23のツボ 旅人達のその後
旅する冒険ライダー 坪井伸吾のページです

 

 

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4月から全国の地方新聞に『地球で出会った人達』というコラムを連載している。その中で北米、南米を3年かけて徒歩のみで完走したウォークマン(本名、池田拓)の事を書いたら、新聞社の担当も驚くほどの反響がでた。

僕はその時、自分の記事が評価された事そよりも多くの人が“ただ歩く”という彼の行為に共感した事の方が正直嬉しかった。でも残念ながら彼にその気持ちを伝える事はもうできない。彼は7年前に工事現場の事故ですでに亡くなっていたからだ。僕はせめて山形の彼の両親にその記事の反響を知ってほしいと思った。ところが、いざ手紙を書こうとすると、もしかしたら彼の両親はもうその事を忘れようとしているのじゃないか?と思えてきた。余計な事なんだろうか?考えても分からない。

自分ならどうなんだ?と考えてると、予備校の時に病死したユウジの事を思い出した。人気者だった彼の墓前には昔はよく花があった。しかし同級生達の記憶と共に花は消えていってしまった。それは僕にとってひどく寂しい事だった。それから10年ぐらいして、ある日突然、彼のお父さんから電話がかかってきた。『いつも花、ありがとうございます。ずっと誰だろうと不思議に思ってました』という感謝の電話だった。そうなのだ、当事者達にとっては誰かの記憶の中に、その人間が存在している事の方がきっと嬉しいはずだ。

そう思いなおして手紙とチリで会った当時の彼の写真を送ってみた。しばらくして原稿用紙3枚に几帳面な文字で書かれた手紙と共に彼の26年の生涯をまとめた一冊の本が送られてきた。そこには彼の旅の足跡を辿って南米に2回訪れた彼の家族の驚くべき事実が書かれていた。彼がゴールとしていた世界最南端の町ウスアイアを訪れた彼等は、そこで当時、彼が世話になった日系人の上野さんに彼の労災1000万円を全額寄付し、旅行者のためのペンションを作ったとなっている。

上野のじいさんのところにはその頃、僕も泊まった事がある。口は悪いが自分の信念を貫いて生きるスケールの大きい人で戦時中、ガタルカナル全滅でも生き残ったタフな人でもあった。手紙は『拓の日記を読んだという若者、冒険家たちがよく私の家を訪ねてきます。それらの青年が私にとっては皆息子に思えるのです。坪井さんにの是非来ていただいて、拓の思い出話を聞かせていただきといと思ってます』で終わっていた。その丁寧な文面が僕にはあまりにも辛かった。

6月、久し振りに北海道まで走る事になった僕は山形の彼の故郷を訪ねてみる事にした。当日、雨でずぶ濡れになった僕のために池田さんは風呂を沸かして待っていてくれた。それは僕にとっては最高のもてなしだった。学校の先生であったと同時に名のある登山家でもあるお父さんには、そんな事はお見通しのような気がした。2階の書斎に通されるとすぐにハタハタや、お父さんが自ら鳥海山で取ってきた竹の子など地元の幸が出された。お父さんは鳥海山に1000回登ったという。それは毎週、登り続けても20年はかかる驚異の回数だ。

登山家であった父は20歳まで生きられないだろうと言われた病弱だった息子の回復を願いつつ、何度も山に連れていっていたのだ。昔、南米で彼と仲の良かった旅行者から『彼は鳥海山の自然保護にも取り組んでいる』と聞いた事があった。それは“鳥海山の自然を守る会”の代表として、国土計画と13年間戦って山を守った父親の影響なのだと改めて知った。

お父さんと話してると河野さんの名前が出てきた。河野兵市、2年前に北極点単独徒歩を成し遂げた日本を代表する冒険家だ。北極に行く前の壮行会の時に話す機会があり、『生前、南米でウォークマンと会った』と言うと『事故の時、お父さんがすごぐ悲しがっていたよ』とだけ河野さんは答えた。でも実際は彼が事故にあってから亡くなるまでの5日間、河野さんがずっとベットのそばにいた事もこの日、初めて知った・・。すっかり世話になった翌日、台所で聞いた『まだ、あの子がひょっこり帰ってくる気がするんですよ』のお母さんの一言が、今でも耳に残っている。

 

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