ビッグ・クエスチョン
 
 
【2018】
久々の回線速度測定
日の入り(日没)時刻
WiMAXの検討
毎日1万歩で病院通い
ADR(裁判外紛争解決手続)
ホモ・デウスの時代
軽快なSSD起動
携帯電話料金の検討
簡易葬の実践(2008
荒海や佐渡によこたう
鶏が先か、卵が先か
いずれ買物難民に
世界アルツハイマーデー
体育会系的価値観
次のノートパソコン
サマータイム
海洋葬の復活か!
海水浴場発祥の地
どうしたするめいか
終戦の日(73年)
Topは終身がお好き
オー!カオル君
御巣鷹山事故から33年
これが最後の?柏崎
越後の高校野球
夏のバカンス
越後人気質
えんま市とぎおん
人類の寿命予測の変更
シンギュラリティ
最後の?免許更新
 
 
巷のYAMANEさん
突然アーサー・キット
ああそれなのに
葛飾柴又を歩く
何の意味もないこと
(パソコン回顧)
ブロードバンド
 (回顧)
ハローワーク
(パソコン回顧)
一太郎よさようなら
 


 六華寮に春が来た
 
  久しぶりに新潟大学時代の資料に出会った。菅村 洋治著「六華寮に春が来た」である、早速購入する。
彼は昭和17年(1942)生まれ、1才年下である。何故か長崎県生まれ。
昭和36年新潟大学医学部入学、
1961~1967年の6年間を新潟で過ごしている。
嬉しいのは”りっかりょう”を六花ではなく六華と表示している。
 
  新潟大学での4年間
同時期を彼と同じく過ごしている。ただ彼は医学部、英才である。小生は理学部化学科、言うなれば庶民である。共通するのは当時西大畑町に「理学部キャンバスがあり」「同地域に学生寮六華寮があった」ことである。
 
 
   
  この時代を共にした人は懐かしい。実は、当地にも理学部の後輩がいることを知ったのは数年前である。ただ、9才年下という。ということは大学キャンバス及び学生寮が「西大畑地区」から「五十嵐地区」に移ってしまった時代であり、時代感覚が違いすぎる気がする。
多分、(宇宙人)と話ているような! 
   
  【空白の12年】
昭和39年(1964)、新潟大学を卒業、社会人となる。その年の
6月、新潟地震もあり気にはなっていたが余裕のない時代、帰省の度に新潟を中継したが、
ただ素通りするだけであった。


車を持ち、結婚もし、長女も生まれた昭和51年、実に12年ぶり
に帰省の途中、新潟を訪れた。そしてあの衝撃である。


「理学部校舎もない!」「六華寮もない!
 
 移転していた新六華寮
   只、寮があるだけ
   昭和39年4月~昭和51年8月までの12年間が全くの空白期間になってしまった。  
   
  難産の末の五十嵐地区への移転  
  理学部校舎、六華寮については、認識不足であった。そもそも、あの古い「木造建造物」があってはならなかったのである。
新潟大学は、戦前からの新潟高校を引き継いだものであり、戦後(昭和24年)新たに「新制大学」として発足、私の世代は12回生になる。まだ各部は県内に分散していた。
最近わかったことであるが、
 ・1960年代にはキャンパスの整備・移転構想が動き出し。
 ・1965年に五十嵐地区への移転綜合計画が決定
 ・1969年、この構想が白紙撤回され
 ・1970年4月、「教養部」と「理学部」が移転
 ・その後12年かけ1982年、教育学部の移転で完了。  
 
古き新潟を知る最後の世代!か
  ・「理学部キャンパス」「六華寮」がまだ西大畑地区にあり、
・昭和の建物が残っていた
・古町がまだ新潟の中心繁華街であり、歩いて行けた
・街がまだ学生に寛容だった