ALC ビル 塗装 3.記憶

記憶


 しばらくすると、さすがに少しずつユウヒの気持ちも落ち着いてきた。
 少し余裕の出てきたユウヒは、改めてその部屋の中を見回してみた。

「なんだろうね。こんな場所、初めてきたはずなのに。全然知らないはずなのに…」

 なんとなく、ユウヒは声に出してつぶやいてみる。
 書棚や机、調度品の配置などは違っているが、やはり自分は「ここ」を知っていると確信した。
 そしてそれはスマルの言うとおり、ヒリュウの記憶なのだろうということも理解できた。

 ユウヒの中にいるヒリュウの魂――…。

 スマルが土使いとしての力を解放してからは、その存在を強く感じることは少なくなっていた。

 普段は特に意識することなく過ごすことができた。
 そんな事実がある事さえも、しばしば忘れてしまうことすらある。

 それがこの建物の中に入った瞬間からずっと、ユウヒの中でその魂の炎は明らかに燃え盛り、大きく、激しく揺れ動いている。

 目にしただけで涙すら流してしまうような強い想いは、ただ「懐かしい」という気持ちだけではないだろうとユウヒは思った。
 対話ができるようなはっきりしたものではないが、でも確かにユウヒの中にはそれがあって、時としてそれは無意識下で自分を突き動かす原動力となっているらしい。
 もてあますほどのヒリュウの強い想いに、ユウヒは何とかして応えてやりたかった。
 だが、自分が蒼月として立つにはまだまだかなりの時間を要するであろう事も、その日のシムザとの対面を通してユウヒは嫌になるほど痛感していた。

 焦ってはいけないと自分に言い聞かせながら、ユウヒはサクの執務室の調度品に刻まれた「懐かしい」造作を撫でながら、ゆっくりと部屋の中を見てまわった。

 ――ヒリュウ…あなたはいったいどんな想いを抱いて、最後の時間をここで過ごしたの?

 自分の中のヒリュウにそう話しかけながら涙を拭い、サクが使用している椅子に腰掛けると、ユウヒはまた内側から揺すぶられて、鼓動が早くなり、胸が苦しくなった。

 その「何度も座った事のある座り慣れた椅子」に深々と腰掛けたユウヒは、「何度も溜息を吐きながら見上げた天井」に向かって自分も大きな溜息を吐いた。

「こりゃサクに黙ってるのはしんどそうだな。でも…頑張らなくっちゃ」

 ユウヒは小さくつぶやいて立ち上がると、壁にかかっていた鏡で自分の顔を確認して、奥の間へと急いだ。

 奥の間ではサクとスマルが椅子に座って、何を話すわけでもなく、ゆったりと煙草の煙を燻らせながらユウヒが来るのを待っていた。

「遅くなってごめん…」

 ユウヒが顔を覗かせると、二人は背もたれに預けていた身体を急いで起こしてユウヒを迎えた。

「大丈夫か?」

 スマルが訊くとユウヒは黙って頷き、そのまま中ほどまで進んで「長椅子」に静かに腰掛けた。
 サクは訝しげにユウヒの事を見つめていたが、やがてふっと表情を和らげて口を開いた。

「魂の記憶、って…言うらしいですよ」

 唐突にそう切り出したサクの言葉に、スマルとユウヒはぎくりとその動きを止めてしまった。
 サクはユウヒの様子がおかしかった事も、泣いていた事さえも言及せず、素知らぬ顔で話を続けた。

「まぁ、そんなもの信じた事はなかったんだけど。さっき…入り口のところでユウヒの顔を見た時、なんだかすごく懐かしいものを見るような、遠い目をしてたから」

 どう反応していいものか、スマルもユウヒも言葉が出てこない。
 それでもあいかわらずサクは、そんな事構いもせずに喋り続ける。

「既視感っていうのとは違うんだね。それなら俺も何回か経験がある…けど、今日のユウヒのあれは、そういうのじゃないように見えた。で、魂の記憶なんていう…突拍子もない言葉をね、思い出したんだよ」

「私もそれ、聞いた事あるな…」

 ユウヒがぼそりと言葉を継いだ。

「郷にいる時の友達が教えてくれてさ…人には時々そういうのがあるんだ、って。生まれてから今までの記憶とは別に、その魂に忘れられない何かを持ってることがあるんだって…」

 何を言い出すのかとスマルがユウヒを見ると、ユウヒは心配ないと首を振ってまた口を開いた。

「アサキが教えてくれたんだよ。あ、アサキってのは郷の女友達で…アサキのお婆さんがそういう事を言ってたんだそうで…」
「へぇ…」

 サクが感心したように言った。

「本や書物は人より読んでるつもりだけど…まだまだ知らない事だらけだな。魂の記憶か…不思議な事もあるもんだ」

 そう言って、自分がいつも使っている部屋をぐるりと見回すと、誰に言うともなしにサクはぼそりとつぶやいた」

「…それだけの強い想いを遺した人はいったい…どんな人だったんだろうね」

 あまり触れて欲しくない方向に話が進みそうになり、ユウヒは内心ひどく動揺した。
 だがすぐに立て直し、その顔に笑みすら浮かべて口を開いた。

「本当に…どんな人だったんでしょうね」

 ユウヒはそう言葉を継いで、そのまま目を閉じた。


 ――本当に…いったい何をそんなに思いつめて、この場所にいたの? ヒリュウ――…。