リンとカナン


「カ…カナンを……」

 リンが小さく吐き出した言葉にシムザが問い返す。

「え? 何?」
「カナンを呼んで? こんなでは、シムザの服が汚れちゃう…」
「いいよ、俺の服なんて…それよりもリン、大丈夫なの?」
「…だめ。ちょっと疲れちゃった」
「そうか。せっかく一人で来たのにな…次はいつこうして来れるかわからないよ?」

 あぁ、また…と、リンの心に暗い影が落ちる。
 それでもリンは精一杯の笑顔を浮かべてシムザに言った。

「ごめんね、シムザ。わざわざ私のために時間を作ってくれたのに…ごめんね」
「いや、別にいいけどさ。でも俺だって、もう昔みたいに自由に動けないからこういう時間はすごく…」
「うん、わかってるよ。ごめんね、でも今日はだめなの。本当にもう…」

 最後まで言い終わらないうちに、リンの目からまた大粒の涙が溢れ始めた。

「あぁ…もう。本当に大丈夫なの…リン? 俺、まだ側にいられるよ?」
「うん…うん……」

 頷くことしかできないリンは、嗚咽を上げて泣き続けた。
 どうして私はこの人の想いに応えられないんだろう、そう自分を責め続けた。

 シムザは自分の腕の中で泣き続けるリンをただ抱きしめてやることしかできず、何か声をかけてやろうと必死に言葉を探していた。
 何がリンを泣かせてしまっているのか、シムザにはわからなかった。
 自分は即位式の事など、他愛もない世間話程度の事しか言ってなかったはずだ。
 いったい何がこうまでリンを…そう思って、シムザは思いつくままに口を開いた。

「リンは…よくやってるよ。すごく頑張ってるよ。ホムラなんてすごいのに選ばれて、神の声を伝えるものとして本当に頑張ってるよ」

 やはりそれは的外れな言葉ではあったが、リンの複雑に絡み合って暴走した頭の中を冷やすには調度良かった。
 リンの嗚咽が小さくおさまっていく。
 シムザはリンが自信をなくして意気消沈しているのだろう思っていた。

「大丈夫。リンは立派なホムラ様だよ。俺、本当にそう思うよ」

 シムザの言葉はリンの心に触れることなく通り過ぎていくが、それにシムザが気付くはずもなかった。

「神の声を聞くなんて…誰にでもできる事じゃない。リンは選ばれたんだから、もっと自信を持って…」
「そんな…神の声なんて、聞こえるわけないじゃない…」
「え? 何、リン?」
「…なんでもない」

 リンの小さなつぶやきは、シムザの耳に届かなかった。

「大丈夫?」

 心配そうにリンの顔を覗きこみ、その額にそっと口付けるとシムザはさらに強くリンの事を抱きしめた。

「あぁ…もう。これじゃ心配で戻れないよ、リン」

 シムザの声がその胸に反響してリンの耳に直に伝わる。
 リンの涙はすでに止まっていたが、その心中は泣いていた時以上にざわめいていた。

 ――神の声なんて、全然聞こえないよ、シムザ…。

 実際、リンが発する言葉に神の力が宿っていると考えられているだけで、それはある意味宗教のようなものだ。
 リンの言葉はリン自体が発したものであって、神託などがあって導き出された言葉を発しているわけではない。

 ――そうだよ。私が神の声を聞いたのなんて…そんなの……。

 そう考え始めた瞬間、リンの身体がガタガタと小さく震え始めた。
 無意識に考えないようにしていた事が何だったのか、その時リンは、はっきりと気が付いてしまったのだ。

 ――そうだ。私は一度だけ、神の声を聞いた事がある。あれは…あれは確か……っ!

「いやぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 突然シムザを突き飛ばし、頭を抱えてリンが叫んだ。

「どうしたっ!? リンっ!!」

 体勢を立て直したシムザがリンの両肩をしっかりと掴んで揺り動かした。

「おい、リンッ! カナン! カナン、来てくれ!!」

 控えの間の扉のすぐ裏で、呼ばれるのを今か今かと待っていたカナンが飛び出してきた。

「ホムラ様っ!!」
「カナン! カナン! どうしよう…私…私っ!」
 シムザに支えられたリンを、カナンが心配そうにのぞき込む。
 リンはカナンの方を見ていたが、その瞳はカナンを映してはいなかった。

「王。ホムラ様はお疲れの様子。申し訳ございませんが、今日のところはここで…」
「あ、あぁ。その、リンは大丈夫なのか!?」
「…それは何とも」

 シムザが立ち上がり、その代わりにカナンがリンの事を強く抱きしめると、リンの力がすぅっと抜けてそのまま気を失ってしまった。

「リン! おい、カナン! リンはどうしたのだ!?」
「気を失っただけでございます。王よ、私の力ではホムラ様を寝台までお連れできません。できればその…」
「わかった」

 カナンに言われて、シムザはリンを抱き上げた。
 ひょいっと思ったよりも簡単に持ち上がったリンに、シムザは驚いた。
 そのままリンを抱えて、寝室の方へと歩き出すと、その後ろをカナンが静かについてきた。

「カナン…リンは、ちゃんと食ってるか?」
「え?」
「こいつ、こんなに軽かったかな…」
「…食事はきちんと召し上がっておりますし、問題はないかと存じます」
「そっか…」

 それっきり会話は途絶え、寝室につくまで二人の足音以外は何の物音も聞こえなかった。
 親しい者のみが入る事を許されるもう一つの居間を抜け、寝室につくと、シムザはリンを寝台に寝かせて、その頬を手の甲でそっと撫でた。

「私はこれで戻る。後ほどまた遣いをやるから、ホムラの様子はそいつに伝えてくれ」
「…王御自身がホムラ様の御様子を伺いにみえた方が、ホムラ様はお喜びになるかと思われますが?」
「そう簡単にほいほい来れるわけないだろう?」
「さようでございますね。それは失礼いたしました」

 わざと恭しく拝礼して謝罪するカナンを横目でちらりと見ると、シムザは踵を返して寝室をあとにしてそのまま部屋を出ていった。

 カナンはそれを見送ろうともせずに、遠くで扉が閉まる音を聞きながら、蒼褪めた顔で眠る主の顔を心配そうに見つめていた。