木下黄太氏インタビュー
「放射能防御」と脱原発を巡る、もろもろの事情
原水爆反対の多数派の人たちは、反原発運動を受け入れられない
木下 それからチェルノブイリのことを知っている人たちは、今日本で起きていることはチェルノブイリで過去にあったことと同じだということを教えてくれます。
それで調べてみると、それが放射性物質に起因するものかどうかについても議論する余地はあるものの、起きている事象は全く同じなわけで、そうするとこれは被曝症状であるという判断を2011年の6月位にはせざるを得なかったわけです。
つまりそこで僕が認識したのは、「大きな原発爆発事象が起きなかったとしても、身体症状は実は早期に起きるのではないか」ということでした。
そのように、自分の頭の中での方針転換があったんです。
運営者 はい。
木下 福島第一原発の原子炉の状況が悪化するという可能性は、時間がたてばたつほど少なくなっていきます。今でもゼロではありませんが。
その次は、すでに環境中に拡散してしまっている放射性物質の影響がどうなのかということに思考を転換せざるを得ないわけです。
ところが僕はその時点から、1段階レベルが上がった攻撃を受けるようになりました。
運営者 どういう構造になってるんですかね。
木下 これは、こういう運動体にはつきものの構造なのだろうと自分たちも考えなければならないと思うのですが、原水爆に反対する運動が成立すると、その運動を続けることが大切であって、何のために原水爆に反対しているのかということが忘れられてしまうわけです。
運営者 自己目的化です。
木下 はい。ですから原水爆に反対している多くの人たちは、反原発運動を受け入れることができなかったようなんです。中には、「平和運動と原子力発電は共存できる」というような驚くべきことを言っている人たちも一部にはいるようです。
皆さん長らくお忘れになっていますが、共産党はそういう立ち位置だったんで
すよ。
運営者 代々木のビルに原子力発電反対の垂れ幕が下がったのは2011年の秋以降だと聞いています。
木下 だから、過去を確認すると、そもそも反核運動と反原発運動の間には溝があります。そして反原発運動にも、今回の福島原発事故を考えると、被曝回避という視点が著しく低いように見受けられます。
運営者 よく知らないけど、反原発運動の間には、放射能の有害性を強調するということがあったかもしれないけど、被曝回避というのはあまり考えられてなかったんじゃないですか。
木下 元々、反原発論のリーダーは、高木仁三郎しかいなかったんですよ。
彼は傑物なんだけど、彼が亡くなってから、テレビもコメンテーターにすら困ってますからね。
そして、反原発運動の中で、被曝の問題について発言してる人は元々あまりいないように思います。
原子力問題資料室の人たちは、啓蒙的な科学を追求することで反原発運動をしようとしてるように見えます。それは別にいいんだけれど、それはその観点でしかないし、一般の人が理解する話とは位相がずれます。だからあまり重視できないのではないでしょうか、テレビ的な大衆観点で言うと。
運営者 メディアは何か事件や事故があった場合に、それについて専門の視点で解説してくれる人を求めるわけですが、そういう専門家はまともな人でないと困るということをメディアの側は考えるわけですけど、そのレベルに達している人がいるのかどうかということですよね。
木下 ある種の社会的な感覚も必要だと思うんです。
必要なのは、「現実に放射性物質が原発事故で大量に出ているときに、チェルノブイリの経験から考えると具体的に何をしなければならないのか」ということに対する考慮なんです。
運営者 反原発の皆さんはあんまり考えてないのかな。
木下 彼らがあまり食べ物に気をつけていないと言うケースを、僕は実際に目の前で見ました。サラダをばくばく食べていたし。
被曝回避と、反原発の間には、そういう落差があるんです。
そうすると僕は、デモで政府に圧力をかけるのも難しいし、とにかく自分で身体症状のケースを丹念に拾って情報発信していくしかないという、暗たんたる状況に2011年の6月の時点で追い込まれてしまいました。
その後、土壌調査につながっていくわけです。
運営者 そういうことか、よくわかりました。