本田美奈子の死は本当に自分でもなぜかわからんほどのショックでした。
アイドル時代の後半、売れなくなって姿が消えた後に、
突然ミス・サイゴンの主役に抜擢。
私の周囲の人達はみな「売れなくなったアイドル崩れに主役なんて大丈夫かいな」と、
迷わずチケット買いに走った私にも冷笑を浴びせてましたが、
既にロンドンで見ていたミスサイゴンの舞台と彼女の声質を重ねた時に
「これは劇的なカムバックになるかもしれない。そうなってほしい」
と言う直感が働いていました。
初日を見た時の驚きとカ-テンコ-ルの喝采のすごさは今もはっきり覚えています。
冷笑組の一人だった私の母親でさえ密かに見に行っていて「悔しかったから当時は
言わなかったけど、実はやるなぁと心の中でうなってた」なんて今になって言う始末。
しかし、私が「日本史上最高の歌手兼ミュ-ジカルスタ-」だったと信じる
越路吹雪を超える人は、いつになったら現われるのかとずっと思ってた中で、
美奈子さんは密かに期待を寄せてた人でした。
その彼女の晩年、第二の母として慕っていたのが作詞家の岩谷時子だったとここ数日の報道で知って、また感無量でした。
なぜなら岩谷時子こそ越路吹雪の舞台を支え続けた親友だったから。
そして晩年、「将来は越路吹雪さんのような歌手になりたい」と言っていたと言う
追悼報道にふれて、私はちょっとだけ救われた気がしました。
岩谷時子の勧めで、越路吹雪の十八番だった愛の讃歌を歌ったのが収められてる
本田美奈子のアルバムがあるのですが、今、彼女のCDはほとんど売り切れで買えません。
あの日、泣きながらもHMVで遺作アルバムは買えて良かったと思います。
葬儀の日に会場で流れたのは、やはり遺作盤に収められていた
アメイジンググレイスとアウ゛ェマリアだったとか。
また、ミスサイゴンでの彼女の最大の見せ場の曲名は、なんと「命をあげよう」でした。。。
思えば越路吹雪も全盛期に癌で亡くなった。。
ある意味、本田美奈子の越路吹雪を継ぐ夢は「華」として召されたことで
一つの形になったのかもしれない。
無論その過程の苦しみは余人の想像を超えているであろうけれど
「この死をいつまでも悲しむべきではないのかも。。。」と私は立ち直った次第です。。。
この一週間、掲示板の追悼スレを見ていて幾人もが「伝説の名曲・つばさ」と
書いているのを見て、聞いてみたいとずっと思ってました。
でも、この曲の入ったアルバムもどこに行ってもみつからない。
諦めかけてた所に13日朝の「題名の無い音楽会・本田美奈子追悼番組」で
ようやく聞くことができました。
(彼女の生前最後のTV出演となったのがこの番組。
その時の放送や過去の出演時の録画を編集して追悼放送)
で、納得。むしろ「伝説の名唱」という意味で。あの息継ぎなしで歌い上げる
ノンブレスのクライマックス絶唱はいったい何十秒続いていたのか。。。
しかしこの曲が最初に放送された時の番組タイトルが「岩谷時子の世界」と出ていた。
岩谷先生がどんなに彼女を可愛がり期待していたのかが、少しわかった気がしました。
同時になぜかうれしかった。「つばさ」の作詞も岩谷時子だったんですね。。。
ノンブレスの終わった瞬間のクラシックファンからのすさまじい拍手の嵐と
ブラボ-の掛け声は、ミスサイゴン初日のカ-テンコ-ルを思い出させました。
「つばさ」、ジャンニスキッキから「私のお父さん」、
クラシック調「1986年のマリリン」、ミスサイゴンから「命をあげよう」、
トゥ-ランドットから「誰も寝てはならぬ」。。。
珠玉の放送だったと思う。
こんなに芸域を拡げた彼女、やっぱり残念でなりません。
またいつか現われるであろう次の才能まで語り継ぐのが、我々の使命かも。。と。