前夜


「…ん?」

 怪訝そうに顔を上げたユウヒの前には男が一人立っていた。
 塔から漏れてくる灯りが逆光になって顔が見えない。
 ただその影の姿形には見覚えがあった。

「…スマル?」

 ユウヒが声をかけると、その影はゆっくりと一歩前に出た。
 足下の砂利がじりりっと音を立てる。

「おぅ。案外早かったな、ユウヒ」

 影の正体はスマルだった。

「サクをジンのところに置いてきたからね。出なきゃ帰れないよ…で、スマルはどうしたの?」
「あ、あぁ…」

 ユウヒが不思議そうに訊ねると、スマルは何か思い出したようでばつが悪そうにユウヒから目線を逸らすと、耳の後ろをぽりぽりと掻きながら言った。

「頼まれたんだよ、お前んとこの…何てったっけな。あのちょろちょろっとした…」
「ちょろちょろ?」
「女官だよ、ほら…」

 ユウヒの顔に思わず笑みが浮かぶ。

「あぁ、ヒヅル?」
「それだ」

 ユウヒが名前を言うと、スマルは一瞬俯いてから顔を上げ、口を開いた。

「なんか俺に用事があったんだろ?」
「…なんでそれを言うのに、あんたそんなに照れてんの?」
「ぃえぇっ!?」

 たじろぐスマルにユウヒが怪訝そうな顔でさらに言った。

「ぃえぇじゃないでしょ。あぁ…ヒヅルだね?」
「うっ…」
「やっぱりそうか。あぁいうのも郷を出て以来だねぇ…ま、郷にいる時にはあんたのそんな顔見られるとは、思ってもなかったけど」

 ユウヒが笑みを浮かべると、スマルが詰めていた息を一時に吐き出して、溜息混じりに言った。

「急ぎの用事なら帰ってからお前の方からこっちに来るだろうからって言ったんだけど、ヒヅル、だっけ? 聞いてくんなくってさぁ、いや、本当にまいったよ」
「スマルでもあしらえなかった?」
「俺でもって何だよ、人聞き悪ぃな。しかし…なんだかなぁ、えらい励まされちゃったぞ、俺」

 スマルがユウヒを見下ろして言うと、ユウヒがその先を促すように首を傾げた。
 するとまたスマルが盛大に溜息を吐いて、ばつが悪そうに力なく笑った。

「だってさ、こうだぜ? 大丈夫でございますよ、スマル様! ユウヒ様は絶対に戻ってこられますから!! 外でお待ちになって下さいませ、必ず帰ってきますから! 私はスマル様の味方ですから、何かございましたら何なりとおっしゃって下さいませ!!」

 ヒヅルの口調の真似をして、まくし立てるように言うスマルの言葉にユウヒがたまらず笑いだした。

「あははははははっ、そりゃ…そりゃぁ大変だったね、スマル! あははははは…」
「笑いごっちゃねぇよ。俺はダメだ、ヒヅルって女官。なんかもう絶対かなわねぇって思った」
「あはははははは…」

 ユウヒはスマルの肩に手を置き、腹を抱えて涙を流すほど大笑いしている。
 スマルはがっくりと肩を落として、ユウヒの笑いがおさまるのを待った。

「あはは…は、あぁ、ごめん…はぁ…で、言われた通りに待ってたのはなんで?」

 時々咳き込むほどに笑い続けたユウヒが涙を指で拭いながら言うと、スマルは思い出したように真顔に戻って言った。

「あぁ、リンが明日からホムラに帰るんで、俺も少しだけ城を空けるんだよ。だからもし急ぎの話があるんなら今夜中に聞いておかないと…って、どうした?」

 ものの一瞬で、ユウヒの顔から笑みが消えた。
 まるでスマルの言葉を聞いていないかのように俯いて動かなくなったユウヒに気付き、スマルは話を止め、身体を屈めてユウヒの顔を覗きこんだ。
 目が合うと、何かを思い詰めたような表情のまま、スマルに力なく笑いかけてきた。

 ユウヒがこういう態度でいる時、スマルは普段以上にユウヒに対して働きかけるような素振りは見せない。
 だがこの時は珍しく、そんなユウヒに向かって口を開いた。

「…お前の話って何?」

 体勢を直したスマルが、ユウヒの肩に手をおいて小さく言うと、ユウヒはハッとしたように顔を上げてぼそりと答えた。

「…ここじゃまずい」
「そっか…こっちもだ。じゃ、どうすっかな…とりあえず場所は変えよう」
「お前の部屋でいい、スマル」

 ユウヒがそう言って歩き出すと、その腕を掴んでスマルが引き止めた。

「いや、俺の方はまずい。一応ホムラ様の護衛ってんで、リンの部屋と同じ塔の中だからな。階層は違うが周りにそれ相応の連中の部屋がある」
「そうか…じゃ私の部屋で」

 そう言ってまたユウヒが歩き出そうとすると、その腕を掴んだスマルの手にまた力が籠もる。
 ユウヒが何事かと振り返ると、スマルが困ったような顔でユウヒの方を見ていた。

「何?」

 ユウヒが言うと、スマルは大きな溜息を吐いてユウヒの腕を離した。

「何でもねぇ…行こう」
「うん…」

 二人は並んで歩き出した。