はっきりとした記憶ではない。
薄靄の向こうにぼんやりと見える景色のように曖昧なものだ。
しかし確かに「自分」はここに存在していたのだと、ユウヒの中の何かが訴えかけてくるのだ。
そして階段を上りきり、サクの執務室の前に立ったその時、ユウヒは胸が締め付けられるように苦しくてたまらなくなった。
ヒリュウが一番その「時」を過ごしたであろう禁軍の詰所に行った際には何も感じなかったユウヒだったが、サクの執務室に入ろうとした途端に感情が高ぶって泣き出しそうになっていた。
わざと咳き込んでその感情に昂ぶりを隠し、何ごとかと振り返ったスマルには笑みを浮かべてどうにかやり過ごした。
――落ち着け…落ち着け……。
ユウヒは目を瞑り、大きく息を吸い込んで自らを落ち着かせる。
震える足を小さくぴしゃりと打つと、ユウヒは目を開きサクの執務室へ入った。
「その辺、適当に座って…」
高鳴る鼓動に、ユウヒの手が無意識に胸を押さえる。
サクの声に反応するように、ユウヒの口から言葉が零れ落ちた。
「長椅子は…どう、した…の?」
「えっ?」
サクが驚いて振り返り、スマルが顔を歪めてユウヒを見つめる。
ユウヒは両手で口を覆うと、苦しそうに眉間に皺を寄せて目を瞑った。
「おい…お前、大丈夫か?」
スマルが心配そうに近寄ってくると、その背後からサクの声がした。
「ありますよ、長椅子…奥の間の方に。そちらで話そうか…こっちだよ。おいで…」
何か考えがあるのか、サクは何も問い詰めようとはせずにそのまま奥の間に入っていった。
サクの姿が見えなくなったのを確認すると、スマルはユウヒの近くに歩み寄った。
「…だめか?」
口を覆ったユウヒの手をスマルがほどくと、ユウヒの目から涙が溢れ出した。
嗚咽も何もなく、ただ溢れ続ける涙に、ユウヒの手を握る力が思わず強くなる。
スマルはただ黙ってユウヒを見つめていた。
不自然に思えるほどあとからあとから止め処なく溢れてくる涙は、ユウヒの意思と関係なく頬をつたって流れ落ちていく。
ユウヒはそれを拭おうともせず、震える小さな声で言った。
「ここへ入るのがすごく怖かった…入ったら、今度はなんかいっぱいいっぱいになっちゃって…」
「うん…」
「やっぱり私…ここ、知ってる…すごく懐かしいのに…なんでだろう? 切なくて…すごく苦しい」
「…そっか……」
スマルは相槌を打って話を聞きながら、俯くユウヒの頭を何度も優しく撫でてやった。
二人がなかなか奥の間に顔を出さないというのに、サクが様子見に来る気配すらない。
気を使っているのかどうか、不思議ではあったが今はただありがたかった。
おそらく自分のものではない感情を持て余すユウヒに、スマルはただ側にいてやることしかできなかった。
ユウヒ自身も、その涙の原因が自分の思いとは別のところにある以上どうする事もできず、ただ流れるにまかせて、気分が落ち着いてくるのを待つしかなさそうだった。
「ユウヒ、一人で大丈夫か?」
「…?」
ユウヒが不思議そうに顔を上げると、奥の間の方に視線を投げてスマルが言った。
「言い訳のしようがないからな。お前が平気なら、俺は先にあっちに行っとこうかと思ったんだけど…大丈夫か?」
スマルは視線を戻して、心配そうにユウヒの顔を覗きこんだ。
「どうする?」
スマルが訊ねると、ユウヒはゆっくりと頷いて言った。
「大丈夫…行っていいよ」
そうは言われても、やはり心配でスマルはもう一度問い返す。
「本当か? 大丈夫なんだな?」
「うん、平気。ありがと」
ユウヒは顔を上げ、涙の痕が残る顔に笑みを浮かべてそう答えた。
スマルはもう一度確認するかのようにユウヒに向かってゆっくりと頷くと、そのまま静かに奥の間の方へと姿を消した。