社の敷地の中に入ると、チコ婆は突然その足を緩めた。
スマルはその横に並ぶと、今度こそはとチコ婆に声をかけた。
「もういいでしょう? どうなさったんですか、チコ婆様」
スマルに言われ、チコ婆はいきなり立ち止まると、背後と、前方を念入りに確認し、その後ついでといった風に周辺を見回した。
社への入り口からも、年寄り衆のいる桟敷席からも十分に距離があった。
周りに誰もいないのを確認すると、チコ婆は社の外に背を向けて小さな声で話を始めた。
「リンに…リンにホムラ様が降りてこられた……」
「リン……ですか?」
「そうだ、リンだよ。お前も見ておっただろう?」
聞き返すスマルに、チコ婆が静かに答えた。
どことなく苦しそうなチコ婆の様子に、スマルが思ったままを口に出した。
「それだけ、ですか?」
「は?」
チコ婆は顔を上げて訝しげにスマルを睨み付けると、すぐに目を逸らして遠くの方を見つめた。
スマルは聞きたいことがあとからあとから溢れてくるのを何とかこらえて、一つ深呼吸をした。
「うまくは言えませんが…それ以外にも、何か抱えておられるのではないですか?」
黙ったままのチコ婆に、スマルは言葉を続ける。
「あの霧の、紫色の霧の中にはリンだけじゃない、ユウヒもいたはずです。チコ婆様は、中で何が起こっていたのか知っている、違いますか?」
スマルの言葉に、チコ婆は小さく噴出して、歪んだ笑顔でスマルを見上げた。
「お前は…お前は昔から勘が鋭いだか鈍いんだかよくわからんなぁ、スマル」
「えっ? あ、はぁ…」
チコ婆の反応が思いも寄らぬものだったのか、スマルは気の抜けた返事をした。
スマルの肩の力が抜けるのを見て、チコの表情がやっといつものチコらしい笑顔に戻ってきた。
「舞手には、何が起こっても舞い続けろと言ってあった。あの霧の中でも、二人は舞いを続けていたよ」
こともなげにチコ婆は言ったが、スマルはそんなチコ婆の態度に逆に腹が立った。
少しだけ語気を荒げて、スマルはチコ婆にたずねた。
「舞を続けていたのはユウヒだけでしょう。リンはユウヒの終の舞を、まったく対称にして舞っていた。たぶんあれはホムラ様のなさったことなんだろうけど、なんでユウヒと対になってリンは舞ったんですか?」
最後までいっきに言い放ったスマルは、自分の言葉を聞いたチコ婆の様子が明らかにおかしかったので、言ったことを少しだけ後悔したが、ユウヒとリンに何が起こったのかを知りたいというその一心で、引き下がるわけにはいかないと自らを奮い立たせていた。
チコ婆は、ちょうどスマルを足場の方まで呼びに来た時と同じ、諦めた様な、そんな力のない笑顔になって、スマルをじっと見つめていた。
なぜかスマルは、そのチコ婆を見てこれ以上は何も聞いてはいけないような気がしていた。
もちろん、だからと言って引き下がるつもりはなかったが、チコ婆がひどく弱く、頼りないただの老婆に見えたのだ。
少しの沈黙が流れ、先に口を開いたのはチコ婆だった。
「まったく、嫌な所をついてくる。昔からそういう坊主だったわな、スマル」
あいかわらず力なく笑うチコ婆だが、スマルの方をまっすぐに見てハッキリと言った。
「これから話す事は、誰にも言ってはならん。無論、ユウヒやリンにも漏らしてはならん……どうだ、守れるか?」
「どうって……」
年寄り衆の一人チコ婆の言葉だ。いったい何を話されるのかと、スマルは一瞬たじろいだ。
「知っているのは郷の年寄り衆とヨキとイチだけだ。どうだ? 約束できるか?」
「…………」
スマルは息を呑み、黙ってこくりと頷いた。
そうか、とチコ婆は小さく頷き、スマルにぐっと歩み寄った。
「実はな、スマル……」
そう言うとチコ婆は一呼吸おいて、続けてスマルが思いもしなかった事実を、丁寧に、だが淡々と話し始めた。
スマルは頷くことすらもできないまま、ただその場に立ち尽くし、チコ婆の話を自分の胸の中奥深くに沈めていった。