「カナンをご存じなんですか?」
「え? あぁ、知ってるよ。ここへ来てすぐにリンの世話をしてるからって挨拶に来てくれたから。その時にリンが体調を崩してるってのも教えてくれたんだよ」
その言葉を聞いてサクがまた髪の毛を触り始めた。
「あ、考え事だ」
思わずユウヒが言うと、サクが不思議そうにユウヒの方へ視線だけを投げてきた。
「あれ、気付いてないの? 髪の毛こうやってするよ、考え事してる時」
ユウヒがそう言ってサクの真似をして自分の髪を触ってみせると、サクはハッとしたように髪を弄る手を止めてにやりと一瞬笑みを浮かべ、またすぐに真顔に戻りあれこれと考えを巡らせ始めた。
そして思い出したように立ち上がり、向かい側の椅子に座りなおすと、また卓の上に足を投げ出して大きなため息を一つ吐いた。
「どうしたの?」
ユウヒが訊くと、サクは腕組みをして背もたれにゆったりと寄りかかった。
「いや、スマルが呼ばれたのはそのホムラ様の体調不良が関係しているのかなと思ったから」
「うん…」
相槌を打つと、サクも頷いて話を続けた。
「ホムラ様は王の即位の日の十日前から神託の祠に籠る事になってるんだけど…その日までには戻るからと、どうやら故郷に、ホムラ郷に帰りたいと言っているらしいんだよ」
「え? リンが?」
「そう聞いてるよ」
サクの話を聞いて、ユウヒはあの日、カナンに何気なくいった自分の言葉を思い出していた。
――できれば…何か起こる前に、リンをホムラに帰したい。
カナンはユウヒの言葉をリンに伝えたのだろうか?
それともリンが自ら言い出したのだろうか?
ユウヒはリンに会いたいと思った。
まだ自分が王で、リンがそれを知っているとわかった状態では話をした事がなかった。
会ってまともに話ができるかどうかはわからないが、ユウヒはそれでもリンに会わなくてはならないと考えていた。
「サク」
「ん?」
「リンと話がしたいんだけど、そういう手配みたいなのって誰に言えばいいの?」
妙に思い詰めた顔で言うユウヒに、サクはいつもより少しだけ穏やかな声で言った。
「俺が手配しておくよ。明日の夜あたりで話をつけておくけど、それでいい?」
「本当に? 助かるよ」
ユウヒが嬉しそうにそう言うと、サクはゆっくり頷いて言った。
「じゃぁ時間が決まったらあとで知らせる。それと、ユウヒ、あんまり頑張りすぎるのもどうかと思うよ。ほどほどでいいからね」
「え? それどういう…」
ユウヒが聞き返そうとしたその時、執務室の扉を叩く音が奥の間まで聞こえてきた。
「あ、来た来た。腹減った〜」
そう言ってサクは立ち上がり、扉を開けるために奥の間を出て行った。
奥の間に残されたユウヒは一人、サクの言葉を噛み締めていた。
――頑張りすぎてるって? 私が?
確かに城へ来てからというもの、剣舞で気がずいぶん紛れるとはいえ常に張りつめた状態でいるのは確かだったユウヒは、会って日も浅いサクにそんな事を言われたのが逆に不思議でならなかった。
ホムラ郷にいた頃から、ユウヒは何をやってもなぜか難なくこなしているように思われがちだったため、そういった類の心配をするのはスマルくらいだったのだ。
――不思議な人だな、サクは。
ユウヒがそう思って顔を上げると、すでに何やらつまみ食いをしたらしいサクと、それを咎める女官達がにぎやかに奥の間に入ってきた。
「さぁ飯だ! もう俺は腹が減りすぎて頭がまわらないよ」
そう言って、早速食べ始めるサクに女官達が小言をぶつけている。
「何か全然雰囲気違うよ、サク」
ユウヒがそう声をかけると、女官達が笑いながら返事をしてきた。
「仕事をなさっている時のサク様しか知らない方が多いですから。仕事から離れてしまえば、気取らない、気さくな方ですよ」
「そうそう子どもにも人気ですしねぇ」
女官達がそう言って笑い合っていると、サクがそれは関係ないだろうと言って女官達に言い返していた。
「子ども?」
ユウヒが問い返すと、女官達はまた笑いながら言った。
「えぇ。城の大人達には怖れられているサク様ですのに、見ず知らずの子どもなどは嬉しそうな顔をして寄ってくるんですよ?」
「遊んでくれると思うんでしょうか。笑顔でよく話しかけられていらっしゃいます」
「へぇ〜」
ユウヒは仕事を離れたサクをほとんど知らない。
――やっぱり不思議な人だわ、この人。
それでもやはりこの場所が居心地良いのには何ら変わりはない事が、ユウヒは不思議でならなかった。
女官達も交えて楽しい時間を過ごした後、ユウヒはヒヅルと共に自室に戻った。
「ヒヅル。今日は夕刻からサクと一緒に、ここへ来る前に世話になってた人の所に行ってくるね」
ユウヒがそう言うと、ヒヅルは少し顔を曇らせてユウヒに訊いてきた。
「あの…お帰りは?」
「私は明日また剣舞の稽古があるから遅くなるけど帰ってくるよ。サクはあっちに泊まるみたいね」
そう言うと、ヒヅルの顔が安心したようにパッと明るくなった。
「何? 私も泊まった方が良かった?」
「いいえ、とんでもないです! あの、サク様とユウヒ様でお泊りになるのかと思ったので、それではスマル様が…っとかあの、そんな事をちょっと考えてしまったもので…」
恐縮しながらも言いたいことを全部言ったヒヅルに、ユウヒは半分あきれ顔で力なく言った。
「何を心配してるのかと思ったら…なんかもうどこをどう言ったらいいのか見当もつかないよ、ヒヅル」
「え? だって…」
「あぁもういいよ、好きにいろいろ想像してればいいさ。なんかもう否定するのも面倒なくらい、みんな盛り上がってくれてるからね」
ユウヒの言葉にヒヅルはわけもわからずに、へらりと間抜けな笑顔を浮かべ、奇妙なほど丁寧に拝礼して部屋を出て行った。
扉が閉まる音がして、ユウヒは部屋に一人になった。
これからしばらくの時間、ユウヒには予定が入っていなかった。
ユウヒは寝室に入り、寝台にごろりと寝転ぶと、カナンと話をした時の事を思い出していた。
郷に帰りたいと言っているリンの真意はどこにあるのか、気になる事は山ほどあるが、派手に動くことも今のユウヒには難しい。
大きな溜息と共にサクの言葉が耳の奥に響く。
――あんまり頑張りすぎるのもどうかと思うよ。ほどほどでいいからね。
「私は頑張りすぎてるかなぁ?」
そう声に出してつぶやいてみる。
そして確かに頑張り過ぎている自分を自嘲気味に苦笑した。
――自分だって様子がおかしかったっつーの。酒なんて飲んで大丈夫なのかね、あの人…。
執務室でどこかいつもとは様子が違っていたサクをユウヒは思い出した。
頭の中にここ数日の間に起きた出来事が繰り返し繰り返し浮かんでは消えていく。
そのうちユウヒの頭は考える事を拒絶し始め、ユウヒは何をするでもなく、ただぼんやりと寝室の天井の木目を見つめていた。
そしていつの間にかその瞼は閉じ、ジンの店に行く約束の時間になるまでユウヒは、ウトウトと浅い眠りにつくのだった。