「日本人」とは誰のことか

本多 啓 (現代文化学部助教授、言語文化論)


最終更新 1999/5/23 23:40

去年(1998年)の夏、カナダ国籍のナイジェリア人が成田空港で三か月友人を待ちつづけた挙げ句、国外に追い出されるという騒動があった。テレビを見ながらそんな「友人」なんて本当にいるのかなあなどとぼんやり考えていたのだが、そのうち、ふと、別の疑問が湧いてきた。なぜ「カナダ国籍のナイジェリア人」なのか。なぜマスコミは「カナダ人」と言わないのか。(もちろん、「カナダ人」と言った人がいなかったと断言することはできないのだが。)

本人が「ナイジェリア人」と自称したのだろうか。「友人」がナイジェリア国籍のナイジェリア人だったのか。それとも、彼が黒人で、「カナダ人」という表現から私たちが通常イメージする人(カナダ人のステレオタイプ)とはかけ離れていたからなのか。

それとも、そもそもこんな質問をする私がただの揚げ足取り好きのへ理屈野郎で、普通の人々は「カナダ国籍のナイジェリア人」という表現を違和感なく受け入れるものなのだろうか。

さて、本稿の主題は「日本人」である。よく「日本人は日本人論が好き」と言われるが、元大関の小錦やサッカーの呂比須もやっぱり日本人論が好きなのだろうか。それはともかく、たとえばアメリカ合衆国の日系市民は「アメリカ人」なのだろうか。それとも「アメリカ国籍の日本人」なのだろうか。小錦は「日本人」なのか。それとも「日本国籍のアメリカ人」であって、「本当は日本人ではない」のか。金城武は「日本人」なのか。それとも「国籍は日本だけれども本当は純粋な日本人ではなくて、半分日本人で半分台湾人」なのか。ペルーのフジモリ大統領は、国籍上は「ペルー人」だけれども、「本当は日本人」なのだろうか?

おそらく、日常語としての「日本人」が指す対象は均質ではないのだ。日常語としての「日本人」の基準は二つある。一つは「日本国籍を有する人」。これを仮に「甲類日本人」と呼ぶ。もう一つは「甲類日本人の大部分と同じ民族/人種に属する人」。これを「乙類日本人」とする。

筆者は甲と乙の双方の基準を満たす「日本人」である。小錦や呂比須は甲の基準だけを満たす甲類「日本人」である。「アメリカ国籍の日本人」としての日系アメリカ人は乙類「日本人」である。「フジモリ大統領って、本当は日本人なんでしょ」と無邪気な質問をする中学生が使う「日本人」もやはり乙類である。「日本人のアイデンティティ」や「日本人論」と言うときの「日本人」も、普通は乙類である。

こうして改めて考えてみると、日系アメリカ人を「日本人」というのはおかしいようにも思われる。しかし「自分がどのように言葉を使っているか」と「自分がどのように言葉を使っていると、自分で自覚しているか」は、完全には一致しない。(認知とメタ認知の違いである。)そして「日本人としてのアイデンティティの有無」のような文脈では彼らは「日本人」扱いされることがある。

私たちが普通に「日本人」という場合、甲類と乙類の区別を自覚しているわけではない。日常の「日本人」概念を分析してみるとこの二つが出てくる、という話である。(つまり、「日本人」の基準は家族的類似の構造を持つゲシュタルトである。)

甲類と乙類の関係の歴史的な変遷については『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社)で論じられているらしい。(実は恥ずかしながら、筆者はまだ読んでいない。)

話は変わるが、「外人」という語は排他的だから「外国人」に言い換えようという動きがある。言換えを進める動きの背後には、「外人」と「外国人」は指しているものが同じ、という前提がある。だが、この前提は正しいのか。そもそも、「外人」のもつ排他性は何に由来するのか。

「外人」も「外国人」もともに「日本人でない人」という意味である。その限りではこの二語は同じ意味に見える。しかしすでに述べたように「日本人」は甲乙二類からなる多重的な概念である。とすると、「日本人でない人」というときの「日本人」は、甲乙どちらなのだろうか。

筆者の直観では、「外国人」は「甲類の日本人でない人」という意味である。一方「外人」は「乙類の日本人でない人」である。つまり「外国人」の基準が国籍であるのに対して、「外人」の基準は民族/人種である。国籍は所定の手続きを踏めば変更できる場合がある。しかし民族的ないし人種的な背景は変更できない。そこに「外人」のもつ排他性の由来の一端があるような気がする。

普通の人々が民族ないし人種を判別する基準は、言語、行動様式、外見などである。このうち、最初に分かるのが外見である。「外人」の典型が非アジア系であり、その一方でアジア系の人々は「外人」であることを許されない(「(乙類)日本人」との完全な同化を強要され、それをしないことで差別の対象となる)と言われることがあるが、その理由がこれにつながる。また、外見は変更できない。非アジア系の人々が、本人の「日本に溶け込もうという努力」に関わらず「外人」として扱われやすい原因はここに(も)ある。

さて、それでは「外人」を「外国人」で言い換えたらどうなるだろうか。この言換えを、「日本人」概念の二重性を考慮せずに進めた場合、起こるのは「外国人」の意味変化だろうと思う。すなわち現在「外人」が持っている意味と排他性をやがて「外国人」が持つようになりそうな気がする。「外人」の問題は「日本人」の問題でもあるのだ。

「カナダ国籍のナイジェリア人」という表現に私たちが違和感を感じないとしたら、それは私たちが「外人」の排他性の背後にある「乙類日本人」的な捉え方を知らず知らずのうちに「ナイジェリア人」にも適用しているということなのかもしれない。

以上、言語事実については推測で書いている部分が多い。いつか何らかの形で調査してみたいと思っている。


『菩提樹』(駿河台大学父母会会報)22号, 54-55 (1999-02-20) 。


議論の相手をしてくださった方々

浜田さん、松居さん、松井さん、吉野さん。(以上、現代文化学部教員。)

1999年5月22日に判明したある事実

こちらへ。

元ネタ

外人、外国人、日本人

(1998-07-14)

「日本人」ふたたび

(1998-08-27)

成田空港で3か月暮らした挙げ句、追い出された人

(1998-08-28)
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