ハウスクリーニング 4.リンとカナン

リンとカナン


「ホムラ様…」

 結ったままの髪をそっと解き、顔にかかった髪を払いのけてやると、カナンは椅子を運んできてリンの眠る寝台の傍らに腰をおろした。

 あれほどに取り乱したリンを見たのは初めてだった。
 常に平静を保ち、痛々しいまでに周りを気遣って心配をさせまいと振舞っている姿しか知らなかった。
 控えの間まで漏れ聞こえてきた会話の内容に、さほど問題視するようなものはなかったとカナンは考えている。
 いったいリンの中で何があったのだろうかと、苦しそうなリンの寝顔を見つめながらカナンはひたすら考えを巡らせていた。

 もちろん、何も収穫がなかったわけではない。
 王と自分の主、ホムラとの間では、どうもその想いに微妙なすれ違いがある事は何となく気が付いた。
 ほんの少しのすれ違いも、時が経つにつれてそれは大きな亀裂にもなり得る。
 だが、カナンの知る限り、リンはそれが大きな亀裂とならぬようにと、十分すぎるほどに気をつけて行動していたようだった。
 問題はそこではないのだ。
 あれほど気丈に振舞っていたホムラ、リンが、意識を失ってしまうほどの「何か」とは、いったい何なのか?
 カナンがいくら頭をひねったところで、その答えは出てきそうになかった。

「……んん…っ」

「ホムラ様! お気付きになられましたか!」

 ふいに寝返りを打って、ほどかれた頭髪に手をやったリンにカナンが声をかけた。

「…カナン…ぁ、シムザ…王は? 王はどうされました?」
「もうお戻りになられましたよ。ここには私とホムラ様の二人しかおりません」
「そう…」

 そう言って再び閉じたリンの目から、涙が溢れ、目尻を伝って耳の方へと伝って零れ落ちていく。
 それを拭おうと伸ばしたカナンの手を、リンがしっかりと握り締めた。

「カナン」
「…はい」
「さっき…シムザが来るより前に、言ってくれたよね。話を聞かせてって…私で良ければ…って。あれは、今も同じ?」
「もちろんでございます」
「そっか…」

 リンが手を離すと、カナンはその涙を抑えるようにして優しく拭った。
 リンは黙ったままでぼんやりと天井を見つめていたが、その目からは涙があとからあとから溢れ出している。
 かと言って嗚咽をあげるでもなく、何かをしきりに考えているリンを、カナンもただ、黙って見つめて次の言葉を待っていた。

「あのね、カナン。私はホムラだけど、別に神の声が聞こえるだとか、何かそういった特別な力を持っているわけではないの」
「はい…」
「でもね、今まででただ一度だけなんだけど、私は確かに神の声を聞いた事があるの」
「…はい」

 思わず息を詰めてしまうカナンに気付いて、リンは少しだけ視線を動かしてカナンに微笑みかけた。

「どうする、カナン? これは…私がずっと考えないようにしてきた事実。ずっと目を背けてきた真実よ。きっと私がこれを口にする事は、今の立場上、絶対に許されない事だと思う」

「…はい」

「それでも、カナンは聞いてくれる?」

 リンはいつもの寂しげで悲しそうな笑顔で、その瞳からは大粒の涙が止め処なく溢れている。
 カナンはそんなリンを愛しそうに見つめ、流れる涙をまた優しく手にしている布で拭った。

「もちろん、聞かせていただけるのであれば喜んで。当たり前じゃないですか」
「だって…だってきっと、私、カナンの事を巻き込んでしまうよ?」
「のぞむところです。私はこの国よりも王よりも、あなたが大事なんですよ、ホムラ様」
「ありがとう…カナン……」

 リンの手がすぅっと伸びて、その手をカナンがしっかりと取った。

「大丈夫です。巻き込むなんておっしゃらずに、何でも聞かせてくださいませ」
「うん…」
「眩暈は、その…大丈夫なのですか?」

 シムザが部屋に来る前のやり取りを覚えていたカナンが訊ねると、リンは少しだけ嬉しそうに首を振った。

「もう答えに気付いてしまったから…眩暈がしようがもう関係ないわ」

「さようでございますか…」

 カナンが微笑むと、リンはゆっくりと頷いた。

「あのね、カナン。私は、故郷の夏祭りの時に、ホムラ様に選ばれたの」
「あぁ…ホムラの。神宿りの儀、でしたかしら?」
「うん…その時はね、選ばれたというか…私はあまり覚えていないの。頭の中に靄がかかっているみたいになっていて…あとから、私の中に神が降りてきて、この身体を動かしていたんだって聞かされたわ」

 あいかわらずその目に涙を湛えてはいるが、リンの目はまっすぐにカナンの方に向けられている。
 カナンはその視線に絡めとられたように目を逸らすことができなかったが、逸らそうとも思ってはいなかった。
 この話を聞きたい、聞かなくてはならない、その強い思いがカナンの瞳にも力を宿していた。

 リンはそれを感じ取って、小さく震える声で話を続けた。

「神の声を聞いたのはその時よ。はっきりとした言葉じゃないんだけど、でもその意思をしっかりと受け取ったの。でね、その時私は…」

 それまで震えながらも続いていたリンの言葉が、ここでいきなりぱたりと止まった。
 リンの手を取るカナンの手に、思わず力が籠もる。
 大きく息をしたリンはもう一方の手を額に当てて、何かをしきりに考えている。
 カナンは手が汗ばんでくるのを気にしながらも、ただじっと、リンの次の言葉を待ち続けた。

「ね、カナン」

 不意に名を呼ばれ、拍子抜けしたようにカナンが顔を上げると、リンが小さく手招きをしていた。

「はい?」

 何かと思って顔を近づけていくと、リンが苦笑しながらぽつりと言った。

「ごめんね。私はあなたを巻き込んでしまうよ」

 じっと見つめる視線に応えて、カナンは優しく微笑みかけた。

「気にするような事ではありません。私がそう望んでいるのですから」
「…ありがとう。カナン、もっと近くに。これは…誰にも聞かれてはいけないから」
「…は、はい…?」

 不思議そうにカナンがリンの口許にその耳を近づけると、リンの小さな吐息がカナンの耳をくすぐった。
 だが次の瞬間、カナンの顔から、その笑みは完全に消え去った。

「カナン。彼は…シムザはね、この国の本当の王ではないわ。真の王は、他にいるのよ…」

 蒼褪めた顔をゆっくりと上げたカナンの目に、その顔を手で覆ったリンの姿が映った。

「ごめんなさい…カナン。でも私、一人で抱えてく自信ないよ…」

 顔を覆った手の隙間から、涙があとからあとから零れてくる。
 カナンはハッと我に返って、リンを抱き起こし、その身をただ強く、ぎゅっと抱きしめた。

「お辛かったでしょうね…」

 ただ一言だけカナンが言うと、リンは堰を切ったように声を上げて泣き始めた。

 ――私が…私がこの方をお護りしなくては…。

 カナンの手が、やっとリンに届いた瞬間だった。