「遅いですね…ユウヒ」
執務室にある自分の机に頬杖を付いたサクが、重ねられた書類に目を通しながら言うと、なかなか顔を出さないユウヒの姿を探すかのように、スマルの視線が執務室の入り口の方を泳いだ。
結局、襟元を寛げただけの二人に比べて、いかにも着替えに時間のかかりそうだったユウヒが遅くなるのは当然だった。
とはいえ、それを考慮したとしても時間がかかりすぎている。
「その辺をちょっと見てこようかな…あ、スマル。悪いけどここで適当にやっててもらえるかな、ユウヒを探してくる」
サクの言葉にスマルが頷く。
側に控えていた女中にいくつか指示を出してから、サクは部屋を出て行った。
「似たような建物が多いですから…どこかで迷子にでもなってらっしゃるんでしょうか?」
「女官に案内してもらえるはずだからそれはないはず。まったく、何をやってるんだか…」
心配そうに言う女官に、スマルは苦笑して答えた。
サクの執務室にはもう何度も出入りしているスマルだが、さすがに部屋の主を欠いた今の状態では何となく居心地が悪い。
そわそわと落ち着かない様子で、スマルも執務室の外に出た。
執務室の前は廊下になっている。
普段サクが仕事をしているこの部屋は、左右対称に造られている三階層建ての棟にあった。
入り口から入ったそこは吹き抜けになっており、三階層分の高い天井は実際の広さ以上の開放感を感じさせる。
その内部も全て左右対称に造られており、各階層には吹き抜けをぐるりと囲む回廊があった。
スマルはその回廊の手すりに手をついて、広間を動き回る女官達の中にユウヒの姿を探した。
しかし、そこにもユウヒの姿はなかった。
「まったく。どこで何やってんだよ、あの馬鹿」
小さくつぶやいて、またユウヒの姿を探す。
サクはどうやら棟の外に出たらしく、その姿もここには見当たらなかった。
「女の着替えってのはそんなに時間がかかるもんなのかねぇ…まぁ、あれじゃ…仕方ない、か」
王の間で見たユウヒの姿をスマルはぼんやりと思い浮かべた。
昔から、それなりの恰好をさせて化粧をすると、ユウヒは面白いように化けた。
当の本人は相当それが気に入らないようだったが、そういった時のユウヒは凛としていて、気高さのような何かがあった。
王の間でシムザと話すユウヒを見て、スマルは改めてユウヒが王なのだという事を感じた。
そしてそう感じた途端に、シムザを王として立てて会話をするユウヒに奇妙な苛立ちを覚えた。
もちろん、苛立ったところで今はどうにもできないのだが、怒りとも似たその妙な感覚を、スマルは拳を握り締めることで必死に押さえ込んだのだった。
いろいろと思い出してまた苛立ちのぶり返したスマルは、そんな雑念を追い払うかのように頭をぶんぶんっと勢いよく振った。
「俺が苛立ってどうすんだか…」
自嘲するようにつぶやいて、スマルはまたユウヒの姿を探し始めた。
宮仕えの男や女官達が忙しそうに行き交っている。
スマルはふと、吹き抜けの向かい側にある回廊の方に視線を移した。
サクの執務室があるこちら側には、さまざまな文官の長達の詰めている部屋が多い。
それとは反対の、今スマルが見ている側の部屋には武官達がいるのだとサクから聞いている。
武官、と言っても、この棟にあるのはその頂点、王直属の禁軍の詰所である。
確かに、スマルがいる場所から眺めていると、入り口を入って左側の階段を上がっていく者達は、右側に上がっていく者達に比べて身体も大きく、その肌は日に焼けていた。
もちろん、隣国との争いも絶えて久しい今日では、軍がその勇壮な姿を一般の民達の前に見せる事はほとんどない。
ただ禁軍兵士となると、やはり武官の中でも選りすぐりの者達が集まっているはずだ。
スマルはサクの執務室の前から少し移動して、向かい側の二階層目にあると聞いた、禁軍の詰所の方を興味津々で覗き見ていた。
その時だった。
スマルが見つめていたその部屋から、大きな歓声が漏れてきた。
その棟の中にいた誰もが、動きを止め、なにごとかとその歓声の方に目をやった。
囃し立てるような手を叩く音、歓声に混じって聞こえてくる剣が交わる金属音。
「なんだ? 喧嘩か?」
スマルが詰所の中を窺うようにじぃっと見つめていると、男達の歓声に混じって、聞きなれた笑い声が聞こえてきた。