュウは大急ぎで手を洗って戻ってきた。

「これなら食べてもいいか?」

 得意そうに笑って育ての親にきれいになった手を翳す。
 ユタが頷くと、ヒリュウは待ってましたとばかりに餅に手を伸ばした。

「おい、ヒリュウ。その膝ぁ、どうした? それにほら、そっちも…ずいぶん派手にあちこち怪我をしとるようだが?」

 まだ血の滲む膝を指差しユタが言うと、ヒリュウは目を逸らし、ばつの悪そうな顔をして言った。

「木から落ちた」
 その不貞腐れた横顔を見て、ユタが愉快そうに笑う。
「木から落ちたか! やれ、間抜けな猿もいたもんだ。ほら、見せてみぃ」
 濡れた手ぬぐいでも用意しようかとユタが立ち上がろうとすると、ヒリュウが慌ててその袖口を掴んでユタを引き止めた。

「いい、手ぬぐいも何もいらねぇ」
「何を言っとるんだ、ヒリュウ。その膝、血も滲んどる、まだ泥もついて…」
「いいからいいから。まぁ見てなって」

 そう言って、人差し指を鼻にあててしゅるるっと啜る。
 座りなおしたユタが、言われるがままにヒリュウの膝を見ていると、気のせいだろうか、少しずつ怪我が治っているように見える。

「おい、ヒリュウ…」
「いいから…もうちょっと……」

 きらきらと光る瞳は、その膝の傷をじぃっと見つめている。
 やはり傷が治癒しているように見えるのは気のせいではなく、気が付くと血の滲んでいたはずの傷口はきれいさっぱり消えてしまっていた。

「ヒリュウ…」
「な? すげぇだろ? 少し前からさぁ、なんか傷が治るのが早いなぁって思ってたんだけどさ。ひょっとしてっと思って試してみたんだ」

 晴れ晴れとした表情で誇らしげに話すヒリュウとは対照的に、ユタの顔は苦しそうに歪み、長い年月で刻まれた皺がより深くその顔に影を落としていた。
 褒めてくれるどころか怒っているようにも見えるユタの顔を、ヒリュウが戸惑った様子で見上げていると、ユタはおもむろに立ち上がり、先ほどヒリュウが開け放った入り口の引き戸をぴしゃりと閉め、さらには閂までもかけてしまった。

「ユンタ?」

 不安そうに声をかけるヒリュウに、ユタはまたいつもの優しい笑顔に戻って言った。

「奥の部屋へ…」

 多くは語らず、先に立って歩き出した老人の後を、食べかけの餅ののった皿を持ったヒリュウがついていく。
 ユタに言われた部屋にヒリュウが入ると、ユタはあるはずのない人の目をさっと確認し、その部屋もまたぴしゃりと閉め切ってしまった。
 わけもわからずヒリュウは腰を下ろし、一つ目の餅を残り全部、一気に口の中へ押し込んだ。

「あいかわらず、落ち着きのない子どもだなぁ…ヒリュウ、お前いくつになった?」
「…?」
 頬張った餅で声が出せず、ヒリュウは両手をひろげて自分の年をユタに伝える。

「そうか。お前も十になったか」

 部屋に入ってから未だ座ろうともしないユタは、そう言った後、部屋の柱を何やらごそごそ弄り始めた。
 押し込めるには少しばかり大き過ぎた口の中の餅を苦しそうにもごもごとやりながらも、不思議そうに見つめるヒリュウの視線はユタの手元に釘付けだった。

 しばらくすると、ごりごりという音がして、柱の一部がぽっかりとはずれた。

「ぅわ!」

 興味津々の好奇の視線の先には、先ほどまで柱の一部だった木製の箱があった。
 ユタはそれを大事そうに抱えてヒリュウの側まで来ると、向かい合うように座り、二人のちょうど真ん中に、持ってきた箱をとんと置いた。
 ヒリュウは二つ目の餅を頬張りながらも、目と鼻の先に置かれたその箱にちらちらと視線を投げる。
 その様子をじっと見つめていたユタが、おもむろに口を開いた。

「ヒリュウ。お前にいくつか話しておかなくてはならない事がある」

 いつも優しいユタの重く低いその声に、ただならぬものを感じたヒリュウが大きな音をたてて餅を飲み込んだ。

「何? どうしちゃったんだよ、ユンタ。俺に話って何?」
 そう聞いてきたヒリュウの顔が緊張で曇る。
 ユタはハッとして静かに苦笑すると、いつものように穏やかな口調でヒリュウに語りかけた。
「んー? 話か? そうだなぁ、いろいろあるぞ。何から話すかな」
 少し安心したのか、嬉しそうに餅を頬張っているヒリュウが、ユタを見て笑みを浮かべた。
 ユタはまずヒリュウを見つめると、箱の中から一枚の色褪せた紙切れを取り出した。

「何だそれ?」

 餅取り粉のついた手をぱんぱんと叩き、自分の服でささっと拭うと、ヒリュウは遠慮する様子もなく当然のようにユタの方に手を伸ばしてきた。
 ユタは眉尻をひょいとあげて、いたずらをする子どものような笑顔でヒリュウの手の届かないところまでその紙切れを高く掲げる。

「ぁあっ! 何だよ、もったいぶって!!」

 頬を膨らませて拗ねるヒリュウに、ユタは紙切れを広げて差し出した。
 奪い取るようにそれを受け取ると、ヒリュウは小難しい顔をして、その紙切れに書かれた文字をじっと見つめた。