そしてついに迎えた旅立ちの朝。
郷に帰ってきた日と同じようにすっきりと晴れ渡り、澄んだ早朝の空気が肌に気持ち良い。
ユウヒを見送るために集まった面々の中に、スマルの姿はなかった。
「あの馬鹿……」
表情を曇らせて辺りを見回すユウヒに、チコ婆が近づいた。
「どうした、ユウヒ」
怪訝そうに聞いてきたチコ婆に、ユウヒは逆に訊ねた。
「あの、スマルは?」
「スマル? そういや来てないな、珍しい。でもそろそろ出ないと夕刻までに守護の森を抜けられないだろう?」
「…チコ婆様。私ね、守護の森を抜ける気はないんだよ。しばらくの間、森に籠もろうと思ってる」
それを聞いたチコ婆は、ユウヒの胸元をがっしりと掴み、驚きで目を見開いて声を荒げた。
「な、何を言うておる、ユウヒ! 守護の森は、あの森はただの森ではないんだぞ? あそこには妖獣、妖魔といった妖の類が…」
「わかってるよ、チコ婆様。だから行くんだよ…」
「そんなっ、だってお前…」
そんな事をさせるために、すべてを伝えないままに孫を送り出すわけではないと、チコ婆は必死だった。
だが何とか思いとどまらせようとするチコ婆の訴えにも、ユウヒは首を振り続け、頑として考えを変えようとはしなかった。
そしてユウヒは、食らいつくように自分の胸元を掴んだチコ婆の手をそっと解いた。
「ちょっと、いいかな? スマルの所に行ってきたいんだけど…」
拍子抜けしたように、チコ婆はユウヒから手を離し、戸惑いの混じった寂しそうな笑みを浮かべた。
「あぁ、かまわないけど…なるべく早く戻ってくるんだよ」
「うん。わかってる」
そう言うと、ユウヒは集まった見送りの人々の方を向いた。
皆、寂しげで、不安そうな面持ちをしてユウヒの方を見つめている。
ユウヒはにぃっと大げさに笑顔を見せて、張りのある声で言った。
「少し時間をもらえるかな? ちょっと…」
「いいよ、行っておいでよ」
言い淀んだユウヒに答えたのはアサキだった。
ユウヒの見送りにスマルが顔を出していない事を、アサキはずっと気にしていたのだ。
「ありがとう。じゃ、ちょっとはずします」
ユウヒは深々と頭を下げると、トーマの店の方に駆け出した。
その頃スマルは、トーマの店の作業場の椅子に座り、手のひらに乗せたきれいな寄木細工の箱をじっと見つめていた。
仕上げが終わっていないからとユウヒに告げたその箱は、今までにないほどに難解なからくりが施されていた。
実際にその箱が出来上がったのはもうずいぶん前の事で、まだ仕上げが終わっていないというのは口をついて出た嘘だった。
剣と一緒に渡すつもりでユウヒのところまで持って行ったのだが、その直前になってどうしても渡す事ができなくなり、嘘をついてまでスマルは持って帰ってきてしまったのだ。
「あ〜あ、何やってんだかなぁ、俺は…」
ため息を一つ漏らしたところで、遠くから足音が近づいてきて店の前でピタリと止まった。
「スマル! そこにいるんだろ!?」
外から聞こえてきたのは、ユウヒの声だった。
郷を発つのは朝らしいと、人伝に聞いてはいたが、どうやらまだ郷にとどまっていたらしい。
「スマル! こら、返事しろっ! スマル!!」
「…まだ、いたのかよ……」
もうとうに郷を発った後だと思っていたユウヒの訪問に、スマルの鼓動がむやみに早くなった。
「当たり前だろう! 昨日言ってたあれは出来上がったのか!?」
寄木細工の箱を持つスマルの手がピクリと震えた。
「スマル!」
何か言えば、もう箱を渡すしかなくなる。そう思うとスマルは返す言葉も見つからず、ただ黙ってまた箱を見つめて座っていた。
外にいるユウヒが、独りで何かをブツブツとつぶやいているが、はっきりとは聞き取れなかった。
耳を澄まして気配を読んでいると、先ほどまでとは違う口調で、ユウヒがゆっくりと話を始めた。