32のツボ 初めての海外

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ジンバブエの安宿でLA往復45000円!と書かれた日本の雑誌を見つけた。『何やこれ!俺らの頃のLAったら、なんぼ安ても15万はしたのに。おまけに1ドルは250円もしたし。エエなー!、今の学生は』とぶつぶつ言ってると横にいた50ぐらいのオッサンに『何言ってんだアンタ、俺らの頃は1ドル360円の上、外貨持ち出し制限があって500ドルしか持ち出せなかったんやぞ。んでまずはアメリカかヨーロッパで働いてからスタートや、250円〜!そんなんまだマシよ。』と言われた。なるほどなー、そんな時代もあったんやなーと感動してると後から『何あまい事言ってんだお前ら、俺らの時代に海外に出るならもう二度と日本に帰れないかもしれないのを覚悟して出たもんだ。切符が高い〜!あまいぞ、お前ら』と声がする。驚いて振り向くと見事にハゲたジイさんだった。

考えるまでもなく海外はあらゆる意味でどんどん近く簡単にいけるようになってきた。しかしそれでもジイさんやオッサンが力説したくなったようにそれぞれに初めての海外は特別な意味を持っている。それはこの春初めて海外に行く人も同じなのだ。  同志社に入学した83年秋にバイクの中型免許を取った僕は翌年の夏に日本一周した。その旅はあまりにもおもしろかった。京都に帰ってきて家賃の滞納やローンの未払いでフロにもいけない毎日を過ごしながら、それでも僕はもっと走りたかった。でも、どこを?・・・アメリカ?・・まさか、いや無理だろ?。

その頃の僕にとってアメリカはダーテイ、ハリーの世界でありマッド、マックス(撮影はオーストラリア)であり、ゴット、ファザー(イタリアかな??)であり要するにいつ殺されるか分からないハードボイルドの国だと思っていた。そんな国をバイクで走るとどうなるんだろう?とりあえず本屋をかたっぱしから探してアメリカを走った人の本を探した。しかし見つけた本が悪かった。某ハードボイルド作家のルポにはマグナムを携帯して走るイージーライダーの写真とかばっかりで僕はやっぱりアメリカってこんな国なんだと改めてびびってしまった。それでもやっぱり行きたかった。

怖さと好奇心の間で迷いつつも決心がついた時のためのお金は夜のバイトで着々とたまっていった。そんなある日、衝撃的な事件があった。当時はやっていたラブアタックというクイズ番組にアドベンチャー同好会の後輩がヘルメットを持って現れ、いきなり『僕はこの夏バイクでアメリカ横断します』と宣言したのだ。何も知らずにテレビを見ていた僕は突然のできごとに持っていた茶碗を落としそうになった。な!なんて事を!このままでは負けてしまう。

当時僕の回りにいたバイク乗りで日本一周したライダーはいなかった。どこにいてもそれは僕の自慢であり誇りであった。しかしアメリカ横断なんかやられてしまうと日本一周なんて消えてしまう。そんなごく単純な理由から僕は急にマジになった。しかしマジになるとお金や恐怖心よりもいかに親を説得するかという問題が浮上してきた。マッド、マックスの世界に行くのに安全であるわけはなく、しかも自分以上にそう思い込んでいるだろう親を説得するのは無理だと思った。

こうなったら自分も親も逃げられない状況を作り出すしかない。そう思った僕は6月の雨の日バイクを神戸からLAに向けて送り出した。港から『ゴメン。もうバイク、アメリカに送った。夏にアメリカ走るから』と電話し『何言ってんの!お前』という返事に『ま、大丈夫だって、もう送ったんやし仕方ないやん』と強引に電話をおいた。堂々とテレビで宣言した後輩に比べなんともズルイやり方だったが、こうでもしないと逃げてしまいそうなほどアメリカは怖いところだった。

7月19日後輩や友達からのカンパと見送りを受け飛行機は大阪空港をとびたった。長いフライトの後、LAの空港におりた僕を待っていたのは1ドル250円の世界だった。コーラ一杯250円あの衝撃は今でも鮮明に覚えている。そしてそれから持参のカロリーメイトで3食、食いつないでいた事も・・・今もはっきりと覚えている。 これから旅立つ人、今迷ってる人、思い切って行きましょう。きっとおもしろいよ。

 

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