「おぉ…そのお方はいったい…」
泣き出しそうな顔をして喜ぶカナンを前に、ユウヒは低く言い放った。
「それを…お教えするわけにはまいりません」
「え…っ?」
カナンの動きが止まり、その顔に絶望が映し出される。
それでもかまわずユウヒは話す事を止めなかった。
「それが誰かお答えすることはできないんですよ、カナン」
「そ…そんな……」
床に手をついてカナンはがっくりと肩を落とした。
ユウヒはごくりと生唾を飲むと、呼吸を整えてカナンに声をかけた。
「カナン、よく聞いて下さい。私は真の王が誰であるか知っています。ですがあなたの問いにお答えする事はできない、その事こそが答えなんです。おわかりになりますか?」
ユウヒが厳しい表情で、カナンを見据えてそう言うと、カナンはそれに応えるようにユウヒの事を見つめ返してきた。
「それが私のお教えできるすべてです、カナン。歯切れが悪くてごめんなさい」
ユウヒはそう言って頭を下げた。
「あぁっ! そんな…そんな事って!!」
カナンは袖口で口許を押さえて震えていた。
ユウヒはそれに気付かない振りをして剣を手に立ち上がった。
「どうかここでの会話はなかった事にして下さい。あなた自身も、できれば全て心の奥に封じ込めておいて欲しいのです。この話はこれで終わりです、カナン。リンの事、よろしく頼みますね」
ユウヒはそう言い終わると、カナンに向かって深々と頭を下げた。
「開けてもらえませんか? もう戻らなければ…」
顔を上げたユウヒのその言葉に、カナンは慌てて帯に中に潜ませてあった鍵を取り出した。
震える手でがちゃがちゃと音をたてて鍵を開けているカナンの横に立ち、ユウヒはぼそりとつぶやいた。
「あなたのような方が近くにいるなんて…安心しました。あの子を、リンをよろしくお願いします」
カナンの方に視線すらも動かさずにいうユウヒに、カナンもまた目を合わそうともせずに答えた。
「かしこまりました、おまかせ下さいませ」
「…ありがとう」
開錠され扉の隙間から漏れ始めた日の光が一気に祠の中に差し込んでいく。
さきほどまであれほどに明るい光を放っていた消音石の壁が、一瞬にしてただの冷たい岩壁に戻っていた。
ユウヒは先に外へ出ようとして、ふとその足を止めた。
なにごとかと様子を窺うカナンに対して、ユウヒは独り言とも何ともつかない言葉を吐いた。
「できれば…何か起こる前に、リンをホムラに帰したいんです。その時は…どうかリンの事をよろしく頼みます」」
その言葉の意味をカナンが咀嚼し、驚いたように顔を上げた時には、ユウヒはもうずいぶん先へと行ってしまっていた。
カナンはその後姿に向かって丁寧に拝礼すると、祠の扉に施錠し、少しずつ人が増え始めた王宮の中をホムラの部屋へと急いだ。
ユウヒもまた、無言のまま、自室へと急いでいた。
階段を上る足が、自然と速くなっていく。
朝早くから思いつめた顔をして階段を駆け上がるユウヒに、すれ違う者達の視線が絡みつく。
皆、不思議そうにユウヒの事を目で追うものの、声をかけてくる者は誰もいない。
息を切らして自分の部屋まで辿り着いたユウヒは、部屋に入るなり腰が抜けたようにストンとその場にへたり込んだ。
はぁはぁと肩で息をするユウヒの、その荒い息遣いが部屋に響く中、その手から零れた剣がガタガタと大きな音を立てて床に転がった。
「…はぁっはぁ…はぁ……っ…」
何を考えているというわけでもないのに、頭の中を何かが渦巻いている。
カナンへの返事があれで良かったのだろうかというユウヒの不安がそうさせているのだ。
もちろん後悔をしているわけではない。
しかし、こうも早く自分の正体に触れなくてはならない日が来るとはユウヒも想像すらしていなかったので、熟考するだけの時間がなかった分、自分の選択に自信が持てないでいるのだった。
扉にもたれかかり、床に腰をおろして両足を前に投げ出したユウヒは、傍らに転がる剣の鞘をただぼんやりと見つめていた。
そのままゆっくりと、少しずつ呼吸を整え、それと共に揺れ動いている心を落ち着かせる。
渦巻いている頭の中を、順を追って整理していく。
――よし…大丈夫、よね。大丈夫…大丈夫……。
胸に手を当ててゆっくりと息をしながら、目を閉じて頭の中を切り替える。
過ぎた事はもう仕方がないとして、自分はこれからどうすべきなのか、ユウヒはすぐに答えを導きだした。
まだ少し鼓動は早いようだったが、ユウヒは立ち上がり、入り口の扉の施錠を確認した。
二本の剣を壁のいつもの場所に掛けると、柄の細工に取り付けてある鈴が小さな音をちりりと鳴らした。
窓も閉めて、寝室を覗き、自分以外の誰もいない事を確認したユウヒは、居間の中央に立ち、囁くように小さくその名前を口にした。
「朱雀、出てきて…頼みたい事があるの」
床に伸びた薄い影の一部に陽炎のようなものが立つ。
そしてそれはみるみる大きくなり人の形となっていく。
大きくなるにつれはっきりとわかる赤く長い豊かな髪は、紛れもなく朱雀だった。
「お呼びですか、ユウヒ」
「アカ! ありがとう。だいたいわかってはいると思うから手短に…今から話す事をジンに伝えて欲しいの」
「承知いたしました。伝えるだけでいいんですね?」
「うん、それでいい。その後どうするかは、ジンにまかせるから」
「わかりました。そのように伝えましょう」
久しぶりに姿を表した朱雀は、少し心配そうにユウヒの事を見つめていた。
もちろん、その視線にユウヒが気付かないわけがない。
ユウヒは椅子をまたぐようにして腰を下ろし、背もたれを抱えてその上に顎を乗せた。
「大丈夫よ、アカ。川に飛び込んだはいいけど、流れが思いのほか速かったってだけ。それがわかった今は、もう大丈夫」
「面白い例えですね…よくわかりました。で、急ぎではないのですか? 私はどうすれば…」
「あ、そうだった。あのね、朱雀…」
そうしてユウヒはさきほど祠の中であった出来事を確認するように朱雀に伝えた。
やはり朱雀はわかっていたようで、驚きもせず、頷きながらユウヒの話に耳を傾けていた。