「また考え事でございますか?」

 そう言って、ユウヒの指示を待たずにヒヅルはお茶の準備を始める。
 ユウヒは椅子に座ると、その背に体をだらりと預けた。
 しばらくしてヒヅルが香りのいいお茶を注いだ器を持って、ユウヒの方に近づいてきて言った。

「これを飲んで元気を出して下さいませ。ユウヒ様、先ほどからずっと、顔がこわいです」
「こわっ…こわい? 私、そんな顔してる?」

 思わず差し出されたお茶を落としそうになりながらユウヒが返事をすると、ヒヅルは怒ったような顔をして続けた。

「はい。ずっと眉間に皺を寄せていらっしゃいます。理由は存じませんが、そのようなお顔をなさっていては、物事が悪い方へ悪い方へと転がって行ってしまいます」

 ヒヅルらしい言葉に思わずユウヒの顔に笑みが浮かぶ。

「そうかな?」

「そうです、そういうものでございますよ。お辛い時に無理に笑ってらっしゃるのも心が痛みますけれど、悩み事がある時にそのようなお顔でずっと考え込んでいらっしゃっるのもいかがなものかと存じます。そんな難しいお顔をなさっていては、いい考えなど浮かんでは来ませんでしょう?」

 噴き出しそうになるのを必死にこらえながら、ヒヅルの入れてくれたお茶を口に運ぶ。
 温かいお茶の優しい花の香りが身も心も溶かしていくようだった。
 ユウヒはゆっくりとその味と香りを楽しむと、一息ついて口を開いた。

「そうだね。ありがとうヒヅル」

 ヒヅルは何も言わず、ただ照れくさそうに微笑んで頷いた。
 とげとげしていた心が丸くなり、部屋の空気までが和んでいく。
 不思議な力を持った女官だとユウヒは思った。

「もう少しゆっくりしたいけど、サクが待ってるみたいだし…行こうか、ヒヅル」
「はい」

 ユウヒは立ち上がり、寝室に行き髪を梳かしていつものように一つに束ねると、着衣を正してまた居間に戻った。
 その間に茶器を片づけたヒヅルがちょこんと拝礼する。
 二人はまた部屋をあとにしてサクの部屋へと急いだ。

 即位の日が近づくにつれ、王宮の中は目に見えて忙しくなっていった。
 中庭を行き交う者達も、文官や禁軍の詰めているこの建物の中も、皆忙しなく動き回っている。
 そんな人々の間を邪魔にならないように気をつけながら、ユウヒ達は歩いていく。
 階段を一番上まで上り、いつもの動悸を抑えながらユウヒはサクの執務室の扉を叩いた。

「ユウヒです」

「ごくろうさん。開いてるよ、入って」

 すぐさま返事がありユウヒが執務室の中に入ると、椅子に浅く腰かけ、だるそうに背もたれに寄りかかったサクが、めんどくさそうに書類の山に目を通していた。

「ごめんね、いきなり呼んじゃって。少し待っててもらえますかね…すぐ終わるから」

 書類から目を離す事すらせずにユウヒに向かってそう言うと、サクはどこか苛立った様子で何かを書いたり、女官に指示を出したりしていた。

 ――なんだ? ちょっと様子が…。

 どことなくいつもと少し様子の違うサクを気にしながら、ユウヒは奥の間へと入っていった。
 その後ろを慌てて追いかけてきたヒヅルは、その表情も動きもぎこちない。
 サクが怖いから緊張するのだと、ユウヒにこっそり教えてくれたのはどうやら嘘ではないらしい。
 ユウヒが振り返り、早く来いという風に手まねきをしてやると、ヒヅルは安堵の色をその顔に浮かべ、小走りに奥の間に入ってきた。

「やっぱりこわい?」

 ヒヅルの耳元でユウヒが小さく囁くと、ヒヅルは泣きそうな顔で何度も頷いた。

「緊張します…ユウヒ様はここへ来て日も浅いのに、どうしてそんなに平気でいらっしゃるんですか? 宮仕えの方や女官達ですら、皆、サク様の前では緊張して硬くなってしまいますのに」
「そう? そんなにこわいかな…」
「本当にユウヒ様は平気なんですね。お言葉使いも、普通にしていらっしゃいますものね」
「ん? そういえばそうだね。あれ? いつの間に…?」

 ヒヅルに言われて、初めてユウヒはサクに敬語などではなく普通に話しかけている自分に気が付いた。
 長椅子に腰を下ろして足を投げ出すと、ユウヒは壁の向こうにいるサクの顔を思い浮かべた。

 ――こわい、かねぇ…? 

 姿が見えなくなってもまだ気の毒なほどに緊張しているヒヅルに目をうつして、ユウヒは大丈夫だよと言って笑った。
 ヒヅルはそれでもいつもの笑顔にはならなかった。

 執務室の物音が静まり奥の間のユウヒ達が不思議そうに顔を見合せていると、サクに付いている女官達がヒヅルを呼びに奥の間に入ってきた。
 二言三言、何か言葉を交わすと、ヒヅルがユウヒの方を振り向いていった。

「ユウヒ様。お食事の用意をしてまいります。出来ましたらこちらへお運びいたしますので、しばらく外させていただきますね。何か急ぎの用がありましたら遠慮なくお呼び下さいませ」
「うん、わかった。あと、さっき入れてくれたお茶も食事の時に欲しいんだけど…」
「…かしこまりました。では失礼します」

 やっといつもの照れたような笑顔を見せると、ヒヅルはユウヒに向かってひょこっと拝礼し、他の女官達とサクの部屋を出て行った。

 それと入れ替わるように、奥の間の入り口に髪の毛を指で弄りながらサクが姿を現した。
 また何か考え事をしているのだろう。
 ユウヒの方を向いてはいるが、その目はユウヒを見てはいない。
 サクは眉間に皺を寄せた険しい表情で奥の間の中ほどまで進むと、ユウヒと向かい合うように腰を下ろし、その椅子に体を預けた。