「シムザ、いったいどうなさったので…」
「あぁもう…そういう堅苦しいのは無しにして今日は話がしたかったんだよ、リン」
いつもはホムラとして、王としてと、体裁ばかりを気にしているシムザとは思えない言葉だった。
リンは内心嬉しく思いつつも、それを抑えてシムザに話しかけた。
「わかった。じゃあシムザって呼ばせてね。あ、そうだ。さっきの…女の人の部屋に入るのにあれはないよ。やっぱり返事くらい待たなくちゃだめよ、シムザ」
「あぁ、そっか。ごめんごめん。なんだか少しでも早くリンの顔が見たかったんだよ」
「シムザ…」
もとからこういう類の事をさらりと口にする男ではあったが、王となってからはそれもほとんどなくなっていた。
リンは久しぶりに聞くシムザのシムザらしい言葉に妙な気恥ずかしさを感じた。
――やっぱりカナンには出てもらった方が良かったのかな?
そんな事を思う自分自身に驚いて、リンの鼓動はいつもより少しだけ高鳴っていた。
そんな二人のやり取りは、控えの間のカナンにも聞こえていた。
王とホムラ、二人だけの時にのみ使用する専用の器を用意し、最高級の茶葉の入った茶器に熱いお湯をたっぷりと注ぎ入れる。
居間の二人に聞こえないように、カナンは静かに溜息を吐いた。
――王までも、王らしからぬ言動に…ユウヒ様はいったい何を二人におっしゃったのか…
リンとシムザの二人の様子がいつもと違うその理由を、カナンはユウヒとの再会が何か関係していると確信した。
ホムラとなってなお「すごい人だ」と言い続ける姉ユウヒの存在は、思っている以上にリンも含め、その周りの人間に影響を及ぼすらしい。
会いたい、会ってユウヒと直接話をしてみたい、カナンはそう思い始めていた。
ぼんやりと物思いに耽っているうちに茶葉は程よく開き、カナンはお茶を二人分の容器に注いだ。
それを受け皿に乗せ盆に並べると、二人の待つ居間の方に声をかけた。
「お茶の用意ができました。よろしいですか?」
「あぁ、頼む」
シムザの声で返事があり、カナンは盆を持って居間に入った。
リンとシムザは楽しそうに何やら談笑していた。
普段はなかなか見ることのできないリンの甘えるような笑顔に、カナンは少しだけ安心してお茶を二人に差し出した。
「では、何かありましたら声をおかけ下さいませ」
そう言って拝礼すると、カナンはまた控えの間に戻っていった。
「リン。あんまり姉さんと話できなくってごめんね」
突然そう切り出したシムザに、リンの動きが一瞬止まった。
「やっと会えたんだし、昔みたいにとかいろいろ思ったんだけどさ、やっぱり難しいね」
「シムザ…」
「奉納する剣舞をリンと姉さんの二人でっていうのもさ、良いと思ったんだけどなぁ。でもあぁ言われちゃね、仕方ないよな。俺の考えがちょっと甘かった。ちょっと腹が立ったけど、姉さんのいうことがきっと正しいんだよな」
少し膨れた顔をしてお茶を口にするシムザの横顔を、リンは笑みを浮かべて見つめていた。
シムザはひとりごとのようにリンに話し続ける。
それにリンは相槌を打ちながら、傍らで嬉しそうに聞いていた。
「今日さ、ユウヒ姉さんに久しぶりに会って、普通に顔を見ながら話をしていたら何だかとても懐かしくなってね、それでリンと話をしようって思ったんだよ。俺、王になってから全然時間もとれないしさ」
そんな風に考えていてくれたのかと、リンは幸せそうな笑みを浮かべて返事をする。
「そんな事ないよ、シムザ」
シムザも同じように微笑み、リンを見つめながら言葉を継いだ。
「いや、あるよ。俺もリンも一個人である前に王とホムラだろ? やっぱりいろいろな決まりごととかは守ってかなくちゃならないしさ」
「一個人で…ある、前に?」
「あぁ、そうだよ。違うのか?」
ホムラである前に自分はリンという女であると、そう思いたいリンにとって、シムザの言葉は冷たく胸に突き刺さった。
「ううん…違わないよ、シムザ。私達は、そうあるべきなんだと思うよ」
「そうだろう? だから大変だよ…だって大臣達はさぁ…」
リンの顔色が変わった事にも気付かずにシムザは喋り続けている。
笑顔はすでに強張ったまま、手にも微かに震えを感じるリンの耳には、もうシムザの言葉は届いていなかった。
――シムザにとってはただのリンより、ホムラである私の方が大事なんだ…。
目の前が真っ暗になった。
そして、シムザが王に選ばれてから今までずっと感じてきた違和感と、一緒にいても消えることのない孤独感は、いったいどこから来ているものなのかをリンはシムザの言葉から思い知った。
リンの考える幸せと、シムザが考えているリンの幸せは明らかに異なっている。
早い話がつまりずれているのだ。
シムザは王である自分に陶酔しているようにさえリンは思えた。
思えば昔からそういう面はシムザによく見られた。
いろいろと優しくしてくれるし、嬉しい言葉もたくさん聞かせてくれる。
だがその向けられる笑顔の柔らかさとは裏腹に、リンはいつも突き放されたような寂しさを胸の奥に隠し続けていた。
愛されている、それは間違いないと思うのになぜ…?
その疑問の答えは、もう随分前に出ていたのかもしれない。
シムザの優しさ、自分に向けられたその想いは、すべて「シムザ本位」のものだった。
悪気があるわけではないのは理解している。
何も考えずにシムザの言うとおりにしていれば、それはそれで幸せなんだろうという事はリンにもわかっている。
ただ、シムザが思っているほどリンは弱くもなく、しっかりとした自分の意見も持っている。
シムザの思う「リン」の枠に納めるには、実際のリンはあまりに自立した女性であり過ぎた。
リンはシムザを想うあまり、どうにかその枠の中に納まり続けようと努力し続けてきた。
いつかシムザが「本当の自分」と向き合ってくれるだろうと、そう信じて頑張ってきたのだ。
それがリンがホムラとなったあたりから、シムザのそういった傾向がひどくなっていった。
この国の頂点にいると言ってもいい「王」と「ホムラ」となったシムザとリン。
二人に向けられるたくさんの「目」が、シムザの自分本位を加速させている。
一個人である前に…というシムザの言葉は、リンがずっと自分の中に押し込めてきたその感情を一気に解放してしまった。
「…でさ、即位した後には…って、あれ、リン? どうしたのリン!?」
「え? 何?」
「何じゃないよ、どうして泣いているの?」
「え?」
驚いて頬に触れたリンの指先が涙で濡れた。
シムザはたまらず、リンの事を抱き寄せた。
「俺、何かひどい事言った? 何か悲しませるような事、言っちゃった?」
抱きしめる腕に力をこめ、リンの頭を優しく撫でながらシムザが声をかけると、リンはシムザの腕の中で小さく頭を振った。
「ううん…シムザは何にも言ってないよ。これから大変だなぁって、ちょっと緊張してきちゃっただけ…」
「そっか…大丈夫だよ。俺がずっと側にいるから、俺が守ってあげるからね…」
「……うん」
その言葉を疑うことすらしないシムザに、リンの目からはさらに涙が溢れてきた。
こんなに大切にされているのに自分はどうしてこんな風に考えてしまうのだろうとリンは自分を責めると同時に、シムザを好きだと思う気持ちに嘘はないはずなのに、泣きじゃくる自分を遠くから冷めた目で見つめるもう一人の自分を確立することで正気を保とうとしていた。
――心が…二つに引き裂かれそう…。
リンは止めることのできない涙を袖口で拭いながら、ぶつかりあう二つの想いを必死に押さえ込んでいた。