25のツボ オーバーザトラブル2
旅する冒険ライダー 坪井伸吾のページです

 

 

ホーム
上へ

[ 戻る ] [ 進む ]

 

サンフランシスコ大地震

 『君達には小学校に避難してもらう』その一言で日本人3人はいきなり被災者になった。89年10月のサンフランシスコ大地震の翌日、腹をすかせた僕らが中華街に食べ物を捜しに行っていた間に宿泊中のYHは完全に警察の管理下に置かれていたのだ。

取り敢えず敷地内に置いてあったバイクを受け取り、まだ停電が回復しない町を抜け、僕らは指定されたマリーナ地区の小学校へと向かった。『ねー、このまま収容されて、今晩の晩メシあると思う?』『さあ−?』『確保しといたほうが無難じゃない?』『現在、停電中で復旧の見込みがないということは』『いう事は?』『肉屋に行けば冷凍保存できない肉が安く買えるという事では』

僕らの読みは当たっていた。ロウソクを立てた肉屋ではヤケになった店主がハムが半額以下で売っている。これで今晩は大丈夫だ。小学校はすでに次々到着する被災者でごったがえしていた。僕らが受付に並んでるとアジア系の汚い男がすぐ後に並ぶ。『どこから来たんですか?』の係員の質問に僕らがYHと答えると男もすかさずYHと言った。どうやらどさくさに紛れて食事にありつこうと浮浪者達も集まってきているようだ。

受付を済ますと、すぐにボランティアの少年が懐中電灯で体育館の2階へと案内してくれる。そこには200余りの簡易ベッドが並べられ多くの人が横たわっていた。ロウソクに照らされたその光景はまるで死体置き場のようなぞっとする迫力だ。

少年が下に臨時の食堂がありますと丁寧にいうので降りてみると、いつの間にかバイキング形式の食堂が出来ている。しかも20種類近くある料理、デザート、ジュースすべてがいつも食べているメシよりはるかにウマかった。この国はやはり凄い。地震の経験などほとんどないこの町で、地震発生からまる一日経過しただけでここまでの態勢が整う。これはボランティアという概念が普段から身についてるのだろう。

食事中も次々運ばれてくる食材や仮説トイレにアメリカの底力をまざまざと見る思いだった。だけど僕はこれからどうしたらいいんだろう?今日、町で見た号外にはマグネチュード7の大地震の見出しと共に火事や崩れた高速道路の写真があった。しかも、なんとあのベイブリッジまでが壊れ死傷者が出ている。なんだ、そりゃ!地震の30分前に僕はそこを走っていたんだぞ!

なんであの瀬戸大橋クラスの橋がこんなにあっさり壊れるんだ。それにこれじゃ仕事探しできない。この町で金を稼ごうと思っていたのに・・参ったな、ロスにでも行くか。翌朝、洗面所に行こうと廊下に出るとボランティアの少年が素早く小さな袋を渡してくれた。開けてびっくり、それは石鹸、シャンプーはいうにおよばずコップ、ヒゲそり、ツメ切り、まで入った素晴らしすぎるセットだった。これならYHにいるより、こっちのほうがはるかに快適そうだ。

顔を洗って校庭に出るとこの町に住んでいる香港人の友達のお母さんがいた。慌ててみんな大丈夫だったか聞くと、彼女は自慢の七福神の仏像が倒れたといった。なんだかピントのずれた答だけど、とりあえずその程度の被害ですんで良かった。昨日、僕は震度3か4だと思ったが、実際にはマグネチュードは7(震度?)だった。

それは何を意味するのか?地盤の強弱によって震度が全く違ったのか?それとも断層の走り方で揺れに違いが出たのか?彼女とそんな事を話してると校庭に白バイのハーレ部隊と迷彩服のオフロード軍団が入ってきた。統率のとれた、その走りは本当カッコイイ。道路がガタガタなっている今なら、オフロード部隊にとって最高の活躍の場だろう。テレビを見ている限りでは気付かなかったけど阪神大震災の時、日本でもこんな人達が活躍したのだろうか?

 ロス方面のどのハイウェイが壊れているかは分からないが、その日の午後、サンフランシスコを離れる事にした。あいかわらず食堂に食べ放題の果物があったのでリンゴを2個もらい。僕はロスを目指して走り出した。

 

This Homepage is maintained by Keiko Tsuboikeiko@a.email.ne.jp
©坪井伸吾 このサイトに置かれているすべてのテキスト、画像の無断転載を禁じます