18のツボ 日系人
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何年か前に岸谷五郎とルビー・モレノ主演の「月はどっちに出ている?」という映画が話題を呼んだ。確かこの映画の最初のシーンは在日韓国人と在日朝鮮人の結婚式でそれぞれの親族が自国の風習を主張しあうという所から始まっていた。客席からは笑いがもれていたが僕にはその姿が海外に住んでいる日本人の姿とだぶり複雑な気分だった。


僕は長い間、海外をバイクで走っていたのでいろんな国に住み着いている日系人の方にも随分お世話になった。しかし彼等の立場は実に微妙だ。特に移民の歴史が長く、3世や4世のいるブラジルでは誰もが自分は何者であるか?という普遍的な疑問に加え、日本語が分からない自分は一体、何人なのか?という疑問も背負わないといけない。

僕はサンパウロの日系人街の和菓子屋で働かせてもらった事があるが、そこの大学に行ってる子供達は「日本に行きたい、日本に行ったら何か分かる気がする。」といつも言っていた。彼等と付き合っていくうちに日本の学校でなぜこの同胞達の事を教える授業が全くないのか不思議になってきた。それで日系図書館で移民史を調べてみると驚くべき事がいっぱい出てきた。

なかでも衝撃的だったのは第二次大戦後、正確な情報がなかなか入ってこない中でいち早く情報をつかんだ日系人が敗戦で苦しむ同胞を救おうと物資を送ろうとしたところ、「神国日本が負けたなどと言う輩は日本人として許せん」という集団に殺害された事件だった。これは勝ち組と負け組の事件として当時何度も起こっているのだが、実際のところはどうだったのか?

僕は働いていた和菓子屋のオジさんに聞いてみた。『私も日本が負けるなんて信じられなかったよ、でも事実は事実だからね。でもその話はあの頃怖くてとても言えなかったよ。」そう言ってからオジさんは押し入れの奥から古いアルバムを出してきた。その中には敢えてブラジルから日本に渡り、特攻隊として終戦わずか一週間前に散っていったというオジさんの弟が戦闘機の前に立つ出撃前の写真と遺書があった。僕はそれ以上何も聞けなかった。そして今でもその写真を思い出すと涙が出てくる。

ところがこれほど日本を愛しているこの人でもブラジル人以上に強烈なラテンの顔も見せるのだ。ある日、仕事場で作業手順の事でオジさんと息子がケンカになった。エキサイトしたオジさんは2階から息子にポルトガル語で罵声を浴びせ、それから足元にあった木箱を一階の息子めがけて投げつけたのだ。幸い息子はそれをかわしたがその場にいたブラジル人もさすがにそれには驚いていた。またある日、通りを歩いていた僕を見つけたオジさんは配達用の車でとんでもないクラクションを鳴らしながら追いかけてき、そして有無もいわさず競馬に連れていかれた事もあった。僕が他に約束があるからと言ってもそんな事には全く耳をかしてくれないのだ。

この不思議な二面性が共存しているのが一世なら、その親のもとで育った世代はどうだろう?。実はオジさんがバックパッカーであるいい加減な僕らを使っていたのは他の思惑があったのだ。オジさんの末娘がブラジル人と付き合っているのがオジさんは気にいらず、できる事なら日本人と結婚させたいと思っていた。それでその候補者をバックパッカーの中に探していたのだ。そして驚いた事にオジさんと娘、両方のメガネにかなう人材が僕らの中にいた。話はあっという間に進んでいき彼とオジさん一族の仲介役にされた僕は日系社会のパーティにじゃんじゃん呼ばれるようになり、そしてそのうちその中で生まれてこの方、働いた事がないという超が付くお金持ちの一族のお嬢さんからバックパッカーの僕に結婚話が持ち込まれた。それは働かなくてもいいしマンションも上げようというこれまたとんでもない話しだった。

お祭り好きの一族はこの二組の結婚話で大いに盛り上がり、僕は勝手に進められていく一族のイベントから逃げ出した。彼等はとても親切だった。しかしあのノリにはやはりついていけないと思った。あれからかなり時間が過ぎた。みんなどうしてるかなぁ?と思っていると新聞の日曜版でサンパウロの広場で早朝のラジオ体操する老人達という写真に和菓子屋のオジさん、オバさんがどーんと写っていた。あいかわらず元気そうだった。

 

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