ビジネスホン 多汗症 12.月の消えた夜

月の消えた夜


「はあ?」

 気分が沈んではいてもヒヅルはヒヅルだった。
 そのまっすぐな物言いにスマルは言葉を失ったが、ヒヅルは構わずに喋り続けた。

「私はまだユウヒ様にお仕えして日も浅いのですけれど、それでも…ユウヒ様の事が大好きです。大好きだから、もう今回の事は心配で…こ、怖くて…」

 その言葉にスマルはつい反応してしまい、考えるより先に言葉が口をついて出た。

「怖いのは…ユウヒ? それとも…」
「ユウヒ様の事が怖いわけないじゃないですかっ! そりゃ少し…かなり…驚きましたけど…私が怖れているのはユウヒ様がいったいどうなってしまうのかってそういう事です!」

 小さく震えながら、涙を零して訴えてくるヒヅルに、スマルは優しい笑みを浮かべた。

「ごめん…馬鹿な事聞いた」

 ヒヅルは声を荒げてしまった自分を恥らうように背を向けると、茶葉の瓶を手に取ってスマルに聞いた。

「お茶…お淹れしましょうか?」

 その声がとても穏やかに聞こえたので、ヒヅルの気が済むのならとスマルはすぐに返事をした。

「じゃ、一杯だけ。少し…話でもするか」

「…はい」

 明日から忙しくなると言っていたサクの言葉を思い出して少し迷いもしたが、不安に押しつぶされそうな目の前のユウヒの女官を放っておくこともスマルには出来そうになかった。
 スマルは椅子の向きを正して座り直すと、組んだ足の爪先を目の前の椅子の足にコンコンとぶつけながら卓に頬杖を着いてヒヅルを待った。
 ヒヅルの淹れたお茶はやはりユウヒの好きなあのお茶で、自分もひょっとするとヒヅルと同じような心境であのお茶を選んだのだろうかと思わず顔を歪めた。

「どうぞ」

 スマルの前にお茶が置かれ、ヒヅルはスマルのすぐ隣の椅子に、少し距離を置いて座った。

「あまり大きな声では…夜中ですものね。私さっき、ちょっとうるさかったですよね。申し訳ありません」

 恥ずかしそうに頭をちょこんと下げて謝ると、ヒヅルは両手で茶碗を持っておいしそうにお茶を啜った。
 スマルは卓に対して横向きになり、ヒヅルの方を向いて座った。

「なぁ、あいつの異形の姿を見ても、本当に怖くなかったのか?」

 思わず口を吐いて出てしまった言葉に、スマル自身がハッとする。
 ヒヅルは少し首を傾げて考え込むような仕草を見せたが、すぐに持っていた茶碗を卓におき、指をからませた両手を膝の上に置いて言った。

「はい。何と言いますか…今思うと、なんですけどね。何かとても神々しいものを目にしたような、そんな気持ちでした。ただユウヒ様のなさっている事が護送の妨害でしたから、危ない事はやめてって…そうずっと思ってました」

 取り乱している様子を想像していたスマルは、ヒヅルの言葉にとても驚いた。
 そんなスマルの様子を不思議そうに見つめながら、ヒヅルは先を続けた。

「美しい景色を見たり…感動でいっぱいになると涙が出そうになったりしますでしょう? そういう気持ちに似ていると言ったら語弊がありますけど、何だか胸がいっぱいになってしまって涙が止まらなくなってしまったんです。どうしてかしら?」
「お前…案外肝が据わってんだな。さすが、あいつ付きの女官だわ」
「いえ、そんな。あの…スマル様?」

 照れくさそうに一瞬笑顔を見せたヒヅルが急に真顔になり、スマルの方に向き直って言った。

「ユウヒ様に何が起きているのですか? 何か面倒に巻き込まれているのではありませんか?」

 まっすぐに見つめてくるヒヅルの真摯な視線に、スマルはたまらず目を逸らした。

「あぁ…えっと……」

 必死に言葉を探すが、何もないでは許してもらえそうにない。
 スマルはヒヅルの方を向くと静かに言った。

「…そうだな。面倒な事には、確かになってるな」

 ヒヅルが心配そうに眉間に皺を寄せるが、スマルは真実を伝えてやるつもりはなかった。

「でもあいつは巻き込まれたわけじゃない。あいつがすっげぇ考えて自分で決めた事だから…心配だろうけど、信じて待ってやってくんねぇかな? 絶対にお前んとこに戻ってくるから」
「…はい、わかりました。でも、スマル様は平気なんですか?」

 まだ何か我慢ならない事があるようで、ヒヅルが問い返してくる。

「平気って…」
「大切な人が牢に囚われているのですよ? どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるんですか。何だか腹が立ってきます」
「は、腹…」

 唖然としているスマルを、ヒヅルは悔しそうに見つめていた。

「何があっても近寄るなと私は約束させられました。だからって何も出来ずに泣いていた自分が今は腹立たしくて私はたまらないのです。それなのに、スマル様は…何でそんなに普通にしていられるのですか? ユウヒ様のことが好きなのでしょう?」
「すっ、あ、あのなぁ…」
「何ですかっ!」

 ついには立ち上がってスマルを問い質すヒヅルに、スマルは困り果ててしまった。
 どんな事にもまっすぐで正直なヒヅルの姿を前にすると、適当にごまかしてその場を取り繕おうにも罪悪感がこみ上げてきてそれが出来なくなる。
 スマルは頭を抱えて俯き、考え込んでしまった。

「スマル様?」

 何か自分が納得できるような返事をスマルから引き出そうと意気込むヒヅルは、普段よりも随分語気が荒い。
 スマルは大きく溜息を吐くと顔を上げてヒヅルに言った。

「落ち着いて…俺達がここで焦ってたって何も変わらないってのはわかってるんだろう? 今あいつをどうにかできるとしたら、それはサクしかいねぇんだよ。それもサクには言ってある。そしたらあとはもう俺も、お前も…待つしかねぇじゃんか。だろ?」

 スマルの言葉を聞いたヒヅルは脱力したようにまた椅子に腰を下ろした。
 ホッとしたような表情をスマルが浮かべると、ヒヅルはまだ少し納得のいかない顔で不満気に口を開いた。

「私ばかり悔しがって、私ばかりがどうしようって戸惑っている…スマル様がそうして落ち着いていらっしゃるのがどうしてなのかわからなくて、でも私には何もユウヒ様にして差し上げられる事がなくて…苛立って仕方がないのです」
「まぁ、そういうのもわからなくもないが…ここは信じて待っててやってくんないか?」
「…スマル様も、そうなんですか?」

 ヒヅルにそう言われて思わず苦笑したスマルは、小さく独り言のようにぽつりとこぼした。

「俺はもう…ずっと待ってばかりだよ……」

 スマルはゆっくりと立ち上がり、ヒヅルの肩をぽんと叩いて部屋の扉の方へと歩き出した。

「じゃ、俺行くわ。ここの片付けと鍵、頼んでいいか?」
「はい、かしこまりました。スマル様…おやすみなさいませ」

 スマルは扉を開けたまま立ち止まって振り返ると、ヒヅルが泣いていないのを確認して笑みを浮かべた。

「うん、おやすみ…」

 スマルが部屋を出て行き、扉はゆっくりと音も立てず静かに閉まった。