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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
明治の唱歌 (幼年唱歌、中等教育唱歌集、その他)
  うさぎとかめ   キンタロー   夏は來ぬ  野中の薔薇 
 春風  真白き富士の根  旅愁 
  犬童球渓の略歴   石原和三郎の略歴   田村虎蔵の略歴   納所弁次郎の略歴
童謡・唱歌 事典 (編集中)




キンタロー

作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/06/15)

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画

 【初出】
 納所弁次郎 田村虎蔵(共編)『教科適用 幼年唱歌』初編上巻(十字屋) 明治三十三年(1900年)六月十八日発行で発表されました。作詞者は石原和三郎、作曲者は田村虎蔵です。
 言文一致の唱歌として作られ発表されましたが、民間で作られたので文部省唱歌とはいいません。文部省が発行した国定教科書『尋常小学唱歌』には掲載されていませんが、歌い継がれ愛唱歌になりました。
 明治三十九年六月二十五日訂正六版発行は国立音楽大学附属図書館で所蔵しています。訂正前は、「キンタラウ、」「ハィシィドゥドゥ、ハィドゥドゥ、」 「ハッケヨィヨィ、ノコッタ、」の表記でした。
 さらに訂正十版では「キンタ ロー」「ハイ、シイ、ドードー、ハイ、ドードー」「ハッケ、ヨイヨイ、ノコッタ、」になっています。

▽田村虎蔵・納所弁次郎共編『教科適用 幼年唱歌』初編上巻(発行所・十字屋)
明治三十九年六月二十五日訂正六版発行(国立音楽大学附属図書館所蔵)


(表紙)

  【題材】
 歌詞の題材は、想像力豊かに作られた「金太郎伝説」です。
 “金太郎は、足柄山に住む山姥(やまうば)が、雷鳴の中で赤竜の夢を見て生んだ全身真っ赤なたくましい男の子。いつもマサカリを持ち、熊、サル、ウサギ、などと金時山で遊び、猛獣と力を競うほどの怪力の持ち主であったという。 二十一歳の時、上総国(かづさのくに)から上京する源頼光(みなもとのよりみつ)に見いだされて坂田金時(さかたのきんとき。「酒田(さかた)」とも「公時(きんとき)」とも書く)の名を与えられ、家臣になった。そして頼光(らいこう)四天王の一人として大江山の鬼(酒呑童子 しゅてんどうじ)を退治したが、頼光の死後、行方が伝えられていないという。”(『伝説のふるさと』より)

  (註1)<なぜ金太郎の体は赤いのか?>
 金太郎の体の赤は、「魔よけの赤」。「子供という意味の赤」でもある。
  (註2)<なぜ金太郎は「マサカリ」を持っているのか?>
 『前太平記(ぜんたいへいき)』に金太郎の父は雷様と書いてある。落雷により木が裂けた現象を「雷様は大きなマサカリを持っている」と昔の人は信じた。雷様の子供である金太郎はマサカリを持ち歩いたと考えた。「大マサカリを持つ金太郎」(鳥居清満・安永年間)の絵が残っています。
  (註3)<「上総国」は?> 旧国名の一つ。千葉県中央部を占める。
  (註4)<「酒田」とは?>
  南足柄の金太郎伝説は、“地蔵堂に四万長者といわれた金持ちがあった。この長者に一人の娘があった。娘は酒田氏と結婚して金太郎が生まれた。・・・・・・”(『南足柄のむかしむかし』より)。
 開成町には昔「酒田村」があったが、現在は酒田という地名は存在しない。「酒田神社」がある(現・開成町延沢四六五番地)。
 開成町の金太郎伝説は、“足柄上郡酒田村の豪士で都の荘園なども管理していた酒田義家という者がいた。一族間の所領争いから叔父に殺されてしまった。義家には生まれたばかりの男の子がいた。金太郎である。・・・・・・”(『町史へのいざない』より。大正十二年七月発刊の『三国伝説』(足柄山の金時)にも当時の伝説が紹介されている)。
 (註5)<「頼光四天王」とは?>
 源頼光は、平安時代中期の武将。俗に「らいこう」とも呼ばれます。頼光四天王は、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)。強者の家臣がいたと言われている。
  (註6)<「大江山」とは?>
  ・京都府福知山市天座(あまざ)の「普光寺」には、源頼光と四天王らが大江山の酒呑童子退治に出向く前に戦勝祈願をした写経が奉納されている。
  ・「大江町」は現在の京都府福知山市。大江山の麓に位置する場所で、大江山の鬼伝説の町。ここには鬼退治に出向く前に金時が力試しをした「金時踏み倒し杉」がある。さらに山中には金時がマサカリを研いだ「金時斧研ぎ石」などがある。
  ・西京区大枝沓掛(おおえくつかけ)町には「首塚大明神」がある。この首塚は大江山で退治した酒呑童子の首を京都へ持ち帰ろうとしたが、道端のお地蔵さまから不浄な物を都へは持ち込めないとお告げがあり、首が重くなって金時も運べなくなり仕方なくこの地に首塚を作ったというもの。
  以上は、『足柄山の金太郎』第一部「伝説の謎に迫る」。第二部「全国伝説地巡り」南足柄市郷土資料館館長・笠間吉高 神奈川新聞(2015年11月20日から2016年3月25日)を参考にしました。「金太郎は実在しないが、坂田金時のモデルと推定される人物は存在した」など興味深い話が沢山書かれています。

  【歌詞について】
 『キンタロー』の歌詞はカタカナで書かれています。「マサカリカツイ」が正しいのですが、「マサカリカツイ」のように、間違った歌詞で歌われる事があります。口語体のやさしい言葉で書いてあり、今までの文語体の唱歌と異なり、子供にわかりやすくなっています。
 歌詞の第一節では、お馬のけいこのようすを、第二節ではすもうのけいこのようすを歌っています。「ハイ、シイ、ドードー、ハイ、ドードー、」「ハッケヨイヨイ、ノコッタ、」には、子供は元気に外で遊んでほしいという親の願いが込められているように思います。

 【「足柄山」はない】
 神奈川県には、「足柄上郡」「足柄下郡」「南足柄」という地名があります。小田急線には「足柄」という駅があり、御殿場線にも「足柄」という駅があります。金時山のふもとの駅です。
 歌の二番に出てくる「足柄山」という名前の山はありません。しかし、歌った誰もが疑問を持ちません。それほど、違和感なく歌われ、歌い継がれています。作詞をした石原和三郎は、後日、「足柄山」がないと知った時、どんなに驚いたことでしょう。

  <金太郎と金時のキーワード「足柄山」>
 大正十五年(1926年)発行の『大日本人名辞書』の坂田公時(金時)の項には、次のように書かれているようです。
  「源頼光四天王の一、坂田主馬佐と称す。相州足柄山の産、力萬人に超ゆ、凡そ一代の高名、筆紙に尽くしがたし、頼光卒してのち、その成在を知らず」。
 また、出生地を「足柄山」に固定したのは享和二年(1802年)成立の『前太平記』、いわゆる俗史書のようです。
 「足柄山」で熊と相撲を取っていた金太郎と、「足柄山」で源頼光に見いだされ都に上って坂田金時と名を改め、大江山の鬼退治をしたという史上の武将を結びつけるキーワードが「足柄山」かもしれません。金太郎伝説には夢があります。

  【伝説の舞台「金時山」】
 一帯は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。箱根外輪山の一つ「金時山」は、イノシシの鼻のように突き出た山容から、かつては猪鼻嶽(いのはなだけ)と呼ばれた。登山コースとしては、足柄峠・矢倉沢峠・乙女峠らの3コースがある。いずれも2時間以内のコース。

 箱根外輪山の中で、ひときわ高くそびえる「金時山」が、伝説の舞台です。国土地理院の発表によると、山岳標高の改訂で「金時山」は海抜1213メートルから1212メートルに。1メートル低くなることになった。新しい標高は2014年4月1日から適用される。測量技術の進歩だけでなく、地殻変動なども理由とみられます。
 金時山の名前は、金太郎伝説にちなんで命名されたといわれ、足柄平野から金時山の山頂にかけては、数多くの逸話が残されています。たとえば、大雄山線の大雄山駅から「足柄道」を行くと地蔵堂の奥に金太郎が産湯を使ったという「夕日の滝」があります。長じた金時が京の都に向かう源頼光と出会ったのが「夕日の滝」とも伝えられています。二人はここで主徒の契りをかわしたという。



△金時山への登山者。
写真撮影は小田原市在住の
西口まさゑさん

△山頂の茶屋を経営する金時娘と
撮影者の西口まさゑさん

△金時娘と登山仲間。山頂にて。 

冬の金時山。
(2010年1月1日)

撮影は
西口まさゑさん


△金時山から見た元日の富士山(2009年1月1日)西口まさゑさん撮影

 【曲について】
 曲は、へ長調・四分の二拍子。シ音とファ音を抜いたヨナ抜き長音階です。四小節ずつ二つのフレーズでまとまり、それにかけ声の節が付け加えられています。
 ゆっくりとした速さで、各小節の初めに少し力を込めて元気に歌いましょう。特に、かけ声の所は、リズムをはっきりと、強い感じを込めて歌います。乱暴にならないように歌いましょう。
 『金太郎』の昔話や紙芝居をして歌も歌うと、いっそう楽しくなります。

  【言文一致運動】
 明治二十年代、すでに文学の方で山田美妙、二葉亭四迷らによる言文一致運動がおこっていました。しかし、音楽の方では、当時の文部省が『蛍の光』『仰げば尊し』『庭の千草』などの曲を歌わせていました。歌詞は、文語体で難しく、子供にはよくわかりませんでした。田村虎蔵は、毎日教鞭を取りながら、これではいけないと考えていました。作曲家の納所弁次郎と、作詞家の石原和三郎に相談し、子供たちのために言文一致唱歌曲集を作ることにしました。
 「子どもには、子どもの言葉を使った、子どもの生活感情に合った唱歌を与えよう」というのが、言文一致唱歌運動の理念であり、一種の革命でした。
 明治三十三年六月十八日、十字屋から田村虎蔵・納所弁次郎共編『教科適用 幼年唱歌』初編上巻が発売されました。(全十編)
 この新しい唱歌集に対して、文部省や一部の大人は俗っぽいと批判的でしたが、掲載曲が知っている昔話を題材にしたもので、楽しい挿し絵が入り、絵本のようだったので子供たちには人気となり全国で歌われました。その一つの成果が、「キンタロー」だったのです。

 【石原和三郎の略歴
  ・石原和三郎は、慶応元年(1865年)十月十二日(新暦十一月二十九日)、上野国勢多郡花輪(現・群馬県みどり市東町花輪)に生まれました。
  ・明治六年(1873年)小学校が開校した。九歳の和三郎は、すぐに入学しました。
  ・明治十年(1877年)十三歳、抜群の成績で小学校を卒業した和三郎は、校長に勧められ、黒保根村水沼小学校塩沢分校の助手教員となりました。その学校は生家から十キロ離れた、山間の無住寺で児童数は約十名、教師は和三郎一人でした。毎日、事務員と二人で寝泊まりし、週末に家に帰った。父は最初の頃よく迎えに来てくれた。時には父に「おんぶ」されて家路をたどることもあった。父の背中でスヤスヤと眠る先生でもあった。こうして子供たちを教えながら、自分も勉強を続けました。
  ・明治十九年(1886年)五月、南勢多郡第十一北尋常小学校(現・渋川市立刀川(とうせん)小学校)へ転任。
  ・明治二十年(1887年)五月、群馬県尋常師範学校(現・群馬大学教育学部)入学。師範学校の学費は公費でまかなわれ、食事、衣服は支給され、手当(小遣い)も支給された。師範学校を選んだのは、父に負担をかけないためだった。ここで音楽教官の内田粂太郎に出会い、音楽に親しみ、音楽教育の重要性を学んだ。成績は常に首席だったという。恩師の内田粂太郎は、音楽取調掛時代の音楽学校の出で、後に出会う納所弁次郎(「うさぎとかめ」の作曲者)と同期でした。
 ここで注目したいのは、経済的に富まれなかった和三郎は、参考書など買う余裕がなかったので、友人から借り受けて、徹夜で書き写している。文章だけでなく、挿絵や図版なども詳細に写している。書と画の才能は、後の挿絵入り唱歌集の出版に大きくかかわりを持つ事になる。
 もう一つ注目したいのは、成績優秀、常にトップの和三郎だったが、四年生の時、胃病のためしばらく入院した。そのためその年だけはライバルの友人・根岸福弥にトップを譲らざるを得なかった。根岸とは終生の付き合いとなる。
  ・明治二十四年(1891年)、群馬県尋常師範学校を卒業。 師範卒後、二十六歳の和三郎は、東村の花輪尋常高等小学校訓導兼校長に赴任しました。村人達の喜びにこたえるべく、お寺を借りての授業だったので、赴任後、二年で校舎の新築を実現し、その記念にオルガンを購入しました。当時、家が一軒建つほど高額なものでした。明治二十六年のことです。
 和三郎は音楽家ではなかったが、音楽教育に情熱を注いだ。和三郎は早くから、「小学唱歌は難しすぎる」と言っていました。このころの花輪小学校の唱歌授業は、指揮棒と口伝えで教えていましたから、購入したオルガンを弾けるのは和三郎校長だけでした。
  ・明治二十九年(1896年)、上京し高等師範学校附属小学校訓導になりました。
  ・明治三十一年(1898年)には国語と図画の文部省検定試験に合格し、中等教員免許を取得しました。ここでも、書と画の才能が見られます。
  ・明治三十二年(1899年)、東京音楽学校出身の田村虎蔵も着任します。 「子供の唱歌は、子供の言葉で作るべきだ」と意見が一致しました。学習院女子部教授だった納所弁次郎を作曲の仲間に迎え、明治三十三年(1900年)六月十八日、十字屋発行『教科適用 幼年唱歌』を出版しました。


坂本嘉治馬

国語読本巻一
  ・明治三十三年(1900年)三月、坪内逍遥編『国語読本 高等小学校用』の出版を計画していた出版社・冨山房(ふざんぼう)社主の坂本嘉治馬(さかもとかじま)が、和三郎の国語教育に対する意見と詩才の豊かさを認め、入社を懇願してきました。それからは、冨山房に入社して『国語読本』の編纂にあたり、自らも執筆を行う一方で、多くの作詞をしました。号を万岳(ばんがく)と称しました。

  ・作品には、『花咲爺』(田村虎蔵作曲)、『浦島太郎』(田村虎蔵作曲)、『牛若丸』(田村虎蔵作曲)、『兎と亀』(納所弁次郎作曲)、『さるかに』(納所弁次郎作曲)など次々に作詞し、それを自分たちで作った『幼年唱歌』『尋常小学唱歌』に掲載。全国で愛唱されるようになりました。
  ・大正十年十月、群馬県尋常師範学校時代からの旧友・根岸福弥の茨城師範学校長の栄転を祝って料亭で宴をはり、そこの階段をすべり落ちて人事不省になった。
  ・大正十一年(1922年)一月四日、五十七歳死去。病床に伏していたが、そのまま意識をとりもどすことなく、年が改まると、まもなく亡くなった。
  (註1)『第73回企画展 童謡のふるさと 石原和三郎の世界‐「うさぎとかめ」発表から110年‐』の略年譜には、大正11年(1922)57歳一月四日死去。と書いてある。
  (註2)1865.11.29—1922.1.4 56年1か月余で亡くなっているので、満年齢は56歳、数えなら1922年元日を過ぎているので58歳となる。享年の場合は、生を享けた年数(生年と没年も加える)という考えでは、享年58(年数なので歳を付けないのが通例)、一方亡くなった時の年齢と見なす考えでは、享年56(歳)であるが、1年未満を1年に切り上げ、享年57(歳)とする場合もある(歳は付ける、付けないの両方あり)。宗派、地域、時代などによっていろいろのようです。
  ※死亡年齢については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年12月06日)。

 石原和三郎の故郷、群馬県勢多郡東村大字座間(現・みどり市東町座間)には平成元年に『童謡ふるさと館』が建てられました。自筆原稿などが展示してあります。
 和三郎の国語の才能は、唱歌の作詞にいかされ、その出版物への挿絵の導入のアイディアは、図画の才能がいかされているとみたい。


  【田村虎蔵の略歴
  ・田村虎蔵は、明治六年(1873年)五月二十四日、鳥取県岩井郡馬場村(現・岩美郡岩見町馬場)に生まれました。
  ・明治二十五年(1892年)三月、鳥取県尋常師範学校を卒業。
  すぐ因幡高等小学校訓導となったが、八月末退職して上京。九月東京音楽学校に入学。
  ・明治二十八年(1895年)七月、東京音楽学校本科専修部を最優秀の成績で卒業。
  ・明治二十九年(1896年)九月、兵庫県尋常師範学校助教諭となり教鞭を取ります。
  ・明治三十二年(1899年)七月、高等師範学校訓導兼東京音楽学校助教授を拝命。東京高等師範学校(明治35年、高等師範学校から改称、現・筑波大学)附属小・中学校では、二十五年間教職にあり、堀内敬三や末広恭雄(「秋の子」の作詞者)などを教えています。
  ・明治三十七年(1904年)九月、東京高等師範学校訓導兼教諭。
  ・明治四十三年(1910年)十月、東京音楽学校教授に任ぜられ辞職、以後、東京高等師範学校専任。
  ・大正十三年(1924年)、欧米より帰国後は、東京市の音楽担当視学となり、行政面でも活躍をしました。
  (当時の職員録では、東京市教育局視学課視学事務嘱託となっている)
  ・昭和十八年(1943年)十一月七日、東京で逝去、七十歳。
 ●藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)の記載「八十歳で世を去り」は間違い。

 【『東京藝術大学百年史』の田村虎蔵の略歴】
 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1321ページには次のように書いてあります。
 田村虎蔵 (たむら とらぞう)
  ・鳥取県平民
  ・明治六年(1873年)五月二十四日、鳥取県岩井郡馬場村(現・岩美郡岩見町馬場)に生まれる。
  ●“明治四年(1971年)五月二十四日 鳥取県因幡国岩美郡浦生村生。”と書いてあるのは間違い。
  ・明治十五年(1882年)十二月二十日 鳥取県岩井郡公立浦生小学校小学初等科卒業。
  ・明治十九年(1886年)五月十四日 同校小学中等科卒業。
  ・明治二十年(1887年)九月一日 鳥取県尋常中学校中学校に入学十一カ月間余修業。
  ・明治二十五年(1892年)三月三十一日 鳥取県尋常師範学校卒業。小学校教員免許状取得。
   四月七日 任鳥取県因幡高等小学校。
   九月二十日 東京大八洲学校に入り一カ年半国語修業。
   九月十一日 鳥取県知事の推選を以て東京音楽学校入学。
  ・明治二十七年(1894年)四月一日 東京国民英学会に入り一カ年余英語修業。
  ・明治二十八年(1895年)七月五日 高等師範学校附属音楽学校卒業。
   九月二日 尋常師範学校尋常中学校高等女学校音楽科教員免許状取得。
  ・明治二十九年(1896年)九月十一日 任兵庫県尋常師範学校助教諭。
  ・明治三十二年(1899年)四月一日 任兵庫県師範学校教諭。
   七月八日 依願免兵庫県師範学校教諭(論旨)。
   七月十三日 任高等師範学校訓導兼東京音楽学校助教授。
  ・明治四十年(1907年)九月十三日 唱歌編纂委員を命ぜられる。
  ・明治四十三年(1910年)十月六日 兼任東京音楽学校教授。
   十月二十日 依願免兼東京音楽学校教授。

  <校名変遷>
  ・明治12年 文部省音楽取調掛
  ・明治20年10月4日 東京音楽学校
  ・明治26年9月11日 高等師範学校附属音楽学校
  ・明治32年4月4日 東京音楽学校
  ・昭和24年5月31日 東京藝術大学音楽学部

  【功績は音楽教育の改革】  
 <第一> 言文一致唱歌の実現推進。
 納所弁次郎・田村虎蔵共編『教科適用 幼年唱歌』、佐々木吉三郎・納所弁次郎・田村虎蔵共編『尋常小学唱歌』各学年用別冊(国定教科書共同販売所)明38・10~明39・4など、田村は作曲活動と共に、精力的に教科書を編纂しました。 この『尋常小学唱歌』は、後の国定教科書の『尋常小学唱歌』とは別のものです。作詩、作曲とも田村、納所その他当時民間の有力作詞家・作曲家の作品を集め、「文部省唱歌」の堅苦しさにくらべて親しみやすい作品が多かったので、各小学校では「文部省唱歌」と併行して愛用されました。
 外国曲を多く採用した点でも特色がありました。
 掲載曲は、子供たちに盛んに歌われ、これまでの小学校の唱歌教育を一変させました。わが国の一般音楽教育を樹立した功労者です。

 <第二> 児童の発声の提唱です。
 大声叫声的な歌唱を禁じ、生理発育に応じて、低学年は軽快な頭声、高学年で柔軟な胸声を加えるという指導法です。これは大正十一年に文部省の派遣で欧米に在留二年間、各国を歴訪して得た成果の一つです。

 <第三> 鑑賞教育の必要を強調したこと。
 良い音楽を聴くことの重要性「子どもの心情に即した平易な曲から高級な曲へ」を説いた。

 以上は『田村虎蔵・岡野貞一 名曲のしおり』(鳥取市)平成五年十月第二刷発行による。

  ・・・鳥取県鳥取市西町には、『わらべ館』があります。田村虎蔵作品や、子供の歌についてのさまざまな展示物が並んでいます。

  【歌碑】
 東京都新宿区筑土八幡町(つくどはちまんちょう)の筑土八幡神社境内には『金太郎』の初めの四小節の楽譜の入った「田村虎蔵先生をたたえる碑」があります。晩年、田村虎蔵がこの社の裏手に在住したことを記念し、建立されたものです。
 (田村は牛込区筑土八幡町三一番地に居住)

 【石原和三郎・田村虎蔵・納所弁次郎の関係】
 明治二十年代になって、文学の方面では、山田美妙や二葉亭四迷の言文一致運動がおこりました。
 三人は、歌の方面で言文一致唱歌運動を進めようという同じ主張を持っていました。共に子供のための歌づくりに情熱を注ぎました。
 石原和三郎は、明治二十九年、上京し高等師範学校附属小学校訓導になりました。明治三十二年、東京音楽学校出身の田村虎蔵も着任します。二人は短期間ではあるが同僚でした。「子供の唱歌は、子供の言葉で作るべきだ」と意見が一致しました。学習院助教授(華族女学校教授)だった納所弁次郎を作曲の仲間に迎え、明治三十三年六月十八日、十字屋発行『教科適用 幼年唱歌』を出版しました。
 石原和三郎は、明治二十年五月、群馬県尋常師範学校入学。ここで音楽教官の内田粂太郎に出会い、音楽に親しみ、音楽教育の重要性を学んだ。恩師の内田粂太郎は、音楽取調掛時代の音楽学校の出で、納所弁次郎(「うさぎとかめ」の作曲者)と同期でした。成績優秀だった石原和三郎を、納所弁次郎に紹介したのではないかと思われます。

  一方、田村虎蔵は、“神戸に在住中から小学唱歌の改善について熱心に考え続けていたが、明治三十二年の上京を機に、これを実行に移すことにしました。まず相談したのが大先輩の納所先生、大賛成を得ました。”これは、昭和十一年頃の「朝日新聞」に、納所弁次郎の死にあたって「小学唱歌の父逝く」という追悼文の中の一節。つまり、東京音楽学校出身の田村虎蔵は、先輩の納所弁次郎を尊敬し、慕っていたので、東京に出ると、納所弁次郎に相談を持ちかけた。“小学生の歌っているものは、詞も曲もさっぱり子供には判らない。たとえば『川瀬の若鮎』などというのが一年生の唱歌でした。これではいけない、子供には子供の詩がある。子供の曲がある、というのが改善の指導精神でした。・・・”というような事を話したのです。

 (註)以上の引用文は、藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)で見ることができます。

 話を持ちかけられた納所弁次郎にも異存はなく、さっそく新しい曲集を作ることになりました。しかし、それにはまず歌曲のもとになる歌詞が必要なので、石原和三郎が担当しました。
 こうして三人は、言文一致唱歌運動を進め、数々の歌の本を出版することになる。
 また、家族ぐるみの付き合いがあったようです。鮎川哲也著『唱歌のふるさと花』(音楽之友社)には、次のように書いてあります。
  “当時の田村虎蔵は東京・牛込(現在の新宿区)の五軒町に住んでいた。やがて石原和三郎も隣りに移転して、同じ井戸を使って生活した。和三郎の子息・善雄は、田村夫人にかわいがられ、お父さんが作詞した唱歌に曲がつくと、しばしば呼ばれて歌わされたという。
  ★『文京ゆかりの作詞・作曲家』(文京区教育委員会)には、“石原和三郎、牛込区東五軒町に転居”と書いてある。当時、田村は牛込区牛込東五軒町五四番地に居住していた。
 石原和三郎は、この五軒町時代に長女を失い、その悲しみを忘れようとするかのように牛込田町に引っ越す。今度の家は、納所弁次郎宅に近く、この新居で誕生した三男を抱いて散歩に出ると、よく納所家に立ち寄ったそうである。”
 

  【金太郎ゆかりの地】 金太郎ゆかりの地、神奈川県南足柄市では、市制施行二十周年を記念して、シンボルマークを募集、緑の小鳥を手にした赤い腹がけの、かわいい金太郎のマークが誕生しました。

 「足柄金太郎まつり」では、金太郎の曲をアレンジした「金太郎サンバ」が祭りを盛りたてます。

 「足柄大橋」や、伊豆箱根鉄道・大雄山線の大雄山駅前では、「金太郎像」が旅行客を出迎えています。中央下が大雄山駅前の金太郎像です。
 また、右の写真は足柄大橋の金太郎像です。車で松田町から開成町方向へ行く道と、開成町から松田町方向へ行く道とは違う像になっています。




 南足柄市矢倉沢の「夕日の滝」は、金太郎が滝の水を産湯として使ったとの言い伝えが残っています。
 (左上。1994年1月16日撮影写真)。

 静岡県小山町には「金太郎誕生の地」の金太郎伝説があり、昭和初期に創建された「金時神社」や「金時公園」があります。御殿場線には「駿河小山(するがおやま)」「足柄(あしがら)」という駅があります。そのほか金太郎ゆかりとされる地は、全国各地にあります。


 足柄の牛乳を使って作ったという「きんたろう牛乳ラスク」が2015年4月、コンビニで販売されていました。神奈川限定発売とのこと。東京の製菓メーカーの品物です。

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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うさぎとかめ

作詞 石原和三郎
作曲 納所弁次郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/10/30)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【初出】
 納所弁次郎 田村虎蔵(共編)『教科適用 幼年唱歌 二編上巻』(十字屋) 明治三十四年八月二十八日発行で発表されました(奥付参照)。国立国会図書館所蔵(複写可)。作詞者は石原和三郎、作曲者は納所弁次郎です。
 言文一致の唱歌として作られ発表されましたが、民間で作られたので文部省唱歌とはいいません。文部省が発行した国定教科書『尋常小学唱歌』には掲載されていませんが、歌い継がれ愛唱歌になりました。

 表紙絵は、黒板に「すめらみくに・・・」の詩が書いてあり、女の先生がオルガンを弾いています。男の生徒一人が起立して歌い、ほかの男女の生徒は座って聴いています。当時の小学校の唱歌の授業風景がわかります。
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奥付

(奥付)


(表紙)

  【歌詞の題名は『うさぎとかめ』】
  明治三十四年版の歌詞の題名は『うさぎとかめ』です。歌詞は平仮名で書いてあり、「小山・こやま」と「一・ひと」が漢字で、「グー」「ピョン」はカタカナになっています。一番の二行目は、「せかいのうちに」です。左上に亀の歩む姿が、右下には兎の寝ている姿が描かれています。今までの歌詞だけの歌集と違い、挿絵が付いていた事も人気でした。子供たちは、その挿絵を見ながら楽しく歌いました。
 (註)「小山」のふり仮名は、『教科適用 幼年唱歌』二篇上巻 明治三十四年版では、ご覧のように「こやま」となっています。私・池田小百合が書き込んだものではありません。「ヲヤマ」というふり仮名は間違いです。

 うさぎとかめ

  【初出・明治三十四年版楽譜の検証】
  くわしく楽譜をみましょう。
  (1)一番は「セカイノ ウチニ」
  (2)第十一小節目に一か所だけタタのリズムがある(「モノ ハナ」の「ハナ」の部分)。
  (3)「ドウシテ」の部分はララドドとなっている。
  (4)二番の歌詞付けは「ナン トオッ シャー ル」で、とても歌いにくい。
  楽譜の歌詞も「コヤマ」になっている。

  【言文一致の歌詞】
  当時の唱歌は、一般に文語調の難しい歌詞のものがほとんどでした。明治二十年ごろ、文学の側から言文一致運動が起こりました。『うさぎとかめ』も、「児童のための唱歌は、日常使っている言葉によるものでなければならない」という話し言葉にそった歌詞の言文一致の考えで作られたので、「どうして」「そんなら」「どうせ」「あんまり」などの日常語が使われています。 その中心になったのは、石原和三郎、納所弁次郎、田村虎蔵、巌谷小波らでした。今に至る日本の音楽、唱歌教科書に大きな影響を与えた人々です。その時作られた歌は、これまでの日本の音楽を推進してきた人々からは非難されましたが、学校の先生や児童には大好評でした。そのため明治の末に文部省が唱歌を編纂するとき、言文一致のスタイルをとりました。

  【生きることへの教訓】
  この歌詞を聞いたとき「世界のうち」という言葉がひっかかります。なぜ「動物」や「みんな」ではなく、大げさな「世界」という表現をしているのでしょうか。
  亀は、明治時代の日本や日本の子供たちの姿であり、先行する兎は欧米諸国やその国の人々と考えてみましょう。今は遅れていても、いつかはきっと兎に勝つというのは、ただの動物の話とは思えません。歌が誕生した時代は、日清・日露戦争の狭間で、国の運命と個人の運命が重なっていて、個人ががんばれば、国も発展していくという時期でした。つまり、この歌は日本の子供に希望を与え励ます歌として作られています。
  現代人が作ったらどうなっていたでしょうか。今は、子供に競争をさせること、順位をつける事はよくないという風潮があります。『うさぎとかめ』のような主張のはっきりした歌詞は書けない時代となりました。この歌には、人をばかにせず、怠けず着実に歩めば、得られる物は大きいという、明治時代の生きることへの教訓が含まれています。

  【楽譜の曲名は『兎と龜』】
  明治三十四年版の楽譜に書かれている曲名は『兎と龜』です。楽譜は、カタカナで歌詞付けされています。歌唱の音符はタッカタッカのはずむリズムです。

  【初出・明治三十四年版楽譜の検証】くわしく楽譜を見ましょう。
  ①一番は「セカイノ ウチニ」。
  ②第十一小節目に一ヶ所だけタタのリズムあり(「モノ ハナ」の「ハナ」の部分がタタのリズム)。
  ③「ドウシテ」の部分は「ララドド」となっている。
  ④二番の歌詞付けは、「ナン トオッ シャー ル」で、とても歌いにくい。

  【ピョンコ節・ヨナ抜き節】
  ドレミソラの五つの音を使い、「ファ」と「シ」を省いた日本人に親しみやすいヨナ抜き五音音階でできています。明治時代には<ヨナ抜き節>といわれていました。 リズムは「もーし もーし かーめ よ」というように付点音符タッカのリズムでピョンコピョンコとはねるようなリズムでできています。明治時代には<ピョンコ節>といわれていました。元気が出て楽しくなるリズムです。古くは「あんたがたどこさ」「ずいずいずっころばし」のように、日本のわらべ歌や民謡に多いリズムです。譜面上は、付点音符タッカのリズムで書かれていても、ヨーロッパの音楽のそれとは全然違い、適当にピョンコピョンコと歌えばいいのです。日本人は、<ヨナ抜き節>と<ピョンコ節>の歌が大好き。

  【楽譜の改訂Ⅰ】
  <表紙>文部省検定済『教科適用 幼年唱歌 二編上巻』表紙絵は初出と同じ。
  <扉>明治三十六年七月二十二日 文部省検定済 尋常小学校唱歌科児童用 納所弁次郎 田村虎蔵 共編『教科適用 幼年唱歌 貳編上巻』東京 銀座 (十字屋発行)。
  <奥付>★明治三十五年七月一日発行。明治三十六年七月十三日訂正再版発行。明治三十八年八月二十日参版発行を見ると、二番の歌詞付け「ナン トオッ シャー ル」と、初版では歌いにくかった部分が、「ナー ント オッシャ ル」と改訂されています。しかし、まだ歌いにくい。ほかは明治三十四年版と同じ。国立音楽大学附属図書館所蔵(複写可)。

  【★謎の発行日】
  <奥付>を見ると最初に発行されたのは明治三十五年七月一日と書いてある。現在の出版物では最初に書いてある発行日が、その本の初版だが明治時代は違うようです。【初出】を参照してください。納所弁次郎 田村虎蔵共編『教科適用 幼年唱歌 二編上巻』(十字屋)は、 明治三十四年八月二十八日発行が最初に発行された本です。

 
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(奥付)

(扉)

  【「世界のうちで」に改訂】
  初出、明治三十四年版の歌詞は「せかいのうちに」と書かれています。後日出版された、田村虎蔵編『検定唱歌集 尋常科用』(松邑三松堂)大正十五年四月十三日発行。<大正十五年四月二十八日再版発行>には、楽譜の下に編者の田村虎蔵による次のような重要な事柄が書いてあります。
  △第一章の「世界のうちに」は「世界のうちで」に改めた方が宜しい。
  △ 歌詞の歌ひ方は、此楽譜の通りに教授されたい。
  △ 出来上がった後は、兎と龜との組を分けて、交互に掛合で歌 はせると面白い。
  此種の工夫は、各教授者によって、それぞれ考案されたい。

  【楽譜の改訂Ⅱ
  田村虎蔵編『検定唱歌集尋常科用』(松邑三松 堂)をくわしく見ましょう。
  (1)一番は「セカイノ ウチデー」。
  (2)第十一小節目に一ヶ所だけあったタタのリズムがタッカになっている(「モノ ハナ」の「ハナ」の部分がタッカのリズム)。
  (3)「ドウシテ」の部分は「ララドラ」と言葉のアクセントにそった形になっている。
  (4)二番の歌詞付けは、「ナー ント オッ シャル」に改められ、歌いやすくなりました。
  改訂された理由は、本が出版され歌われ出すと、みんながこのように歌ったからです。

  【歌詞のページの改訂】
  田村虎蔵編『検定唱歌集尋常科用』(松邑三 松堂)では、歌詞の題名も『兎と龜』にし、楽譜と歌詞のタイトルを 統一しました。兎と亀の挿絵はありません。掲載歌詞には、(兎)の組、 (亀)の組が歌うように指示してあります。二組に分かれて歌うのに、 ぴったりな歌です。歌詞には難しい漢字がたくさん使われていて、「 世界のうちで お前ほど、」に改訂されています。

  【田村虎蔵のメッセージ】
  田村虎蔵編『検定唱歌集 尋常科用』(松 邑三松堂)の歌詞の左側には、次のような指導が書いてあります。
  ○此学年児童に最も興味ある童話、「兎と龜」の事実を歌って、愉悦の快感を養ふと共に、唱謡中知らずしらずのうち、油断は大敵だ、常に勉強せねばならぬことを知得させるにある。・・・種々の替歌をつけて歌はせているようであるが、これは比較的良好な音楽を俗悪に導き、作者の徳義を無視する次第であるから、大に戒めねばならぬと思ふ。
  みんなが大声で歌った逆さ言葉の替歌「しもしも めかよ めかんさ よ」や、言葉を抜いた替歌などは意味を成さず、田村虎蔵が怒るのももっともです。『うさぎとかめ』は、このような替歌が流行るほど歌い親しまれました。

  【その後の楽譜は】
  (1)昭和五年発行、本居長世編『世界音楽全集 第十七巻 日本童 謡曲集』(春秋社)は、楽譜と歌詞のタイトルが『兎と龜』に統一してあります。楽譜の歌詞付けは「セカイノ ウチデ」になっています。他も、田村虎蔵編『検定唱歌集 尋常科用』(松邑三松堂)と同じですが、二番は「なー んと おつしや る」のままです。
  (2)昭和二十六年発行の小松耕輔編『世界名曲全集 日本童謡曲集Ⅲ』(春秋社)は、楽譜と歌詞のタイトルは『うさぎとかめ』に統一してあり、他は本居長世編版と同じです。
  (3)楽譜出版界のロングセラー『日本童謡名歌110曲集 1』(全音)は、楽譜と歌詞のタイトルは『うさぎとかめ』に統一してあり、二番は「なん とー おっ しゃる」に変えてあります。これも、歌いやすい。「もの はな」は、初版の明治三十五年版楽譜と同じ「タッカ タタ」のリズム。  
  このように、いろいろな楽譜が出版されてしまいました。

  【レコードは】楽譜が次々と改訂されたため、歌い方もさまざまです。
  最も古いものでは、ニッポノホン1599 歌手・納所文子 ピアノ伴奏・納所弁次郎が「世界のうちに」「ものはない/♪♪」「どうして/ララドド」と歌っているものや、ビクター51543歌手・納所米子(外二名) 伴奏・管弦楽団(昭和六年二月発売)が「世界のうちに」と歌ったレコードが残っています。
  また、リーガル65631 歌手・納所米子 伴奏・オーケストラや、トンボレコード15141歌手・長妻規尹子 ピアノ・長妻完至 シロホン・三上秀俊が「世界のうちで」と歌ったレコードも販売されました(以上レコードについては北海道札幌市在住のレコードコレクター・北島治夫さんによる。北島さんは、『兎と龜・兎と亀・うさぎとかめ』関連のレコードを十八枚(十八種類)所有しておられます。お願いしてリストを掲載させていただくことにしました。レコードコレクターは必見です。2008/12/01)。

  【北島治夫「兎と亀」 所蔵のSPレコードまとめ一覧】
会社 レコード
番号
歌手 ①世界の
○うち
×うち
②もの
はな
×は~ナ
③どうして
○ララドド
×ララドラ

○「亀」旧字
×亀
ニッポノホン 1599 納所文子
米コロムビア 2549 吉澤とも子 × 1
ビクター 51543 納所米子 × ×
リーガル 65631 納所米子 × × ×
オリエント 1525 井上ます子 × 2
トンボ 15141 長妻規尹子 × × × × 3
キング S1051 小坂勝也 × × × 4
センター 67 河合貴美子 × ×
やよひ 2309 舟山千代子 × × ×
コロムビア C69 岩田佐智子 × × × ひらがな
キリン K551 中野義夫 × × × 5
キング 花 2 石井玲子
小川貴代乃
× × × ×
タイヘイ 4544 山内澄子 × × × 6
ニットー S1076 名古屋雛菊
童謡会
× × × ×
ツル 5015 小針尋常
小学校1年生
× × ×
ビクター V40471 ビクター児童
合唱団
× × ×
ビクター 8B37 岩田佐智子 × × × ×
オリエント 4693 小供座生徒 × × × ×
キリン K597 谷中百合子 × × × 7
内外 2013 濱村よね子 × × 7
キリン K619 中山桂子 × × × ×
ニットー S1031 草野和歌子 × × × ×
②○=♪♪のリズム    ×=付点八分音符と十六分音符(タッカ)のリズム
註1 レコード番号から明治39年、米コロムビア出張録音である
 2 △としたのは1~3番まで「ララドラ」と歌い、4番「さっきの」を「ララドド」と歌っている
 3 レコードレーベルには普通の「亀」の字であるが、歌詞カードには旧字
 4 富士音盤 S1051では旧字、後発のキングAB1011では普通の「亀」
   3番「どうせ」(どーーせ)を「どーせー」と歌っている。
 5 前奏の演奏。2番、4番を「ララドド」と歌っている。
   「ひとねむり」を「ひとやすみ」と歌っている。
 6 「もしもしかめよ」(ミレレ)を「ミミレ」と歌っている。
 7 以下は、北海道の森本克彦さんから教えてい ただいた内容を、
 北島治夫さんがまとめたもの。(当時のレコード会社情報
 (1) 内外蓄音器(ナイガイ)は昭和5年に改組され、太平蓄音器(タイヘイ)になった。
 タイヘイの傍系レーベルがキリンやコメットなどである。
 (2) キリンの谷中百合子と内外の濱村よね子のレコードは同一音源で、
 収録曲は「鳩ポッポ」「日の丸の旗」「兎と亀」「牛若丸」「池の鯉」「小馬」。
 全6曲の時間も同じで、「池の鯉」は同じ箇所で間違っている。
 キリンレーベルはタイヘイレコードの傍系レーベル(廉価盤)で、タイヘイは元々
ナイガイであるので、濱村よね子のレコードがオリジナルである。
 マイナー・レーベルの会社では、当時傍系レーベルで再発するときは、
歌手名を変えて発売することがよくあった(この場合は濱村を谷中百合子と改名)。
 (3)森本さんによると、マイナーレーベルは社史も月報もないので、会社の全貌や
発売盤一覧、発売年月日を調査するのはほとんど絶望的とのこと。

▲内外レコード 濱村よね子名義             ▲キリン 谷中百合子名義

  〔参考〕日本ビクターの童謡歌手・米子は、納所弁次郎の初孫。その母親は、童謡歌手の第一号といわれた文子(ふみこ)です。(鮎川哲也・著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。この本は、作者の遺族の聞き取り調査をまとめたもので、貴重な資料です。研究者は必見です。

  【納所(のうしょ)弁次郎の略歴
  ・慶応元年九月二十四日、陸奥国仙台(現・宮城県仙台市)に生まれました。
納所弁次郎
△納所弁次郎
(東京築地で出生という文献がある)
  ・文部省の音楽取調掛(東京音楽学校の前身)に入って西洋音楽を学んだ第一回(明治二十年)卒業生十一人の中の一人。のち華族女学校、学習院女学部の音楽教師として二十五年間勤務。大正元年九月に退官。
  その後も東京高等商業学校(現・一橋大学)や森村学園小学部で優れた音楽指導をおこなった。また常宮・周宮御用掛などになった。
 ・晩年は出身地・仙台の令息のもとに身をよせ、ピアノを教えたりしていたが、昭和十一年(一九三六年)五月十一日、広瀬川のほとりの居宅で亡くなった。
  ・特筆すべき事は、田村虎蔵と二人で編集した『幼年唱歌』は、日本の唱歌教育に革命をもたらした。音楽会ではテノールの声で男声歌手としても活躍。娘の文子(ふみこ)、孫の米子(よねこ)を歌手として起用したレコードを残している。
 「納所弁次郎は、クリスチャンでした。オルガニストで、番町教会の礼拝で伴 奏したそうです。」(大塚野百合著『賛美歌・唱歌ものがたり』創元社による)。

  【自己流うさぎとかめ】
  田村虎蔵は、「世界のうちで」に改めようとしましたが、「世界のうちに」で歌い継がれてきていたので徹底しませんでした。<ピョンコ節>を楽譜に表わすのは難しく、歌を覚えた人々は、楽譜にとらわれず、歌いやすいように所々変化させて口から口に歌い継ぎました。日本人なら誰でも知っているこの曲は、今や「自己流うさぎとかめ」になりました。どれが正しいかなど愚問でしょう。

  【童謡ふるさと館】
  群馬県勢多郡東村大字座間367‐1。東村花輪出身の石原和三郎の遺品が展示されています。

  【イソップ寓話か】
  「イソップ寓話を題材にした物語唱歌」「イソップ物語は、文禄二年にキリシタン宣教師によってもたらされた」との定説がありますが、くわしく調査をした人はありませんでした。その事を話題にした本が出版されています。日本童謡の不思議研究会 代表は舎人周(とねり・あまね/ミステリー作家)著『おもしろおかしく「謎」を解く「童謡」の摩訶不思議』(PHP研究所)2003年1月8日発行。
  『うさぎとかめ』の後日談が沢山あるようですが、おもしろい事はありません。

  【後記】
  酒匂川の橋の上を西日を背にして小学生の女の子が歌いながら来る。「♪もしもし かめよ かめさんよ」。高い声が楽しく夕空に響く。女の子に手を引かれたおじいさんは、笑みを湛えて本当に嬉しそうだ。背中のリュックから釣竿が出ている。橋の向こうの釣堀に孫と一緒に行って来たのでしょう。たくさん遊んだ帰りです。自転車に乗った私と目が合うと、おじいさんは、ますます嬉しそうな顔をした。私も、嬉しくて笑い返した。
  昔は、このような場面では、近所のおばさんやおばあさんが、「賢い子だねえ」とか、「上手だねえ」「偉いもんだ」「孫に引かれて善光寺参りで、いいねえ」などと言葉をかけたものです。私は、とっさに言葉か出なかった。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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夏は來ぬ

作詞 佐佐木信綱
作曲 小山作之助


池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/09/01)



 青い空に白い雲が浮かび、身も心も開放的になる初夏になると、歌いたい歌があります。それが『夏は來ぬ』です。「なつーは きぬー」と、さわやかに気持ちよく歌えば、心地よい風が吹いて来ます。

  【佐佐木信綱が作詞】
 『夏は來ぬ』は、作曲者の小山作之助から頼まれた佐佐木信綱が作詞しました。「作曲がまず成り、作詞はあとで信綱に依頼されたものです」佐佐木信綱門人・村田邦夫氏からの手紙による(平成九年十二月二十九日、神奈川県三浦郡葉山町在住)。

  【初出】
 東京音樂學校教授 小山作之助編 二集『新撰國民唱歌』大阪 三木樂器店印行。明治三十三年六月十四日發行。著作者 小山作之助、發行者 三木佐助、發賣所 共益商社樂器店(筑波大学図書館所蔵)。
 文部省唱歌と思っている人が多いようですが、このように民間の唱歌集で発表されたものなので、文部省唱歌ではありません。


▼『新撰国民唱歌(二)』
 明治三十三年發行

 表紙 

 表紙には二集と書いてある。


▼目次および奥付

▲小山作之助編『新撰国民唱歌(二)』明治三十三年発行 
作歌「佐々木信綱」 作曲「本元子」
二番は、「賤(しづ)の女(め)」
三番は、「立ばなの、かほる軒ばの、」「怠いさむる、」
五番は、「夏はきぬ、螢とびかひ、」「卯木花さき、」となっている。

 【歌の普及】
  歌が発表されると、美しいメロディーがほめそやされ、多くの人に歌われ親しまれました。
 佐佐木信綱門人・村田邦夫氏からの手紙によると、「小山作之助は、佐佐木信綱の父弘綱(ひろつな)の門弟で、当時すでに有名な音楽家でした。信綱よりは年長で、知名度も高く、信綱は小山作之助からの依頼を光栄とし、注文通り純日本風の古典的な歌詞を作ったのですが、『この歌が広く唄われるのは、作曲が佳いため』と、当時から人々に言われ、信綱は大そう気にして、ついに『佐佐木信綱全集』(全十六巻)の中には、採り入れませんでした」。
 (註)小山作之助は、当時、東京音楽学校教授。

 採り入れなかった理由は、他にもあったようです。たとえば初出の五番は「夏はきぬ」が二回出て来てしまう。もっと検討の余地があったように思えます。教育音樂講習會編纂  第五集『新編教育唱歌集』東京開成館蔵版(明治三十八年八月十七日修正五版発行)の「さつきやみ」の方が優れている。

 
                          ▼教育音樂講習會編纂 第五集『新編教育唱歌集』東京 開成館蔵版 
                             明治三十八年八月十七日修正五版発行
教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集(五)』明治三十八年修正五版発行
二番は、「賤(しづ)の女(め)」のままで、
三番は、「橘(たちばな)のかをるのきばの」に、
五番は、「さつきやみ、螢とびかひ、」「卯の花さきて、」に改訂されている。
読点も変更されている。
「きぬ」は「來ぬ」 に改訂された。


▲表紙 奥付は、教育音樂講習會編纂となっていて、小山作之助の名前はない。
目次は、1ページ目から詞曲(第五集の場合は<須磨明石>)で、序文がない。
小山作之助の名前はどこにも書かれていない。

 【歌詞について】
 『夏は來ぬ』には、美しい古歌(万葉集・後拾遺集・和泉式部日記・栄花物語・明治歌集・枕草子・晋書・桃岡集・源氏物語など)の言葉が使われています。

    山里は卯の花垣のひまをあらみ忍び音もらす時鳥かな     (加納諸平「歌集 柿園詠草」二、雑の部)
    五月雨に裳裾ぬらして植うる田を君が千年の御まくさにせむ       (「栄花物語」巻第十九 御裳着)

 『夏は來ぬ』の形態は、ほぼ短歌と同じ五・七・五・七・七の三十一文字(みそひともじ)に、各節共通して「夏は來ぬ」の五文字でしめくくられています
 初夏を思わせる植物や動物、生活を取り巻くどこにでもある風景が歌われ、その優れた表現は、春から夏へ移り行く、すがすがしい日本の風景絵巻を見ているようです。

 佐佐木信綱門人・村田邦夫氏(信綱七十歳の時より秘書を務めた)からの手紙には、「望郷の歌というより万葉集などの古典から、日本の美をメドレー的に綴ったものだろう」とあります。

  <一番>
  『万葉集』には、「卯の花」を詠んだ歌が二十四首ある。そのうちの十八首は「時鳥」とともに詠まれている。
 「うーのはなーの」と歌い出す「卯(う)の花」は、基本的には茎が空洞になっていることから「空木(ウツギ)」という名前で呼ばれるようになりました。高さ二メートル程度になるユキノシタ科の落葉低木で、ほぼ日本全土に渡って分布し、日の当たる場所に普通に生えています。ウツギは、庭木や生け垣に使われます。五月から七月ごろ五枚の花弁を持つ白い花を咲かせます。これが「卯の花」です。

 陰暦(いんれき)の四月のことを「卯月(うづき)」と呼びます。卯月は「卯の花月」ともいい、卯の花が咲き始める季節という意味です。現在の暦ではおよそ五月に当る。五月の到来を告げる花です。

 この白い花を兎にたとえ、「兎」の古名「卯」をとって「卯の花」ともいわれています。豆腐のしぼりかすの「おから」は、「卯の花」の白さに似ていることから「うのはな」という名前がついています。

 「うの花のにほふ」は、「良い匂いがする」ではなく、ここでは「あざやかな白が美しく映える」という意味です。「卯の花」といわれる一般的なウツギには香りはありません。

 信綱の生家の書斎からはウツギの植え込みも見えます。ウツギは単に農作業の時期を知らせてくれるだけでなく、イネの作柄を占い、豊作を祈願する花として重要視されました。神聖な木であるウツギは、外界から庭や屋敷など内なるものを守る境界木として垣根に用いられるようになりました。ウツギの垣根は『万葉集』にも詠われている日本で最も古い生け垣であり、昔は垣根といえば、それはウツギの垣根を意味するほど一般的でした。

 「忍音(しのびね)」は、「時鳥(ホトトギス)」がその年に初めて鳴く初音のことです。「時鳥」は、夏になると「特許許可局」や「てっぺん かけたか」と鳴くと聞きなしされることで知られていますが、最初は上手に鳴けません。これが「忍音」で、山里の人々は、その「忍音」を聞くのを楽しみにしていました。「時鳥」は、毎年、五月頃になると南から渡ってくる初夏の到来を告げる鳥。 「卯の花」も「時鳥」も田植の始まる季節を知らせてくれます。昔の人々は、卯の花が咲き、ホトトギスが鳴き始めるのを注意深く待っていました。

 「夏は來(き)ぬ」は、「夏が来(き)た」という意味です。この場合の「ぬ」は完了の助動詞で、「夏は来ない」という打ち消しの助動詞ではない。「夏は來(こ)ぬ」と読めば「夏が来(こ)ない」という意味になる。

 『夏は来ぬ』には句読点がある。注目したいのは「うの花のにほふ垣根に、」と、「垣根に」の後に読点があることです。この節は「うの花の垣根ににほふ」を倒置して書かれています。「垣根に時鳥が」来たのではありません。時鳥は「早もきなきて」の方につながります。
 ≪垣根に明るく照り映えて卯の花が咲いたよ、ホトトギスが早くもやって来て声をひそめて鳴く初音をこっそり聞かせてくれる。その夏が来た≫という意味です。ホトトギスが垣根に飛んで来て鳴いているわけではありません。
 「ホトトギス」は、カッコウの仲間で、山林に生息している野鳥ですから、ふつうは人里近くに飛んで来たり、人家の垣根で鳴くことはありません。カッコウの仲間は、他の鳥の巣に卵を産み付ける託卵という習性を持っています。そのためホトトギスは仮親となるウグイスが卵を産む時期を待って他の渡り鳥より少し遅い五月に日本にやって来ます。
  ●このように見て来ると、どの解説書にも書いてある、「卯の花の垣根にホトトギスが来て鳴く」という解釈は間違いということになります。

   <二番>
  二番では、「さみだれ(五月雨)」旧暦五月に降る梅雨の長雨の中、田植えをする女性「早乙女(さおとめ)」たちが、「玉苗」心を込め立派に育てたイネの苗、つまりは早苗(さなえ)を植えていて、活気に満ちています。女たちの笑い声が聞こえてくるようです。

  「さみだれ」「さおとめ」「さなえ」の「さ」は、田の神様の稲魂(いなだま)を意味する言葉です。早乙女が早苗を植える時期が「皐月(さつき)」。もともと皐月は五月の事だったが、今の暦では六月くらい。田植の時には神様が下りて来るので「さおり」というお祝いで神様を迎え、田植えが終わると「さのぼり(または、さなぶり)」で神様を送る。
   (参考) 稲垣栄洋著『赤とんぼはなぜ竿の先にとまるのか?』(東京堂出版)。

 初出の「賤(しづ)の女(め)」の「賤=いやしい」は差別用語のため昭和十七年に「早乙女」に改められました
 「賤の女が裳裾ぬらして」→「早乙女がもすそぬらして」に訂正。信綱が訂正したものです。

 昭和十七年(1942年)6月の「國民合唱」というラジオ番組で『夏は來ぬ』が放送になった。この時、二番の「賤の女」が「早乙女」に改められたものが放送になり、放送された歌詞は、昭和十七年六月号の「音樂之友」(音樂之友社)誌で確認できる(日本近代音楽館所蔵)。

  <三番>
 三番の「橘(たちばな)」は、コウジ(柑子)の古名です。初出の「立(たち)ばな」は、教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集(五)』(東京 開成館)明治三十八年修正五版発行で「橘」に改作されました。
 「螢」が飛び交うさまが詠まれています。小さな虫も、懸命に生きています。「おこたり諫(いさ)むる」は、怠けるのを忠告する事です。

  <四番>
 四番の「楝(あふち)」は、センダン(栴檀)の古名です。庭に植える落葉樹(らくようじゅ)。夏の初め、うすむらさきの花をつけます。
 「楝=あふち」は古語で、歴史的かなづかいでは、「あふ」と表記された言葉は、「オー」と発音するのが正しい。歌う時は「おーち」と歌います。現代かなづかいでは「おうち」と表記します。旧かなづかいが忘れられる時流に従って、文字表記の通りの発音で歌う歌手を見かけますが、ここだけ「おうち」と歌うのはおかしい。

 「水鷄(くひな)」は、夏に水辺で夜から明け方にかけてカタカタと鳴く渡り鳥の一種です。水田、沼、川岸などの草むらにすみ、巣はアシの茎で作り、六~十個産卵する。

  <五番>
 「さつきやみ(五月闇)」とは、雨雲が垂れこめた夜の暗さをいいます。「五月(さつき)」は、明治初めまで使われていた昔の暦(旧暦)での言い方で、今の暦(新暦)では六月頃に当ります。
 五番は、まとめの内容になっていて、一番の「卯の花」、二番の「苗」、三番の「螢」、四番の「水鷄」がもう一度出てきています。


「卯の花」(学名、うつぎ) 
佐佐木信綱記念館の葉書

早乙女の田植え(池田千洋画)

橘:コウジ(柑子)の古名。
5-6月、枝先に2cm程の
白い芳香ある花を付ける。

橘の実:(ミカン科ミカン属)
冬には3cmほどの黄色い果実になるが、
酸味が多くて食用には適さない。

楝(あふち)センダン(栴檀)の古名。
庭に植える落葉樹。
夏の初め、うすむらさきの花をつける。

水鷄(クイナ)

五段目には御所の紫宸殿前の
左近の桜、右近の橘を模写し、
向かって右に桜の木、
左に黄色の実のついた橘の木
を配します。

 初出の明治三十三年発行『新撰国民唱歌(二)』(三木楽器店)に掲載の五番の歌詞、「夏はきぬ、螢とびかひ」「卯木花さき」は、教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集(五)』(東京 開成館)明治三十八年修正五版発行では、「さつきやみ、螢とびかひ」「卯の花さきて」と、現在歌われている歌詞に改められています

 昭和十七年(1942年)6月の「國民合唱」というラジオ番組で『夏は來ぬ』が放送になった。この時、二番の「賤の女」が「早乙女」に改められたものが放送になった。五番は初出の歌詞で歌われました。放送された歌詞は、昭和十七年六月号の「音樂之友」(音樂之友社)誌で確認できる(日本近代音楽館所蔵)。127ページに書かれている歌詞は以下のようです。
 
      五、夏は來ぬ
         螢飛び交ひ水鷄鳴き
         うつぎ花咲き早苗植ゑ渡す
         夏は來ぬ。

  【作詞者 作曲者について】
 明治三十三年発行『新撰国民唱歌(二)』を見ると、作歌「佐々木信綱」作曲「本元子」になっています。作歌とは作詞のことです。

 <作歌「佐々木信綱」>
 作詞者の佐佐木信綱は、明治五年(一八七二年)六月三日(新暦四月二十八日)、三重県鈴鹿郡石薬師村(現・鈴鹿市石薬師町)の国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれました。十一歳で上京し、同十七年、十ニ歳で東京大学文学部附属古典講習科国書課に入学。同二十一年卒業。
  旧姓は「佐々木」といいましたが、同三十六年の上海旅行の際、名刺に「々」が印刷できなかったことから(⇒)、「佐佐木」姓を用いるようになりました。『夏は來ぬ』を発表した頃は「佐々木信綱」でした。
 同三十八年より東京帝国大学講師、歌人で万葉集研究家、国文学者として幅広く活躍し、昭和三十八年十二月二日、九十一歳で亡くなりました。

 ⇒中国に旅行中、上海で作った名刺。  
 中国には「々」の文字がないので、このような表記となった。
 以後、信綱は終生「佐佐木」姓を用いた。
 
 <作曲「本元子」の正体>
 作曲「本元子」とは誰なのでしょうか。鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)の『夏は來ぬ』には、「小山作之助は、自信作に準じた作品には、作曲者「本元子」とし、急がされて推敲不充分なものには、みずから「作曲者不詳」としたそうです」と書いてあります。「本元子」は小山作之助のペンネームで、当時住んでいた東京市本郷区元町から取ったと言われています。
  作曲者の小山作之助は、文久三年(一八六三年)十二月十一日(新暦一八六四年一月十九日)、越後国中頚城(なかくびき)郡潟(かた)町村(現・新潟県上越市大潟区潟町)で生まれました。明治十三年上京し、築地大学校(現・明治学院大学)へ入学。同十六年、音楽取調掛(のちに東京音楽学校と改称)に入学し伊沢修二に師事。
 短歌を愛し、歌人の佐々木弘綱の門弟でした。その後、同三十年には東京音楽学校の教授となり『夏は來ぬ』ほか多数の作曲をし、伊沢修二らと共に日本の音楽教育の基礎を築いた一人として活躍しました。昭和二年六月二十七日、満六十三歳で亡くなりました。

 【『東京藝術大学百年史』の小山作之助の略歴】
 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1318ページには次のように書いてあります。
  小山作之助(こやま さくのすけ) 新潟県平民
  ・文久三癸亥年十二月十五日、越後国中頸城郡潟町村生。
  ・明治十一年(1878年)新潟県中頸城郡潟町小学校卒業。九月 新潟県中頸城郡髙田町小島堅吉に就いて漢学修業。
  ・明治十三年(1880年)九月 出京築地大学校およびその他において英漢数学修業。
  ・明治十六年(1883年)二月十六日 文部省音楽取調掛に入学。
  ・明治十七年(1884年)二月十五日 品行方正学芸優等につき本掛規則第一章第四条の旨により給与。
  ・明治十九年(1886年)七月二十七日 生徒頭を申し付けられる。
  ・明治二十年(1887年)二月十九日 本掛所定の学科を修め正に其業を卒え、本掛研究生となる。本掛授業補助を申し付けられる。五月十日 東京府において唱歌伝習所が開設されるのに伴い本月十六日より毎日二時間唱歌教授を委嘱される。十二月十日 東京盲唖學校洋琴唱歌教授嘱託。
  ・明治二十一年(1888年)三月一日 東京府尋常師範学校助教諭心得を申し付けられる。三月八日 第一回小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。五月二十四日 第二回小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。五月二十五日 尋常師範学校尋常中学校高等女学校音楽科教員。九月二十五日 任東京府尋常師範学校助教諭。九月今般南足立郡千壽小学校において唱歌伝習所が開設されるのに伴い唱歌教授を委嘱される。
  ・明治二十二年(1889年)四月二十五日 前期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。十月二十五日 後期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。
  ・明治二十三年(1890年)四月九日 前期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。五月二十一日 東京府尋常中学校生徒へ一週六時間唱歌授業嘱託。六月十七日 任東京府尋常師範学校教諭兼尋常中学校教諭。七月東京盲唖学校移転につき金五拾円外一点を寄附し同校長の賞状を受ける。九月二十七日 後期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。
  ・明治二十四年(1891年)三月二十六日 前期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。四月二十日 任東京府尋常師範学校助教諭。十月一日 後期小学校訓導及授業生學力検定試験委員を申し付けられる。十二月八日 臨時歌曲取調方嘱託。
  ・明治二十五年(1892年)二月二十三日 祝日大祭日歌詞及楽譜審査委員嘱託。三月三十一日 東京盲唖学校の都合により当分洋琴教授を見合わせることとなり教授嘱託を解かれる。四月二十八日≪一月一日≫≪元始祭≫≪神武天皇祭≫≪春秋皇霊祭≫≪勅語奉答≫唱歌用楽譜製作嘱託。七月二十日 任東京音楽学校助教授。十一月十一日 兼任東京音楽学校書記。十一月二十二日 任文部属兼東京音楽学校助教授専門学務局詰。
  ・明治二十六年(1893年)五月二十四日 祝日大祭日歌詞及楽譜審査委員嘱託を解かれる。七月二十六日 免本官専任東京音楽学校助教授。九月十一日 任高等師範学校附属音楽学校助教授。
  ・明治二十九年(1896年)三月二十四日 学術研究のため神奈川県下小学校の巡回を命ぜられる。
  ・明治三十年(1897年)十一月二日 任高等師範学校附属音楽学校教授。
  ・明治三十二年(1899年)十二月七日 師範学校学科程度取調委員を命ぜられる。
  ・明治三十三年二月二十一日 第十三回師範学校中学校高等女学校教員検定委員を命ぜられる。五月十八日 師範学校中学校高等女学校教員夏期講習会音楽科講師嘱託。
  ・明治三十四年(1901年)五月十六日 師範学校中学校高等女学校教員夏期講習会音楽科講師嘱託。六月二十九日教員検定委員会臨時委員。
  ・明治三十五年(1902年)三月十一日 教員検定委員会臨時委員を免ぜられる。 四月二十一日 高等女学校要目取調委員を命ぜられる。文官分限令第十一条第一項第四号により休職を命ぜられる。
  ・明治三十六年(1903年)二月十七日 第五回内国勧業博覧会審査官。第九部勤務を命ぜられる。
  ・明治三十八年(1905年)九月十一日休職満期。

  <参考 校名変遷>
  ・明治12年 文部省音楽取調掛
  ・明治20年10月4日 東京音楽学校
  ・明治26年9月11日 高等師範学校附属音楽学校
  ・明治32年4月4日 東京音楽学校
  ・昭和24年5月31日 東京藝術大学音楽学部

  【『夏』について
 ところで、『夏は來ぬ』発表の翌年、明治三十四年七月廿五日発行の小山作之助編『新撰国民唱歌』第二集(著作者・小山作之助 発行者・西野虎吉 発行元・三木佐助 発行所・東京開成館 大阪開成館)に掲載されている『夏』は、メロディーは『夏は來ぬ』と同じ。ハ長調 四分の四拍子。歌詞は全く違うものです。
  (註)国立音楽大学附属図書館 国立国会図書館に所蔵。国立音楽大学附属図書館で複写をしてもらったが、真っ黒で判読困難だった。古い書物だから仕方がないか。



     夏    作歌「無名氏」
           作曲「本元子」


   一、 あたらしく、ほりたる池に、
      水ためて、 金魚はなさん、
      夏こそ今よ、
      いざ来れ、

   二、 手をうてば、群れくる鯉を、
      数へつゝ、  橋を渡らん、
      夏こそ今よ、
      いざ来れ、


      ・・・歌詞は二十番まである。


 <明治三十四年版 小山作之助編『新撰國民唱歌』まとめ>
 小山作之助編『新撰國民唱歌』第一集~第五集。東京開成館 大阪開成館 明治三十四年発行(東書文庫 国会図書館で所蔵)。合本も出版されている(東書文庫で所蔵)。明治三十三年版とまぎらわしいので調査はますます混乱した。
 明治三十四年七月五日発行の小山作之助編『新撰國民唱歌』第二集は、「夏は來ぬ」の初出と同じタイトルの本だが、発行所が東京開成館 大阪開成館。「夏」(作歌 無名氏、作曲 本元子)が掲載されていて、「夏は來ぬ」は掲載されていない。

▲小山作之助編『新撰國民唱歌』第一集~第五集の目次。第二集に「夏」が掲載されている。

 <作歌「無名氏」とは誰か?>
 作曲者の「本元子」=小山作之助。作之助は、二十番まである歌詞を作ったものの推敲不充分だったので「無名氏」としたのでしょう。
 「夏」の歌詞で歌ってみると、「♪あーたらしーく ほりたるいけに みーずためーて きんぎょはなさん なーつーこーそいーまーよ いざーきーたーれー」。「夏」に比べて「夏は來ぬ」の方が優れている。信綱に歌詞を依頼したことが納得できます。
 信綱は作之助から依頼されて「夏は來ぬ」を作ったとき、たぶん「夏」を知らなかったのでしょう。作之助は、まず明治三十三年版で「夏は來ぬ」を発表し、自分で作った「夏」は翌年発表した。その際に“作歌 無名氏”とした。したがって、「夏」は「夏は來ぬ」の元歌ではありえません。結局、歌い継がれたのは信綱が作った「夏は來ぬ」の方でした。

 【歌い方について】
 さあ、歌ってみましょう。各節最後の「夏は來ぬ」が、この歌の山場です。しっかり息継ぎをして、大きく美しく歌いましょう。

 <明治三十三年版と明治三十八年版の違い>
 教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集(五)』明治三十八年修正五版発行では、三、四、五番は、五、六小節目の歌詞付けが改訂されています。

      明治三十三年『新撰国民唱歌(二)』   明治三十八年『新編教育唱歌集(五)』 
   (1) シノビーネ|モーラース             シノビーネ|モーラース
   (2) たまなーへ|うーうーる            たまなーへ|うーうーる
   (3) オコタリイ|サームール           オコターリ|イサムール
   (4) ゆふづきす|ずーしーき           ゆふづーき|すずしーき
   (5) サナヘーウ|エーワタス           サナヘーウ|エワタース

 長い間歌われた(明治三十八年版)の歌詞付けは、難しく無理があります。なぜなら、三十一文字に五文字を加えた定型のスタイルも、三、四、五番は字余りで、余った部分をどう歌うか困るのです。当時の楽譜には伴奏譜はなく、数字付きのメロディー譜の下に七番までの歌詞が掲載してありました。

  <昭和二十二年版にそろえて歌う>

▲『五年生の音楽』(文部省)昭和二十二年発行
 一番と五番が掲載されている。
 この22年版については、小山作之助は昭和二年に亡くなっているので関与していない。

 現在は、昭和二十二年発行『五年生の音楽』の伴奏譜で歌われています。歌詞付けも、この楽譜にそろえて歌うのが定着しつつあります。歌い出しをそろえた事で歌いやすくなった。
  昭和二十二年版では、一番と、五番が伴奏譜付きで掲載されています。小学生の音楽教材としては、歌詞が難しかったために省いたものと考えられますが、歌っていく間に初夏の風景がイメージできる良さがあるので、歌詞を省略せずに歌ってほしいものです。文部省が編集した昭和二十二年版にそろえた歌詞付けは、自然で歌いやすい。

     昭和二十二年『五年生の音楽』     昭和二十二年版にそろえた歌詞付け
      (1) しのびーね|もーらーす        (1) しのびーね|もーらーす
                               (2) たまなーえ|うーうーる
                                (3) おこたーり|いーさむる
                                (4) ゆうづーき|すーずしき
      (2) さなえーう|えーわたす        (5) さなえーう|えーわたす



 【『夏は來ぬ』はいつ、どの本に発表されたか】
 文部省唱歌と思っている人が多いようですが、民間の唱歌集で発表されたもので、文部省唱歌ではありません。では、いつ、どの本に発表されたものでしょうか。 調べてみました。

  <間違い>
 発表年は、すべての資料に「明治二十九年五月、教育音楽講習会(編)『新編教育唱歌集(五)』に掲載」と書かれています。これは間違い
  この間違いは、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)に依っているからでしょう。

 【「夏は來ぬ」の初出】
 <明治三十三年発行『新撰國民唱歌』>唱歌教材目録(明治編)による。
  小山作之助編『新撰國民唱歌』二集(大阪 三木樂器店 明治三十三年発行)、「夏は來ぬ」が掲載されている。東京学芸大所蔵。

  明治三十三年(1900年)発行の『新撰國民唱歌』(大阪 三木樂器店)東京学芸大所蔵は以下の通り。
  ・小山作之助編『新撰國民唱歌』壹。(附 東宮殿下御慶事奉祝之歌)。「夏は來ぬ」は掲載されていない。
  明治三十五年五月増補再販。
  ・小山作之助編『新撰國民唱歌』二集。
  ・小山作之助編『新撰國民唱歌』三集。「夏は來ぬ」は掲載されていない。

  <明治三十四年発行『新撰國民唱歌』>唱歌教材目録(明治編)による。

  明治三十四年(1901年)発行の『新撰國民唱歌』(東京、大阪 開成館)国立国会図書館所蔵は以下の通り。第二集に歌詞の異なる「夏」が掲載されている

  ・小山作之助編『新撰國民唱歌』第一集、小山作之助編『新撰國民唱歌』第二集、小山作之助編『新撰國民唱歌』第三集、小山作之助編『新撰國民唱歌』第四集、小山作之助編『新撰國民唱歌』第五集。
  (註) 小山作之助編『新撰國民唱歌』第一集~第五集(開成館 明治三十四年発行)合本も出版されている。東書文庫所蔵。(『明治以降教科書総合目録 Ⅰ 小学校篇』による。)

  「夏」が掲載されている明治三十四年版とまぎらわしいので調査は混乱しました。「夏は來ぬ」発表の翌年、明治三十四年七月廿五日発行の小山作之助編『新撰国民唱歌』第二集(著作者・小山作之助 発行者・西野虎吉 発行元・三木佐助 発行所・東京開成館 大阪開成館)に掲載されている「夏」は、メロディーは「夏は來ぬ」と同じ。ハ長調 四分の四拍子。歌詞は全く違うものです。『佐佐木信綱記念館』でも、間違えて「『夏は來ぬ』 は、明治三十四(一九〇一)年「新撰国民唱歌」に掲載された(佐佐木信綱記念館調べ)。」という間違った情報を出していた。これは、横田憲一郎著『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社)で見る事ができます。

 【『新編教育唱歌集』について】

  【発行年順に調査すると】
 最初に調査した時は、『新編教育唱歌集』(教育音楽講習会編)は、旧版(全二集)と新版(全八集)に分かれて出版されている事に気がついていませんでした。それで、各図書館に問い合わせ混乱しました。さらに出版社も同系列の出版社と思っていませんでしたので、出版社の方から連絡があるまで混乱しました。その混乱ぶりが以下のようです。削除しがたく、そのまま掲載して置く事にしました。
  (註)“『新編教育唱歌集』は、旧版(全二集)と新版(全八集)を区別すべきであると分かりました。日本音楽教育学会編「日本音楽教育事典」音楽之友社2004.3.31に説明があります。”と、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年10月26日)

 教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集』第一集 大阪 三木書店蔵版 明治二十九年一月十日発行(発行者・三木佐助/賣捌所・全国教科書店)には、『夏は來ぬ』は掲載されていない(国立国会図書館に所蔵)。

    ▼ 『新編教育唱歌集』第一集 表紙 東京大学附属図書館 情報サービス課 参考調査掛から送られて来た複写。
      「新編」という重要な部分が貼り紙で隠されている。
▲第一集 (訂正四版) 表紙 ▲第一集 (訂正四版) 奥付 文部省検定済とある

 第一集(訂正三版 三木書店)明治三十年発行には『夏は來ぬ』は掲載されていない(山口大学図書館に所蔵)。
第二集 (訂正四版) 奥付
本書目的 高等小學校 尋常中學校
尋常師範學校 高等女学學校 唱歌教科書用


  教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集』第二集 明治二十九年五月二十六日発行(発行者・三木佐助/賣捌所・三木書店 共益商社)には、『夏は來ぬ』は掲載されていない(国立教育図書館に所蔵)。
  教育音樂講習會編纂『新編教育唱歌集』第一集(訂正四版 発行者 三木佐助)、 第二集(訂正四版 三木書店) 『夏は來ぬ』は掲載されていない(東京大学附属図書館 国立国会図書館 、東京芸大、岐阜大学、大阪教育大学図書館に所蔵)。

 (註) 岐阜大学附属図書館所蔵  教育唱歌一集 奥付
 ・明治二十九年一月十日 発行
 ・明治二十九年八月一日 訂正再版発行
 ・明治三十年十二月廿五日 訂正三版発行
 ・明治三十一年七月五日 訂正四版発行

  (註) 東京大学附属図書館所蔵 教育唱歌二集 奥付
  ・明治二十九年五月廿六日 発行
  ・同二十九年十二月廿五日 訂正再版発行
  ・同三十年十二月十五日 訂正三版発行
  ・同三十一年七月五日 訂正四版発行

  (註) 「三木書店」は現在の三木楽器店です。YAMAHAの歴史によると「共益商社」の名称で明治四十二年四月、東京市京橋区竹川町十三番地に東京支店(販売代理店)が設立されました。

  教育音樂講習會編纂 第五集『新編教育唱歌集』東京 開成館蔵版 
  明治三十八年八月十七日修正五版発行(全八冊)
  (編纂者・教育音楽講習会 発行者・西野虎吉 発行所・東京開成館 
  発売者・大阪開成館 三木佐助 六合館 林平次郎)の
  奥付を見ると、第一集、第二集の発行日は前記と同じで、
  第三集から第八集の発行の記録は書いてありません。


▲表紙

▲中扉 日付印がある
▲教育音樂講習會編纂 第一集『新編教育唱歌集』東京 開成館蔵版
   東京 開成館蔵版と書いてある。
▲右中扉に明治38.8.24内交とあるのは、内務省が事前検閲し
合格したものを帝國圖書館(当時の国立の図書館)へ交付した
日付印です。内交は内務省交付の略。
 
▲奥付
奥付は第一集から第八集まで同じ。
奥付には「明治三十一年七月五日第一集訂正四版発行」
の記述が欠落,第二集訂正四版は同日発行
 
 第二集の次の出版は、第一、第二集の訂正四版の後、修正五版発行(東京開成館発行所)になっています。
 この出版にあたり曲目を増やし、以前に他の唱歌集で発表された曲も再録し(全二百四十七曲収録)、全八冊(第一集から第八集)としました。
 『夏は來ぬ』は第五集の三十七・三十八ページに掲載されています(国立教育研究所教育図書館 筑波大、長崎大、東京学芸大学の図書館に所蔵)。

 教育音樂講習會編纂 合本『新編教育唱歌集』東京 開成館蔵版 修正五版は教育唱歌全八冊合本も出版されていました(三重大学附属図書館所蔵)。

▲新編教育唱歌集 合本 表紙  表紙に合本と書いてある。
三重大学附属図書館所蔵 教育唱歌全八冊合本 奥付
・明治二十九年一月十日 第一集発行
・明治二十九年五月廿六日 第二集発行
・明治三十八年八月十七日 修正五版発行

  【その後】
  明治三十九年一月二十八日、東京開成館から『新編教育唱歌集』全八集の訂正六版が出版されました。これは東京芸大図書館に所蔵されていますが、「貴重書に準じる大変古い資料のため、コピーは不可。著作権上コピーはできません」との回答でした。規定とはいえ、これでは勉強になりません。係の方に見ていただくと、「明治三十九年二月、文部省検定済となっている」ということでした。これは、重要な事です。

 『国立教育政策研究所 教育研究情報センター 教育図書館』が、明治三十九年一月二十八日、東京開成館から『新編教育唱歌集』全八集の訂正六版発行を所蔵していました。
▲文部省検定済 明治三十九年二月二十日 と書いてある。

 梅花女子大学・短期大学図書館には、教育唱歌全八冊合本がある。 明治三十九年四月十日 合本七版発行を所蔵。 編纂者・教育音樂講習會 発行者・三木佐助 発行所・大阪開成館 発賣所・三木樂器店 奥付は上記のほか次のような発行になっている。
  ・明治三十九年一月廿八日 訂正六版発行
  ・明治三十九年四月十日 合本七版発行
  ・大正五年五月十日 合本八版印刷

 国立音楽大学附属図書館にも教育唱歌全八冊合本がある。明治三十九年四月十日 合本七版発行を所蔵。
  上記図書館のものと同じだが、奥付の最後が違う。
  最後は大正十五年七月一日 合本七版印刷(合本七版再刷か?)になっている。

 三重大学附属図書館には、もう一冊 教育唱歌全八冊合本がある。明治三十九年四月十日 合本七版発行を所蔵。
  上記図書館のものと同じだが、奥付の最後が違う。
  最後は昭和五年九月一日 合本印刷になっている。

  (註)「東京開成館」は明治三十五年一月、西野虎吉により出版社創業され、住所は東京市小石川區小日向水道町七十三番地でした。
 「大阪開成館」は現在の三木楽器です。文政八年(一八二五年)「河内屋佐助」と称し貸本屋として創業。第四代社長が三木佐助。教育書の出版・楽器販売店として進出。楽譜の出版にも力をいれました。大正十五年、合名会社に組織変更「大阪開成館 三木佐助商店」(現・大阪市中央区北久宝寺町)と改称。昭和三十一年には株式会社に組織変更「三木楽器株式会社」と改称(三木楽器会社案内)。しかし、三木楽器株式会社に問い合せたところ、総務・経理部からは、「東京開成館」とは同じ組織であった記録はないとの返答でした。これには後日談があります。
 2013年4月9日(火)、「開成館三木楽器」の歴史保存室からメールをいただきました。メールには、次のように書いてありました。
  “創業190年を迎えるにあたり、社史を編纂中です。何年か前に「東京開成館」について問い合わせいただいたそうですが、その時に対応した者が、認識が薄く回答していたようです。「東京開成館」を設立した「西野虎吉」は「大阪開成館」より分家(当時は別家)した人ですが、佐助が大半出資をしています。
 そして、出版事業に関しても相互に協力しています。その事実は資料も、手紙もあります。西野の手紙が明治32年ごろから37年頃までの間に40~50通余り残っています。”
 これで、「大阪開成館」から出版した物が、次々と「東京開成館」からも出版されたことが納得できました。連絡をいただき、ありがとうございました。

 2014年11月12日(水)、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方からメールをいただきました。
 “「東京開成館」は、明治三十五年一月、西野虎吉により出版社創業の資料もありますが、明治三十四年六月に『国民教育忠勇唱歌』、明治三十四年七月に『新撰国民唱歌』を発行している。したがって明治三十四年創業のようである。
  ※小山作之助編『新撰国民唱歌』第一集~第五集。明治三十四年七月二十五日発行。(著作者・小山作之助 発行者・西野虎吉 発行元・三木佐助 発行所・東京開成館 大阪開成館)。
 三木佐助は、明治十年、三木みき(三木佐助商店三代目)の養嗣子となり、明治十七年、四代目店主となっている。西野虎吉は三木佐助商店の雇人であったが、明治二十五年、三木みきの養女奈良栄と結婚、同時に別家(のれん分け=主家の屋号を別けてもらう)した。明治三十三年には三木書店編集部門である開成館編輯所(東京市小石川区)の長を務めており、明治三十四年には東京開成館の発行者となっている。西野虎吉は、佐助から見れば義妹の婿、義弟にあたる。(三木佐助著『玉淵叢話』明治三十五年八月、東京/大阪開成館などによる)”

 ところで、明治三十八年の第五集収録以前にも『夏は來ぬ』は、すでに歌われていました。「以前に他の唱歌集で発表された曲も再録」の記述に注目して下さい。
 東京音樂學校教授 小山作之助編 二集『新撰國民唱歌』大阪 三木樂器店印行。明治三十三年六月十四日発行。著作者 小山作之助、発行者 三木佐助、発賣所 共益商社樂器店(筑波大学図書館所蔵)。
所蔵図書館は筑波大学図書館だけでした。国立国会図書館 国立教育図書館 東京学芸大 福岡教育大 梅花女子大 上越教育大 国立音楽大学図書館には所蔵されていません。

  【読売新聞記者の間違い】
  私は、これだけの調査に長い時間をついやした。まだ、ワープロを使っていなかった頃の事で、各図書館への調査依頼は全て手書きの手紙で行った。
  当時、研究者仲間から<『夏は來ぬ』の池田さん>、と呼ばれたりした。何度も問い合わせたので、司書の方から疎まれたりもしたようだ。出版物が、いろいろな図書館に点在し、奥付も今の記載の仕方とは異なっていたので、調査は混乱した。終いには、何がなんだかわからなくなった。
 そもそも、読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店) の84ページに“「今度『国民唱歌集』というのを作ることになって、私も曲を作りました。この曲に日本風の歌詞をつけてもらえませんか?」。小山作之助が佐佐木信綱にこう切り出したのは、1895年(明治二十八年)の初夏のころだったらしい”。と書いてあるのが、調査の発端になった。この文章を検証するため、あらゆる調査をした。
  まず、小山作之助編『国民唱歌集』(大阪 三木佐助)明治二十四年七月発行には、『夏は來ぬ』は掲載されていなかった。明治二十八年以降に発行された『国民唱歌集』という出版物は存在しなかったのだ。読売新聞の記者は、「今度『新撰国民唱歌』というのを作ることになって、私も曲を作りました。・・・」と書くべき所を間違ったのだった。物語風に書きかえる時に肝心な所を間違えてしまった。『新撰』の文字の欠落が間違いの原因だった。
 悪い事に、川崎洋は“曲が先にあって、それに歌詞をつけるのはほんとに難しい”という文を書くために、読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店) の84ページの「今度『国民唱歌集』というのを作ることになって、私も曲を作りました。この曲に日本風の歌詞をつけてもらえませんか?」の部分を引用してしまった。違っている事に気がつかなかったのだからしかたがないが、間違いが増えてしまった。この記述は、川崎洋著『心にしみる教科書の歌』(いそっぷ社)で見ることができます。

 (註)明治十九年(一八八六年)八月に小説家山田美妙が発表した「新体詩選」の中に「戦景大和魂」というのがあった。この歌詞に、東京音楽学校教官小山作之助が作曲して、「敵は幾万」と改題し、その編纂に成る『國民唱歌集』(明治二十四年七月十四日刊)にこれを載せた。

 【結論は、ここに最初からあった】
 『音樂之友』(音樂之友社)昭和十七年六月号(第二巻第六號)127ページに「楽譜の歌詞」というコーナーがあり、「夏は來ぬ」(国民合唱)が掲載されている。五番までの歌詞の後に、堀内敬三が書いた(略解)がある。
 まず、「此の歌曲は明治三十三年六月十四日発行「新撰國民唱歌」第二巻に出てゐる」と書いてある。
  「小山氏は當時東京音樂學校教授で、日本樂壇建設の大功勞者、昭和二年六月廿七日、六十五歳で逝去された。
 この譜は近ごろ放送協會託片山頴太郎(えいたろう)氏が二部に編曲したもので、歌詞第二章の『早乙女が』と云ふ字は原作に『賤の女が』とあるのを佐々木博士が訂正されたものである」。
 つまり、ラジオ放送にあたり、『賤の女』は不適切な放送用語と言う事で佐佐木信綱が訂正したのでしょう。

 (註)<国民合唱>昭和11年から放送が始まった「国民歌謡」は、戦火が烈しくなるにつれ、戦意昂揚の色が強くなって行きました。「国民歌謡」は昭和16年から「われらのうた」に、17年から「国民合唱」と名が変わり、益々軍事色を強めて行きます。

 〔五番の考察〕127ページの歌詞
 五番は初出で歌われた事が掲載されている歌詞からわかります。信綱は、『新編教育唱歌集』第五集(明治三十八年八月十七日修正五版発行)に収録の際、教育音樂講習會編纂で五番が改訂されたことに不満があった。それで初出にもどした。信綱は、この歌詞で歌い継いでほしいと願ったのではないだろうか。
 しかし、これでは五番の歌詞の中に「夏は來ぬ」が二回出てきてしまう。「さつきやみ」の方が、詩としては優れている。

   ▼ 『音樂之友』(音樂之友社)昭和十七年六月号(第二巻第六號)の歌詞と片山頴太郎(えいたろう)の二部合唱編曲の楽譜


   <日本近代音楽館に調査に行く>
  平成十九年(2007年)二月五日、日本近代音楽館(東京都港区麻布台一丁目八番十四号)に『音楽之友』があることがわかり見に行った。その建物はロシア大使館の反対側にあった。女の人が一人調べ物をしていたが、他に来館者はいなかった。
 私が調査の目的を説明すると、係の方に「そこのカードを捜して下さい」と言われた。そして、いなくなった。ずいぶん不親切な図書館だなあと感じた。カードを探したが慣れないことで長い時間がかかった。結局、「わかりません」と言うと、その係の人が、一瞬で捜して見つけて来てくれた。その部分の一ページをコピーしてもらった。係の方が探索してコピーを終えるまで、5分で終了した。コピーは50円だったと思う。資料内容の収穫は今までで一番大きかったのに、そのたった一ページの紙を手にしたとき、なんだかなさけなかった。帰りに立ち寄った東京タワーが、子供の時見たより気のせいか小さく細く見えた。いつも利用している厚木市中央図書館は、係の人が親切に調査に協力してくれる。 日本近代音楽館は、このままではいけないと思った。重い気分で東京から帰宅した。一日がかりである。
  その後、2010年7月、日本近代音楽財団はこの施設を閉鎖、蔵書・資料を明治学院大学に寄贈した。明治学院大学は2011年5月、明治学院大学図書館付属機関の日本近代音楽館として開館した。

 (註)平成五年(1993年)、「浜辺の歌」の調査をしていました。『日本近代音楽館』に電話をすると、所蔵のセノオ楽譜「浜辺の歌」をコピーしてもらうためには、「資料複製承諾書」に著作権者の成田為三の夫人の成田文子さんのサインとハンコが必要とのことでした。係りの女性から必要書類を送っていただきました。1993年10月6日当時、成田文子さんは静岡県浜名湖エデンの園にお住まいでした。エデンの園事務所に電話をかけ、文子さんが、手紙で用件を問い合わせていい健康状態かどうか、返事がもらえる状態か確かめてから、「資料複製承諾書」を送り、サイン捺印をしていただきました。返信には、「私は今八十七歳の老いの身をこの老人ホームですごしております」とありました。その後、亡くなるまで文通をしました。静岡の銘茶を送っていただいたりもしました。文子さんの妹から亡くなった事を知らされ、涙しました。私からの手紙を楽しみにしていたそうです。
 このように、たった一枚の楽譜のコピーに、延々と時間がかかり、多くの人に迷惑をかけてしまったセノオ楽譜「浜辺の歌」は、現在では『原典による近代唱歌集成 原典印影Ⅱ』(ビクターエンタテインメント)の192・193ページで、だれでも簡単に見る事ができます。

  私の「夏は來ぬ」の研究は、『音樂之友』の127ページのコピーを、佐佐木信綱記念館に寄贈する事で、ひとまず終わった(平成19年3月20日)。佐佐木信綱記念館は、三重県鈴鹿市石薬師町1707-3にあります。

  【歌碑について】
 私がした質問 「<夏は來ぬ>の歌碑が、『大久保町大窪 大窪クスノキ公園』、『大久保町八木 西八木公園』、『松の内 宮西公園』の三ヶ所にあるというのは事実ですか?」(2004年1月)。

 <明石市役所 都市整備部 緑化公園課からの回答>
 「歌碑は、西八木公園と宮西公園の2ケ所にのみ存在しております。大窪クスノキ公園には、歌碑は存在しておりません。2004年1月14日に明石観光協会からは公園緑地課が三ヶ所とも歌碑があると回答をしたと、記述されておりましたが、この回答は事実と異なり、間違いです」(2014年2月6日)。

  <明石観光協会からの回答の後半>「その公園には、ウツギが植えられています。当時、昭和61年から平成8年の10年計画で中学校区52ヶ所を選び、児童唱歌の歌に合わせて植物を植えて整備を行ったそうです。次に、万葉にゆかりの植物、最後の一年は、源氏物語にゆかりの植物を植えたそうです。現在は、残念なことに整備後維持されていない公園も中にはあるそうです(2004年1月14日)。
▲佐佐木信綱が真鶴を
詠んだ歌碑

  真鶴の
  林しづかに海の色の
  さやけき見つつ
  わが心清し


 ▲写真は上越市の大潟中学校の歌碑
                        
 【軍歌を歌うか】
 佐佐木信綱は、『水師営の会見』・『勇敢なる水兵』・『凱旋』(納所弁次郎作曲。同題異曲あり)の作詞者です。小山作之助は、『敵は幾万』・『川中島』の作曲で有名です。
 童謡や唱歌を歌う会では、『夏は來ぬ』の解説をした後、指導者がこれらの歌を歌い出すことがあります。私はビックリ仰天します。 横浜の歌う会では、みんなで『夏は來ぬ』を歌いました。指導者の解説に『水師営の会見』がありました。客席の高齢の男性から「先生、歌って下さい。歌えないのなら私が代わりに歌いましょうか」と声がかかった。「それはいいですよ。でもねえ」一瞬考えて、「じゃあ歌います」と言って、指導者は歌い出した。楽譜にしがみついて歌った。この歌は七番まである。最後まで、なんとかたどり着いた。会場は割れんばかりの拍手だった。
 教会で行なわれていた歌う会でも、みんなで『夏は來ぬ』を歌いました。その後、指導者が「みなさんは知らないかもしれませんが、『敵は幾万』という歌も小山作之助が作曲をしているんですよ。これから僕が歌ってみますね。聞いていて下さいね。うまく歌えるでしょうか」と言って歌った。会場は、「うまいなあ」「いい声だなあ」「さすがだなあ」と感動の渦だった。私は、入口に立っていた係りの若い男性に「教会で軍歌を歌うのは、やめていただきたい」と抗議した。この男性は、「なんのこと?」という顔をしただけだった。
  軍歌は昭和二十一年から学校で歌う事がさしとめられました。歌って楽しい歌ではありません。軍歌を歌う指導者の質が問われます。

 <国立教育政策研究所 教育研究情報センター 教育図書館に調査に行く>
 平成16年(2004年)のレファレンスには、次のように書いてありました。
 “「新編教育唱歌集」修正五版(K120.73~41)は8冊にわかれています。複写は個人からの受付はしておりません。資料は、鍵のかかっている部屋にあるため平日9時から17時のみの利用となります。資料の状態があまりよくないのですが、来館されれば、複写は(気を付けていただければ)可能です。以上 お知らせします。休館日、道順はホームページを御覧下さい”。
 今回2012年に「夏は來ぬ」調査の最終仕上げのために、教育図書館に「新編教育唱歌集」修正五版の調査に行く事にしました。
 インターネットで教育図書館を検索してみると、東京都目黒区下目黒から、東京都千代田区霞が関の中央合同庁舎第7号館東館6階の文部省庁舎内に移転していました。来館は予約制でした。
  2012年4月5日、「夏は來ぬ」の調査に行きました。行ってみると、係りの人がすぐにパソコンで「新編教育唱歌集」のpdfファイルを検索してくれました。全てのページがpdfファイルになっており、見ながら自分で印刷を命令して、あっという間に61枚の複写を受け取る事ができました。610円を支払いました。その正確さとスピードに感動しました。他にも二人の来館者がありましたが、その方たちもすぐに調べ物が見つかったようです。
 館内の蔵書の全てのページがパソコンで閲覧できるとは、すばらしいことです。やがては、著作権が切れている資料は、家庭のパソコンからでも閲覧できることになるだろうと思いました。グーグルでは世界規模で資料のアーカイブ化事業を進めています。パソコンが使えない人でも、デジタルテレビから利用できるようになると思います。
 教育図書館では、「新編教育唱歌集」文部省検定済 教育音樂講習會編 第一集(東京 開成館蔵版 明治三十九年二月二十日文部省検定済、明治三十九年一月廿八日訂正六版発行も所蔵していて、全ページをパソコンで見る事ができました。古い資料が繰り返しめくられて傷んでしまうというような心配もなく、研究者にとっては嬉しい事です。自分の目で確かめる事は非常に重要だと改めて思いました。


 【『新編教育唱歌集』の解説は、ここにあった】
  日本音楽教育学会編『日本音楽教育事典』(音楽之友社2004.3.31)に南部好江による説明が掲載されていました。よくまとめられていて、わかりやすく書かれています。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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春 風

作詞 加藤義清
作曲 フォスター

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2014/08/16)


  【作曲について】
 新訂標準『音楽5』教師用指導書(教育出版、昭和四十二年四月十日文部省検定済、昭和四十四年一月二十日発行)に、「原名は、“Massa's in de Cold, Cold Ground.” フォスター二十六歳のときの作品」と書いてあります。優しかった自分たちの主人の死を嘆き悲しむ人々の姿に感動して作曲されたといわれています。

 <フォスター Stephen Collins Foster>
 アメリカのピッツバーグ生まれ(1826-1864年)。少年時代を過ぎる頃から音楽の勉強を始めました。作った歌は誰にでも喜ばれ、親しまれ、世界中に広まりました。「草競馬」「故郷の人々」「おお スザンナ」「なつかしきケンタッキーの我家」「オールド・ブラック・ジョー」「鳴らせバンジョー」「金髪のジェニー」「夢路より」ほか二百曲ほどの作品を残しています。

                       ▲Massa's In De Cold Ground 主人は冷たき土の下に
                      (長田暁二編『世界抒情歌全集 2』(ドレミ楽譜出版)による)

 三番まである歌詞に合わせてメロディーが作られている(マルの部分に注目)。歌詞には 「Massa's in de cold, cold ground.」と書いてある。

  【初出】
 納所弁次郎 田村虎蔵(共編)『教科統合 少年唱歌(初)』(十字屋)明治三十六年四月発行に、加藤義清が作詞した「春風」というタイトルで掲載されました。原曲とあまりにもかけ離れた内容だと批判されたこともあったようです。

            ▲「春風」歌詞と楽譜: 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌(上)明治篇』(講談社文庫、昭和52年発行)より

  【歌詞について】
  六行の長い詩。一番は、「凧に」。二番は「垣根の梅に」「羽根に」となっています。

  【楽譜について】
  ニ長調(D dur)、四分の四拍子。
  ・一、二行目と三、四行目は、同じメロディーで歌います。繰り返しです。
  ・「我らの凧に」で終っているが、最後の二行はコーダ(終結部)の構成になっています。
  ・一、三、五行目の「春風よ、」は「春」を、ひとまとまりの言葉として「はるかーぜよー」と歌うように統一してあります。

  いろいろな歌詞、楽譜が出版されています。戦後の教科書に掲載する時、歌詞、楽譜を次々改訂したためです。その経過を追ってみましょう。

  【昭和二十二年版では】
 吉丸一昌の詞は、北村季晴編『中等音樂教科書 巻参』(弘樂社)明治四十一年六月十四日発行に第一學期 歌曲「夕の鐘」としての掲載が初出です。この本は広島大学教科書コレクションで全ページ画像化(pdf)されています。
 収録されていた「夕の鐘」が、『六年生の音楽』(文部省)昭和二十二年発行に「ゆうべのかね」というタイトルで掲載された。

  <楽譜について>
 「夕の鐘」と「ゆうべのかね」のメロディーは同じ。「夕の鐘」には発想標語が付いていない。「ゆうべのかね」は♩=88と速度標語が書いてある。ニ長調、四分の四拍子。前奏四小節のピアノ又はオルガン用の伴奏譜は、それぞれ違うものです。

  <歌詞について>
 「夕の鐘」と「ゆうべのかね」の歌詞は、ほぼ同じ。
  「昔の人いま何處 (夕の鐘)」→「むかしの人いまいずこ (ゆうべのかね)」のように、一部、かえてあるほか、
     おとづれ→おとずれ、 いづこ→いずこ、 はづれ→はずれなど濁音表記が変更されている。
  『新作唱歌』第九集(1914年7月22日初版刊行)には掲載されていない。なお『新作唱歌』第十集(1915年10月3日初版刊行)に「夕の鐘」があるが、別曲(ドイツ曲)です。
  (註)北村季晴編『中等音樂教科書 巻参』については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方(府中市のNさん)から教えていただきました(2017年4月5日)。

  (註) 吉丸一昌編『新作唱歌』については『早春賦』参照。

                              ▲「ゆうべのかね」歌詞と楽譜

  ・「ひと まはいずこ」の「い」は、原曲の一番に忠実な楽譜が使われている。原曲の一番に二番の歌詞もそろえ、統一してある。
  ・「はばたき」は、「タンタンタンタン」と単純化されている。

 
            夕の鐘

   一、昔の人いまや何處、おとづれ來て佇めば、
     たそがれ行く空を辿り、通ひて來る鐘の聲、
        家鳩の羽ばたきに、亂れて消ゆる軒のつま。

   二、翠の風岸をそよぐ、川のほとりさまよへば、
      たそがれ行く野路を越えて、訪ひ來る鐘の聲、
       牧の子が笛の音に、消えては行く村はづれ。

        (明治四十一年『中等音樂教科書 巻参』より)

▲昭和二十二年『六年生の音楽』より

  【その後】
 五年生の教材になりました。『音楽5』(教育出版)昭和四十二年文部省検定済掲載の「春風」を見ると次のようになっています。

                        ▲「春風」歌詞と楽譜

  ・ニ長調だったものがハ長調(C dur)に移調されている。
  ・「垣根の梅に、」が「桜の枝に」になっています。春風が、桜の花を散らすことになりました。
  ・一、二番共に三、四行目の繰り返しの部分が削除されています。これで、二部形式に整えられ、コーダがなくなった。

  <削除の理由>
  (1) 昔の子どもの遊び「凧あげ」「羽根つき」が、時代にそぐわなくなったためです。「凧あげ」「羽根つき」をする広場がなくなり、しだいに子どもは外で遊ばなくなりました。「羽根つき」は、一人ではできませんし、「凧あげ」も大勢でやると楽しい。
  (2)二回繰り返して歌わなくても曲として成立する。同じ歌詞が何回も出て来るので、メロディーを間違えないようにするために削除した。これで、はっきりとした二部形式になった。

 <構成>
  二部形式 A(aa’)B(ba’)

  リズム
  ターアタタタタタ 三回 「ふーけそよそよ」
  タンタンターアタ 一回 「はるかーぜ」一段目
  タタタタタンタン 二回 「やなぎのいと」
  タンタンタンタン 一回 「はるかぜ」三段目
   (昭和二十二年版の「ゆうべのかね」の「はばたき」と同じ)。
  ターアータンウン 各段二小節目
  ターアーアーウン 各段終わり全部

  六音音階
   ヨナ抜き音階の第四音か第七音が経過的に使われるもので、ヨナ抜き音階に含まれると考えられる。

     ▲六音音階

  「春風」は、四番目の(ファ)が抜けている六音音階の曲です。七番目の(シ)は経過的に一回だけ使われている。
  「ドーラ ソーミ(ふーよ ふーけ)」

  【加藤義清(かとうよしきよ)の略歴】(1864年から1941年)
  歌人で作詞家。旧姓は菊間。近衛師団軍楽隊の楽手で、御歌所の寄人だった。戦時中、「婦人従軍歌」を書いた人です。

  【その他の日本語詞】
  楽譜はどれもハ長調、二部形式の構成なので四行詩になっている。

   <武井君子 作詞>
         主人(あるじ)は冷たい土の中に(静かに眠れ)

        一  あおくはれたそら しろいくも
           そよかぜやさしく むかしをかたる
           おもいだす あのえがお
           ねむれよしずかに しずかにねむれ

        二  よんでもかえらぬ とおいひよ
           はるなつあきふゆ つきひはめぐる
           おもいだす あのえがお
           ねむれよしずかに しずかにねむれ
           (『中学生の音楽 1』教育芸術社 平成九年発行)

     <植村敏夫 作詞>
          主人(あるじ)は冷たい土の中に

        一  まきばのこみちの ばらのきの
           はなからはなへと とぶよみつばち
           あおぞらの やねのした
           はなさくこかげに あるじはねむる

        二  ひぐれのまきばに かねのおと
           むらのきょうかいの かねがなるなる
           ほしひかる おかのうえ
           はなさくこかげに あるじはねむる
           (『中学生の音楽 1』音楽之友社 昭和五十五年発行)

      <峯陽 作詞>
          主人(あるじ)は冷たい土の中に

         一  つめたいこがらし ふくよるは
            おもいでのうたに なみだあふれる
            はるのひも あきのひも
            ふるさとのつちに しずかにねむれ

         二  よろこびかなしみ わけあった
            やさしいあるじは いまはとおくに
            はるのひも あきのひも
            ふるさとのつちに しずかにねむれ
            (『中学生の音楽 1』音楽教育図書 昭和四十九年発行)

       <津川主一 作詞>
           主人は眠る(Massa's in de Cold,Cold Ground)

            のずえをわたるや なげきうた
            きょうもかわらぬは とりのさえずり
            はてもなき くさのはら
            たえだえきこゆる うたごえあわれ

            しげるくさむらの おくつきに
            やさしきあるじは あわれやねむる
            はてもなき くさのはら
            たえだえきこゆる うたごえあわれ
             (『中学生の音楽 3』(音楽之友社)昭和四十年十二月二十五日発行、昭和四十年四月十日文部省検定済)


       <水田詩仙 訳詞>
            主人は冷たき土の下に(Massa's In De Cold Ground)

          一 小鳥はさえずる 春の空に
             悲しき歌声 そぞろにひびく
             若草しげれる この丘に
             冷たく眠れる 君を慕いて
               あわれ この歌声に
               帰り来ませ いざ 眠れる君よ

          二 木々のもみじ葉は 寒く散れど
             やさしきその声 今は聞えず
             オレンジは香り 夏たちて
            年月めぐれど 君は帰らず
               あわれ この歌声に
               帰り来ませ いざ 眠れる君よ
             (長田暁二編『世界抒情歌全集 2』ドレミ楽譜出版)

  【後記】
 中学生の教科書を見ましたが、これらの暗い歌詞で歌わされていたのかと愕然となりました。加藤義清が作詞した「春風」は、原曲とあまりにもかけ離れた内容だと批判されたこともあったようですが、私、著者・池田小百合は、二部形式に整えられた「春風」が気に入っています。

                     ▲理想の楽譜 「春風よ」=「はるかーぜよーー」に統一すると歌いやすく、覚えやすい。
              (『日本のうたこころのうた』No.34(デアゴスティーニ・ジャパン)による)


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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旅 愁

作詞 犬童球渓  
作曲 オードウェイ

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/02/14)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より
                              ▲現在、歌われている歌詞

 【初出について】
 「旅愁」は、明治三十九年十二月号の『音楽新報』に掲載されました。同じ頃、犬童球渓は、ヘイス作曲の「故郷の廃家」も作詞しています。こちらは明治四十年三月号の『音楽新報』に掲載されました。
 この二曲は山田源一郎編『中等教育唱歌集』(共益商社)明治四十年(1907年)八月発行に収録されました。(『国文学』(學燈社)第49巻3号 日本の童謡 文・阿毛久芳による)。

 【「オードウェイ」はどんな人か】
 アメリカのジョン・ポンド・オードウェイ(J.P.Ordway 1824~1880)が作詞・作曲した歌曲『Dreaming of Home and Mother(家と母を夢みて)』)に、音楽教育者・作詞家の犬童球渓(いんどうきゅうけい)が日本語の歌詞を付けたものです。


    Dreaming of Home and Mother   John P. Ordway

1   Dreaming of home, dear old home!      夢にみるはわが懐かしの家よ。
   Home of my childhood and mother        母と過ごした幼き日々よ、
   Oft when I wake 'tis sweet to find,       目覚めしときにしばしば甘き思い、
   I've been dreaming of home and mother   家と母を夢みてきたのだった。
   Home, Dear home, childhood happy home,  わが幼きとき懐かしの幸福な家よ、
   When I played with sister and with brother, 妹や弟と遊んだあのとき、
   Twas the sweetest joy when we did roam,  散歩のときの甘き喜びだった。
   Over hill and thro' dale with mother.     丘のむこう谷をこえて母が見える。
         (*Chorus: )                  (くり返し)
   Dreaming of home, dear old home,       夢にみるはわが懐かしの家よ、
   Home of my childhood and mother       母と過ごした幼き日々よ。
   Oft when I wake 'tis sweet to find,       目覚めしときにしばしば甘き思い、
   I've been dreaming of home and mother.   家と母を夢みてきたのだった。
                     
2  Sleep balmy sleep, close mine eyes,      眠りさわやかに目を閉じれば、
   Keep me still thinking of mother        いつも母の姿が思い出される。
   Hark! 'tis her voice I seem to hear.       ほら!母の声が聞えるようだ。
   Yes, I'm dreaming of home and mother.    ああ、夢の中の家よ母よ。
   Angels come, soothing me to rest,       天使が来る 憩いのひととき、
   I can feel their presence and none other   私にはわかる 天使の訪れが、
   For they sweetly say I shall be blest      祝福あれと天使は祈るのだ。
   With bright visions of home and mother.   はっきりと家と母が見える。
         (*Chorus: )                   (くり返し)

3  Childhood has come, come again,         子供のころが再び思い出される。
   Sleeping I see my dear mother;         眠ると愛しの母に会える、
   See her loved form beside me kneel      私のそばに坐るやさしい母に。
   While I'm dreaming of home and mother.   夢路ではずっと家と母に会える。
   Mother dear, whisper to me now,        愛しの母が、今の私に囁きかける、
   Tell me of my sister and my brother      妹や弟のことを教えて欲しい。
   Now I feel thy hand upon my brow,       いま額にその手を感じる。
   Yes, I'm dreaming of home and mother.    ああ、夢の中の家よ母よ。
        (*Chorus: )  

  家を出て漂泊の旅を続けてきた詩人は、いま死の床にあります。詩人は旅の途上でも故郷の家や母、そして幼年時代の楽しかったときのことを忘れたことはありませんでした。目をとじればいつでも母の姿を見、幼い弟や妹のことを思い出すことができました。しかし、それももう最期です。詩人はいま最期の眠りにつこうとしています。(対訳・大意 和本英宏)

 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)には、次のように書いてあります。
 “オードウェイはハーバード出身の医者だとする説もあるが、マサチューセッツ州セーレムに生まれ、ボストンで死去した出版業者というのが正しいようだ。二十歳の頃からポピュラーソングを発表した作曲家”
 Wikipediaによると,ハーバード゙医科大学(ハーバード大学医学部)出身で南北戦争中、外科医として活躍、その後も医師。
 
 阪田寛夫著『どれみそら』(河出書房新社)には、次のように書いてあります。
 “オードウェイは十九世紀半ばの人です。当時「ミンストレル・ショー」という、ショーをしながら薬を売ってまわる職業がありました。その旅の親方だった人らしいんです。オードウェイ M・D・という肩書きで。「M・D・」というと、お医者さんという意味でしょう。そういう人が、おそらく、そのショーのために作った歌なんだと思います”。
 一座の興行主ではあったが、旅興行中心ではなく、ボストンでホールを経営していたようです。

 日本では歌いつがれていますが、アメリカではこの曲はすっかり忘れ去られています。いったい「オードウェイ」は、どのような人だったのでしょうか。英語のWikipediaに解説がありました。
    ジョン・ポンド・オードウェイ(1824.8.1~1880.4.27)の略歴
 
 医師・作曲家・音楽興行主・政治家
 マサチューセッツ州セイラム生まれ。1840年代にボストンで父アーロンと共に音楽店を開く。楽譜出版と作曲を手掛け、「Twinkling Stars are Laughing, Love」(1855)は、1902年と1904年にハイドン・カルテットによってレコード化された。また、「Dreaming of Home and Mother」(1851)は南北戦争時代に流行した感傷的な歌で、その後も演奏され続けた。この曲の翻訳版は中国と日本で有名である。1845年頃、オードウェイ・イーオリアンズというブラックフェイスのミンストレル一座を組織し、ボストンのオードウェイ・ホールで興行、また楽譜出版を全国に広げた。後にバンドリーダーで作曲家となったパトリック・ギルモアはオードウェイの店で働き、イーオリアンズに参加していた。ジェームズ・ロード・ピアポントが1852年に作曲した処女作「The Returned Californian」はオードウェイとその一座のために特別に作られたものである。数多くの19世紀の曲がイーオリアンズに、あるいはまたオードウェイに献呈のために作られた。「ジングルベル」もそのひとつである。
 1859年ハーバード医科大学を卒業し、南北戦争開始期に最初に外科医として志願した一人でマサチューセッツ民兵第六連隊に従軍。ゲティスバーグの戦いの負傷兵治療に派遣された北軍軍医の一人である。
 1859年から73年までボストン教育委員、1868年には一期マサチューセッツ州下院議員を務めた。学校での体罰に反対し、立法化を支援した。マサチューセッツ釣魚者協会設立に寄与、マサチューセッツ釣魚猟鳥協会の先駆者。マサチューセッツ州ボストンで死去。〔▲写真はマサチューセッツ州立図書館より〕

 *オードウェイはフォスター(1826~1864)やヘンリー・ワーク(1832~1884)とほぼ同時代の人。
 *「Dreaming 0f Home and Mother」は1851年作詞作曲となっている。オードウェイ26~27歳。
  楽譜出版は1865年(1867年も) Oliver Ditson & Co.と 1868年 G.D.Russell & Co.〔▼下記,ジョンズ・ホプキンス大学より〕がある。

 


 【『中等教育唱歌集』について】
 『中等教育唱歌集』(共益商社)は、全部外国の曲に歌詞をつけたもので、中等学校の教材として編纂されました。三十三曲、楽譜は全部巻末に集め、伴奏譜もついています。球渓の作品「旅愁」「故郷の廃家」も載っています

                           ▼『中等教育唱歌集』掲載の歌詞と楽譜
旅愁 中等教育唱歌集

 【「旅愁」の考察】 
 さびしい旅先で、なつかしい故郷や父母を思う気持ちがあふれています。
 (一番) 「フケユク アキノヨ タビノソラノ」は言葉のアクセントが節に合っていませんが、歌っても違和感がありません。
 自筆楽譜は「ユメニモタドルハ」、犬童信蔵著『球渓歌集 四季』(音楽教育書出版協会)昭和十一年編纂発行でも「夢にもたどるは」と記されています。
 しかし、『中等教育唱歌集』掲載の楽譜は「ユメヂニタドルハ」、歌詞は「夢路にたどるは」となっています。このため、「夢路にたどるは」と歌われています。
 望郷の念の強さがうかがえます。
 球渓は、「夢路に」と歌われている点について何も書き残していません。

 (二番) 『中等教育唱歌集』の楽譜と自筆楽譜は、「はるけきかなたに こころまよふ」ですが、歌詞の方の二番の二行目は「心運ぶ。」、六行目は「こゝろはこぶ。」となっています。
 楽譜に合わせて、「はるけきかなたに こころまよふ」と歌われています。
  「窓うつ嵐に、」の部分は、童謡や唱歌では「嵐」をひとまとまりとして歌うのが常ですが、この曲は外国のメロディーに歌詞を、あとからあてはめたものなので、「あーらしにー」と歌うように書いてあります。ここは、間違えて歌っている人が多いところです。

 (楽譜) 原調は変ホ長調。これでは高すぎるのでニ長調に移調した楽譜で歌われています。 四小節ずつのフレーズの終わりの付点二分音符は、たっぷり三拍延ばして歌いましょう。
 球渓は四小節ごとの切れ目の音を日本人が歌いやすいように少し直しました。
  「ふーけゆくー あーきのよー たーびのそーらー のー」の「のー」の部分。「ミレー」だったのを「レー」にしました。「レー」は、たっぷり三拍延ばして歌います。
 八小節ずつ、ABAという整った三部形式の曲なので、Aは、おだやかに。Bは、やや強い感じを込めて。Bのサビの後に、再び穏やかな感じで「ふけゆく」のフレーズを歌います。

 【教科書でのあつかい】
 全ての教科書が、一番は「夢路にたどるは」で、二番は「心迷う」となっています。これからも、みんなが学習した、この歌詞で歌い継がれて行くことでしょう。次の教科書には掲載されていました。
  ・『新編 中学生の音楽1』(音楽之友社)昭和32年発行
  ・『改訂新版 中学生の音楽1』(音楽之友社)昭和49年発行
  ・『中学生の音楽1』(教育芸術社)昭和49年発行
  ・『精選 中学生の音楽1』(音楽之友社)昭和55年発行
  ・『改訂 中学生の音楽1』(音楽之友社)平成3年発行
  ・『中学音楽1』(教育出版)平成8年発行
 ・『中学生の音楽1』(教育芸術社)平成9年発行
  ・『中学音楽1 音楽のおくりもの』(教育出版) 平成21年発行には掲載されていません。
 ・『中学生の音楽1』(教育芸術社)平成9年発行 平成21年発行には掲載されていません。

  ▲『新編 中学生の音楽1』(音楽之友社)昭和32年発行に掲載の楽譜
 「まーどうつーー あーらしにーー」と歌うように歌詞付けされている。 中学生に歌いやすいようにハ長調に移調してあります。伴奏譜が掲載してあるのがこの頃の教科書の特長です。

  【犬童球渓の実力】
 作詞をした犬童球渓は、原曲をよく知っていて作詞したので、日本語も、原曲の持つ雰囲気をうまく伝えながら、独自の世界観が盛り込まれています。原詞には「秋」という設定もありませんし、「窓うつ嵐に 夢もやぶれ」という情景はありませんが、兵庫県の中学校で生徒に妨害され、厳寒の冬を迎える新潟県の女学校に転任した球渓の偽らざる気持だったのでしょう。
 長年、教育に尽くすかたわら、作詞・作曲した作品は二百五十曲にものぼります。その多くが外国の曲を翻訳したものです。
  「外国の歌詞の直訳でも意訳でもない。原詩とは異なる日本人の心情に合わせて作詞した、いわば創作である」(種元勝弘著『犬童球渓伝』フォルテ出版)。

 犬童信蔵著『球渓歌集 四季』(音楽教育書出版協会)昭和十一年編纂発行があります。犬童球渓は次のように記しています。
  「曲譜と歌詞との調和融合については、特に力を注いだ積もりであります」。

 それにしても、『旅愁』の詩の持つ、やりきれない、さびしさは、どこからきているのでしょう。犬童球渓の人生をたどってみると、その理由がわかります。

  【犬童球渓の略歴
  ・明治十二年(1879年)三月二十日、熊本県球磨(くま)郡藍田村(現・人吉市西間下町)の農家の次男として生まれました。本名は信蔵(のぶぞう)といいます。
 ●『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)には「明治十七年に生れる」と書いてあるのは間違い。 この間違いは、いろいろな出版物で使われています。「明治十二年生まれ」が正しい。

 <球磨川「くまがわ」と読む>
 人吉市は熊本県の南部、鹿児島県に接近した山間部にあり、“渓流下り”で名高い球磨川(くまがわ)が市街の中央を流れています。
  「犬童球渓・いんどうきゅうけい」という筆名の「犬童」は、熊本県にある苗字で、「球渓」は郷土の球磨川渓谷にちなんだもの (金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕明治篇』(講談社)発行による)。

 ●私、池田小百合は、玉川大学継続学習センター主催の玉川大学公開講座「懐かしい思い出の歌・童謡・唱歌 みんなで歌いましょう」を毎回楽しみにして、参加していました。 ある時、講師の玉川大学芸術学部教授が「我々玉川と同じ名の「たまがわ」という川があるんだそうですよね。僕は知らなかったなあ、みなさん御存知でしたか」と話されていましたが、これは「くまがわ」と読みます。
 球磨川の支流の川辺川には川辺川ダムが建設中で、建設資金をめぐるトラブルが話題になっています。テレビニュースでは、球磨川の名前が頻繁に流れます。

  <小学校教員となる>
 ・明治二十七年(1894年)三月、東間高等小学校を卒業。しばらく父親の元で農業をしていました。
 ・明治二十八年(1895年)四月、球磨郡渡小学校に代用教員として勤務。その間に教員検定試験に合格しました。
 ・明治三十年(1897年)一月、船場小学校(現・人吉東小学校)に転任。
 ・同年四月、兄(儀平)の勧めもあって熊本県尋常師範学校(現・熊本大学教育学部)に入学。
 「先生をするなら腰をすえてかかれ」と言う兄と、農業を継いで父親にむくいたい気持ちとの板ばさみで苦しみました。
  ・明治三十四年(1901年)三月、同校卒業。当時二十三歳。
  ・同年四月、宇土郡網田尋常小学校に奉職しました。ここで放置されていたオルガンを修理、授業に活用しました。当時としては驚くほど上手なオルガン演奏だったようです。
 小学校での熱心な授業が、学校を視察に来ていた視学(教員を監督指導する役)の目に留まり、東京音楽学校への入学を推薦されました。
 当時、学校教育では、「唱歌」の時間という課目ができましたが、教えられる先生が少なく、音楽教員の養成が急がれていた時期でした。 東京音楽学校へは、各県から毎年一名の推薦の割当てがあり、入学が認められていました。
 球渓が目をかけられ、県からの奨学金のようなもの五円を支給してもらえることになりました。
 生家は農家だったので、経済的には恵まれていませんでしたが、兄が若くして山田小学校の校長になっていて、学費の不足分を補ってくれる事を約束してくれたので、 二十四歳のとき上京し、東京音楽学校(東京藝術大学)の甲種師範科に入学しました。まじめで義理堅い人だったので請われると断れなかったようです。

  <東京音楽学校で学ぶ>
  ・明治三十五年(1902年)五月、球渓が東京音楽学校に入学するとまもなく、頼りにしていた兄が享年三十七歳という働き盛りで亡くなってしまいました。 その遺児や弟妹の生活を工面するなど、苦学を余儀なくされました。
 東京音楽学校在学中は貧しく、写譜のアルバイトに追われる毎日。自分の学費や郷里の人たちの生活を支えるために、東京に留まりました。
 教官の武島羽衣や鳥居忱(まこと)の好意により外国の曲の翻訳や写譜の仕事を頼まれ、 また肥後奨学金を受けることで、ようやく卒業しました。それがのちの作詞活動への基礎を築くことになりました。 国語の教員免許も取得しました。この間、故郷へ帰ることはありませんでした。
  ・明治三十八年(1905年)三月、同校卒業。

  <音楽教師となる>
  ・明治三十八年(1905年)四月、兵庫県立柏原中学校に国語と音楽の兼任教師として勤務。ちょうど県立中学で音楽の授業を最初に試みた頃でした。音楽学校を卒業し、胸をふくらませて赴任したものの、二十七歳の新任教師は、西洋音楽になじみがなかった中学生の「西洋音楽は軟弱だ!」という反抗的な態度に苦労します。
 授業の初日から、生徒が机をたたき床を踏み鳴らしたという。生徒から野次りまわされ、授業をめちゃめちゃにされ続けた球渓は、その年の暮れ、病気を理由に県に辞職を願い出ました。
 当時は、日露戦争の真っ只中で、明治三十八年三月には奉天占領(奉天会戦・日露戦争最大の陸戦)、五月には日本海海戦(日露戦争における最大の海戦)でのロシアのバルチック艦隊の撃破といった知らせが伝わり、世の中は戦勝気分に沸きかえっていました。歌といえば軍歌の時代でした。
  ・明治三十九年(1906年)一月、逃げるように新潟県立新潟高等女学校(現・新潟中央高校)に転任。故郷で職が見つかるまで待つという経済的なゆとりはありませんでした。若き青年教師の夢は敗れ、その屈辱と故郷へ寄せる思いは想像を絶するものだったようです。今度は女学生たちなので、音楽の授業は無事でした。

   <「旅愁」「故郷の廃家」の作詞>
 故郷から遠く離れた厳しい雪の新潟の地で、故郷に思いをつのらせて「旅愁」を作詞。明治三十九年十二月号の『音楽新報』に掲載されました。
 同じ頃、ヘイス作曲の「故郷の廃家」も作詞しています。こちらは、帰ってみたら故郷の家は荒れ果てていたという現実を歌っています。よほど故郷への思いが強かったのでしょう。
 明治四十年三月号の『音楽新報』に掲載されました。この二曲は『中等教育唱歌集』に収録されました。

  ・明治四十年、二十九歳の時、みのと結婚し、心の安定を得ますが、望郷の念は絶ちがたかったようです。

   <故郷・人吉に帰る>
  ・明治四十一年(1908年)四月、新潟で二年三ヶ月教鞭をとったあと、三十歳の時、熊本県立高等女学校(現・熊本県立第一高等学校)に転任。相変わらず女学校です。
 ・大正七年(1918年)、郷里の郡立人吉実科高等女学校(現・熊本県 立人吉高等学校)に転任。十六年ぶりに故郷に戻り、それか ら後は死ぬまで人吉を離れる事はありませんでした。
 招かれて郷里に帰ったのは六月、球渓は四十歳でした。(鮎川哲也『唱歌のふるさと 旅愁』より)。
  ・昭和六年ごろ、末娘が亡くなりました。
  ・昭和十年(1935年)三月、五十七歳で教職を勇退(この間三十有余年)、退職後は請われて旧球磨郡藍田村の村会議員や方面委員(現・民生委員)を務めました。
  ・昭和十一年(1936年)球渓歌集『四季』編纂発行

   <自ら命を絶つ>  
 晩年は坐骨神経痛、胃下垂、便秘、神経衰弱を病んで病床に臥すようになりました。
  ・昭和十八年(1943年)十月十九日、自宅裏山のクスノキにロープを掛け、自らの命を絶ちました。六十四歳でした。クスノキは、東京音楽学校入学を控えて記念に植えたものだったようです。
 葬儀や近隣への挨拶、遺産処理などを遺書に細かく指示していました。
 「我死なば焼きて砕きて粉にして御国の畑のこやしともせよ」が辞世の歌である。 
 (読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』及び國文学『日本の童謡』49巻3号による)

 (註) この感動的な結末は、「出来過ぎ」と思う人が多いようです。「自宅裏山のクスノキ」を確認に行った事が、星野辰之著『歌碑を訪ねて日本のうた唱歌ものがたり』(新風舍)に書いてあります。
 “巨木のクスノキは見当たらない。まして、裏山らしい場所もない。球渓は小学校を卒業して農業をしていたことがあるので、生家の周辺は皆畑で山も自分の持ち物であったか、「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部出版)の著者は球渓の生家まで来ないで又聞きで文章を書いたのかもしれない”。

  【球渓の遺族の証言】 
 遺族の証言からは、明治の人・球渓の気骨が伝わってきます。
   <未亡人の思い出話によると>
 “球渓はまじめ一方の人間で、家の中では冗談一ついわなかったそうである。子供に対してきびしくはなかったが、しつけはよくしたという。・・・ 球渓氏が無口なためか子供がなじまなくて、末のお嬢さんが「父さんの居れば寂しかなあ」(お父さんが家にいるとかえってさびしいね)と言ったので皆が大笑いした・・・”(鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)より抜粋)。
   <二女としさんの話によると>
 “父は、大変無口で、お酒も飲まず、夏も冬も一張羅の服で通すような、質素な人でした。いるだけで威圧感があって、兄弟たちや母も、父が出かけるとホッとしたものです。けれど家族の誰もがみな父を頼りにしていました。昔の父親はみんなそんなものだったんです”(『日本のうた こころの歌』第一号(デアゴスティーニ・ジャパン)より抜粋)
 “父は家族の前では、どちらかと言えば寡黙でした。食卓を囲んでいてもほとんど会話をしませんでしたね。私たちへの小言も、いつも母を通して伝えられました。でも、来客があると、父はよく喋っていました。ですから来訪者があると、私たちは客間の隅で、お客さんと父のやり取りを、よく聞いていました。そうした機会に、父の考えや日ごろの行動を知る事ができたので、私たちも来客がある日が楽しみでした。”(『NHKテレビテキストきょうの健康』(日本放送出版協会) 2006年12月号 文・枡野文昭より抜粋)  

 ビートルズの時代にも、マイケル・ジャクソンの時代にも、秋になると「旅愁」は歌われ続けました。日本人の心をぐっとつかむ歌詞と曲だからです。
 犬童球渓の波乱に満ちた生涯を知り、これからも長く歌い継がれることを願わずにはいられません。
 私、池田小百合が主宰する童謡の会でも毎年歌います。
 みなさんも、秋になったら歌ってください。

 【中国では李叔同の作詞「送別」として知られている】
 中国の作家・郭沫若(かくまつじゃく)の知人・李叔同(りしゅくどう)が1915年に作詞した「送別」はオードウェイ作曲の「旅愁」であり、中国では「李叔同の歌」ともてはやされ、今なお多くの人から親しまれている。映画『城南旧事』(呉胎弓監督作品。日本では『北京の思い出』として上映)でも挿入歌として使われた。(齊藤孝治「郭沫若と李叔同(法名弘一法師)の繋がりについて」『郭沫若研究会報』第16号、日本郭沫若研究会事務局発行、2016年12月)。 

 碇豊長のホームページ「詩詞世界」に、「送別」の詩と訓読み・解釈が紹介されている。「作詞者・李叔同が清末(明治の末)、日本留学中に日本語の『旅愁』を聞き、この詞に訳出した」との説明もある。

        長亭外,古道邊, 芳草碧連天。    長亭の外(はづれ),古道の邊(あたり),芳草 碧(みどり)天に連なる
        晩風拂柳笛聲殘, 夕陽山外山。    晩風は 柳を拂(はら)ひ 笛聲 殘(すた)りて, 夕陽は 山外の山。
        天之涯,地之角, 知交半零落。     天の涯(はて),地の角(すみ)に, 知交 半(なか)ば 零落す。 
        一觚濁酒盡餘歡, 今宵別夢寒。    一觚(こ)の 濁酒  餘歡を 盡(つく)せど, 今宵  別夢 寒からん。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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真白き富士の根

作詞 三角錫子        
作曲 ジェレミー・インガルス

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011年6月23日)




 この曲のタイトルは「真白き富士の根」ですか? 「真白き富士の嶺」なのですか? それとも「七里ヶ浜の哀歌」なのですか? と聞かれます。ここに正しい解説を紹介します。
  解説は、平成22年(2011年)1月22日、逗子市新宿の逗子開成中学・高校で「七里ヶ浜ボート遭難百年忌追悼式」で出席者に配られた記念誌『七里ヶ浜ボート遭難事故百年忌』(2010年1月23日発行)を参考にしてまとめたものです。この記念誌は、袴田潤一校長が十四年かけて完成させた労作です。

 【事故発生】
 明治四十三年(一九一〇年)一月二十三日(日曜日)、悲劇が起こりました。逗子開成中学校(旧制)の生徒十一人と逗子小学校の生徒一人の計十二人(十歳から二十一歳)が乗ったボート「箱根号」が、七里ケ浜の沖で突風にあって転覆・沈没、全員が死亡したのです。

 【事故の詳細】
 遭難した十二人全員が死亡したので、事故の詳細は不明。しかし、事故を報じる新聞や、事故以来書かれた記録や証言が残されている。
 <天候>
 薄曇になることはあれ、晴天で、冬の北風が吹いていた。ボートが遭難したと考えられる七里ヶ浜の行合川沖付近は気象条件が変わりやすく、突風が吹くところだという指摘があり、一時的に北からの強風が吹き、これがボート転覆・遭難の原因の一つになった。
 ●奥村美恵子著『神奈川の歌をたずねて』(神奈川新聞社)には、“みぞれまじりの寒い海で起きました”と書いてあるのは間違いということになります。


 <何をするためにボートで沖に出たか>
 海へ鳥撃ちに行った。(「ドウショウ(海鴨)」撃ち)。冒険心であった。一行に途中まで加わりながら引き返して九死に一生を得た三人(谷本知安、苅谷四郎、根岸誠二)の証言が残っている。 当日は日曜日だったが、教諭の原政守が青森県の中学校へ転任するため午前十一時二十分逗子駅発の汽車で発つと言うので、多くの教員・生徒は見送りのために逗子駅に出かけていた。ボートを出す際には、生徒監である三村永一(ボート部長でもあった)と舎監である石塚巳三郎の連署による許可が必要だったが、二人も逗子駅に出かけていて学校にいなかった。生徒たちは教員の多くが学校にいないすきに無許可でボートを出そうとしていた。
 彼らは、富士見橋付近で田越川を下って来た徳田家所有の和船と合流した。船には「ドウショウ」撃ちのための徳田家所有の猟銃二丁が積まれていたといわれている。この和船に乗っていたのは、中学五年生の徳田勝治、弟で二年生の徳田逸三、同じ二年生で、養育している甥であるため姓は異なるが弟に当たる奥田義三郎であった。
 河口付近で遊んでいた末弟の逗子小学校高等科二年生の徳田武三と、その同級生の山田俊介、上村英輔を乗せたが、海へ出るあたりで船が沈みすぎるので山田と上村の二人の小学生を降ろした。ここで運命が大きくわかれた。(後日、山田は逗子開成中学校第二代理事長、一九一七年 第十一回卒。上村は逗子開成中学校第三代理事長、一九一七年 第十一回卒)。
 生徒たちは、松井建設会社資材小屋に入り(小屋の所有者の長男で小学四年生だった松井隆が応対)、いつも預けてあるオールやクラッチなどを取り出して和船に積んだ。
 その後、何人かが和船に乗り、その他は歩いて葉山鐙摺海岸・日蔭茶屋付近の艇庫に向かった。艇庫を管理していたのは、鐙摺の漁師・岸名五郎蔵であったが、どういう事情からか不在であった。生徒たちはボートを艇庫から運び出した。ボートは「箱根号」と名付けられていた。 十数名を乗せたボートと和船は、田越川河口を江ノ島方面へと漕ぎ出して行った。
 出初式(でぞめしき)のため海岸にいた田越村の消防夫たちは中止を勧めたが、生徒たちは聞かずに江ノ島さして漕ぎ出した。午前九時半頃であった。ボートが無人の和船を曳航していたのか、ボートと和船に十数名が分乗していたかは不明。途中、ボートが沈みすぎるので、和船に(谷本知安、苅谷四郎、根岸誠二)の三人を移したが、和船は船足が遅かったのでボートに同行できず浜に引き返した。
 当時、逗子開成中学校ではボートに乗ることは盛んに行われていた。
  一、学生監・舎監の連署がなくてはボートを借り出すことはできない。
  二、教師の許可があっても、教師の同乗がなくては日蔭茶屋(葉山)から大崎(小坪)を結ぶラインから沖に出てはならない。
 という規則があったが、十二名の乗ったボート「箱根号」は、二つの禁を犯したことになる。
 ボートの詳しい航路は判らないが、ドウショウ撃ちの最中、七里ガ浜の行合川沖にかかった時、突風に煽られてボートは転覆したらしい。
 海中に放り出された十二名は、冷たい冬の海の中で助けを求めたが、次々と海中に没した。午後一時半頃の事だったと考えられる。

 【亡くなった12人の生徒】
 <五年生>牧野久雄(二十一歳・メリヤスのシャツにズボンの遺体)、笹尾虎治(二十歳)、徳田勝治(十九歳)、小堀宗作(十九歳・学校制服の遺体)、木下三郎(十八歳)、宮手登(十六歳・制服のズボン下にシャツ一枚の遺体)。
 <四年生>谷多操(十九歳)、松尾寛之(十七歳・白シャツにズボン下の遺体)。
 <二年生>徳田逸三(十五歳・絣(かすり)の袷(あわせ)にズボン下の遺体)、内山金之助(十四歳・シャツ一枚と腹巻だけの遺体)、奥田義三郎(十四歳・絣の羽織に綿入れを着た遺体)。
 <逗子小学校高等科二年生>徳田武三(十歳)。
  ・事故発生から丸四日を経て、遭難者全員十二人の遺体が発見された。
  ・徳田家では一時に四人の子(徳田勝治、徳田逸三、奥田義三郎、徳田武三)を喪った。
  四人兄弟の父親、徳田正茂は一年後に亡くなり、その翌年に母親も亡くなった。
  ・木下三郎はシャツ一枚で二本のオールに縋(すが)って漂流中救助されたが、大量に飲んだ水を吐かせ、人工呼吸が施されたが息を引き取った。
  ・遭難したボートも海底で発見され、引き上げられた。この「箱根号」は、生徒の手によって校庭に運ばれ追悼法会の後に焼却された。
  ・楽譜集『哀歌』の三角錫子の文には、亡くなった生徒の名前は、次のように書いてある。
  笹尾寅治、小堀宗作、木下三郎、徳田勝治、牧野久雄、松尾寛之、谷田操、宮崎登、徳田逸三、奥田義三郎、内山金之助、徳田武三の十二名。

 【遭難原因】
  一、 本来舵取を入れて七人乗りの細長いボートに十二人も乗ったため、浮力が失われた。
  二、 帆を舷(ふなばた)側に固定して帆走したと考えられるが、突風に煽られて転覆し、浮力を失ったボートは復元力を持たなかった。
  三、 冬の冷たい海水と着布で身体の自由がきかなかった。

 【責任の有無】
 生徒たちが禁を犯してボートを漕ぎ出した事から、学校の責任は比較的軽少であると報道された。実際、遺族は学校側の必死の捜索活動に感謝こそすれ、学校の管理責任を問い、賠償を請求するようなことはなかった。
 遭難者の一人、松尾寛之の叔父・日銀総裁松尾臣善は、寝食を忘れて捜索に当たった巡査などに慰労(いろう)金五十円を贈っている。
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)で鮎川哲也は、宮内寒彌著『七里ヶ浜』(新潮社刊)を紹介し、“この事件の責任を負わされ、秘かに学校を去らざるを得なかった、ある若い教師がいた”事を書いている。

 【追悼大法会(ついとうだいほうえ)】
 事故から二週間後の二月六日(日曜日)、開成中学校の校庭で追悼大法会が行われた。 これは、「仏教葬」と、「大衆参加の告別式」と、「合唱で死者を讃美するキリスト教葬」とが融合したはじめてのものだった。

 参加した僧侶は浄土宗僧侶九十人、各宗から五十人。 臨席した主な人々は東久世通禧伯爵、高崎正風男爵、周布公平神奈川県知事、釜屋忠道横須賀水雷団長、東郷吉太郎海軍大佐、永嶺謙光機関学校長など。それに逗子開成中学校生徒、鎌倉高等女学校生徒全員、逗子小学校生徒、郡長、各町村長、有志者、総勢五百名で、式場外では四千人の人々も参列していた。 堀尾大僧正の焼香、続いて荘重な声での宣疏。次いで来賓、学校関係者の弔辞、生徒代表の弔辞朗読が行われた。再び読経が流れる中を来賓、遺族、教職員などが香を焚き十二の霊の冥福を祈った。
 田越・葉山・逗子では各戸弔旗が揚げられた。

 <鎌倉女学校生徒が「真白き富士の根」を歌う>
 全校生徒の礼のあと、兄妹校・鎌倉女学校の最上級生が揃いの黒紋付き・袴姿で、同校教師・三角錫子先生の弾くオルガンの音に合わせて「真白き富士の根」を歌いだした。涙ながらに歌う女学生もおり、校庭には参列の人々の悲泣の声が洩れた。
 開成中学校と鎌倉女学校は創立者が同じで兄妹校の関係にあった。数学教師、三角錫子(みすみすずこ)は開成中学校の近くに住み、遭難した生徒とは顔見知りで、そのうちの何人かは弟のように可愛がっていた。悲報を聞いて浜に駆けつけ、惨事を目のあたりにして、強いショックを受けた。法会の日が決まると、一晩でこの詩を書きあげたという。

 安田寛著『「唱歌」という奇跡十二の物語』(文春新書)には、この時の様子が次のように語られていて、興味深く読むことができます。
  “最後の線香が済み、開成中学校全生徒が海軍礼式に則った礼をし終わった時、最後列に控えていた兄妹校鎌倉女学校の生徒七十名余りが、三角錫子教諭に先導され、祭壇前まで進んだ。三角が代表で線香を済ませた後、オルガンの蓋を開け、一礼してから演奏をはじめた。
 生徒らが途中から泣き出して満足に歌えなかったのを、オルガンを弾いていた三角は、「もう少ししっかり歌いなさい」と注意したという。
 彼女は、開成中学校の男子生徒を弟のようにかわいがり、家に「何かしらに憧憬し、何かしらを求める人たちが集まった」といい、「偉くなって下さい、清くあって下さいと、祈ってさしあげた方の数も少なくなかった」(三角錫子『婦人生活の創造』大正十年)という。”

  (註 I) 三角錫子著『婦人生活の創造』(実業之日本社)大正10年発行は、国立国会図書館で所蔵していて見る事ができます。
  (註II) 現在の鎌倉女学院中学校・高等学校は、神奈川県鎌倉市由比ヶ浜二丁目にある。私立中高一貫校。略称、鎌女(かまじょ)。1904年、鎌倉女学校として創立。鎌倉高等女学校を経て、戦後の学制改革に伴い現在の校名になる。
 三角錫子は楽譜集「哀歌」の文中、鎌倉高等女学校の名称を使っている。  
 現在は中学・高校とも鶴岡八幡宮一の鳥居横にある校舎を使用しているが、以前は若宮大路をさらに南に進んだ所(現在の鎌倉簡易裁判所付近)に中学校専用の校舎があった。しかし、兄妹校である逗子開成が起こしたボート遭難事故の賠償金を支払うために、その土地を手放さなくてはならなくなり、現在の校舎のみになった。
  (註III) 鎌倉市七里ガ浜2-21-1には神奈川県立鎌倉高等学校がある。通称、鎌高(かまこう)や県鎌(けんかま)と呼ばれている。

 【なぜ、鎌倉女学校の生徒は、すぐ歌えたのか?】
 鎌倉女学校の生徒が三角先生の書いた歌詞ですぐ歌えたのは、愛唱歌「夢の外(ほか)」の替え歌だったからです。

 【大和田建樹作詞「夢の外(ほか)」】
 この曲は日本では大和田建樹(たてき)作詞の「夢の外」という曲名で、大和田建樹・奥好義(よしいさ)選『明治唱歌』第五集(明治二十三年(一八九〇年)・中央堂)に発表されていたので、女学校で盛んに歌われていました。そして「夢の外」も外国の讃美歌の替え歌でした。


  ・大和田建樹は、高等師範学校教諭 ・奥好義は、高等師範学校助教諭

 <大和田建樹と讃美歌との関係>
 作詞者の大和田建樹は、一八五七年に伊予(愛媛県)宇和島に生まれた。一八七六年に二十歳で広島英語学校に入学し、そこでキリスト教宣教師カロザース夫妻に出会った。カロザースが主催する聖書クラスで讃美歌を歌い、夫人がオルガンで弾く<Little Drops of Water>に耳を傾けた。

 <「夢の外」の原曲>
 『原典による近代唱歌集成』(ビクター)の解説・安田寛著「唱歌になった讃美歌」では、“大和田建樹作詞の<夢の外>の原曲は、19世紀はじめのアメリカの讃美歌<When We Arrive at Home>に付けられた曲<Love Divine>である。
 日本では明治20年代に信者が歌っていた記録がある。”として以下の楽譜を提示している。この事については、安田寛著『「唱歌」という奇跡十二の物語』(文春新書)に詳しい。
                                ▲アメリカの讃美歌集(<夢の外>の原曲)
 
 J・インガルスが編纂して一八〇五年に出版された、アメリカ最初の白人霊歌集≪クリスチャンハーモニー≫所収の<Love Divine神の愛>。
 二段目が<When We Arrive at Home>になっている。

 安田寛著『「唱歌」という奇跡十二の物語』(文春新書)によると、“白人霊歌(ホワイト・スピリチュアル)というのは、イギリスの無味乾燥な詩編歌を拒否した新大陸のプロテスタントの人々が歌った民謡的風な讃美歌のことをいう。
 インガルスと彼の白人霊歌集について研究したアメリカのD・G・クロッコの博士論文によれば、「When We Arrive at Home」の本歌は、十八世紀半ば頃のイギリスの舞曲「ナンシー・ドーソン」で、さらに、これにも舞曲「PISS UPON THE GRASS」という原曲があった。”として舞曲「PISS UPON THE GRASS」のメロディー譜を提示している。

      ▼「真白き富士の根」の本歌  舞曲「PISS UPON THE GRASS」のメロディー譜 


 まとめとして、安田寛著『「唱歌」という奇跡十二の物語』(文春新書)には、次のような注目すべき事柄が書いてあります。
 “「ガーデン作曲」とされてきたが、最近、「インガルス作曲」という説が唱えられるようになった。しかし、本歌と比べてみた時、ヴァイオリンとドラムがはやし立てる、滑るような軽快なステップの舞曲をインガルスが讃美歌として採集したといったあたりが妥当なところではないか。”

 安田寛氏の指摘を読んで、私(著者・池田小百合)は、「『どしょっこ ふなっこ』のようだな」と思いました。
 「どじょっこ ふなっこ」は、元々「秋田県鹿角南部藩地方民謡・わらべ歌」で、豊口清志が採録した「泥鰌ッコの詩」があります。この元唄を詩吟調で歌ったのを聞いた音楽教育者で作曲家の岡本敏明は、詩をメモして即興で曲を付け、混声四部合唱として発表。ハレルヤコーラスのようにも編曲しました。
 しかし、詩吟調の歌を、岡本敏明が合唱曲として採集したといったあたりが妥当かというと、少し違う気がします。歌詞は「補作詞」でよいにしても、曲は詩吟調から脱した合唱曲になっています。つまり「岡本敏明作曲」です。したがって、讃美歌の方も「インガルス作曲」で、よいのではないかと思います。

  <三角錫子と讃美歌との関係>
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)では、推理作家である鮎川が“三角錫子が讃美歌に詞をつけたからにはクリスチャンと思うのだが”と書いている。しかし三角錫子は仏教徒。鮎川は、「夢の外」の替え歌だということを知らなかった。
 鮎川が、“讃美歌に詞をつけたからにはクリスチャン?”と推理したのは理解できる。唱歌の最初の作曲家として活躍した小山作之助、納所弁次郎、内田粂太郎(くめたろう)らはクリスチャンだった。幸田延も瀧廉太郎もクリスチャンで、東くめは大阪のミッションスクールの出身。尋常小学唱歌の作曲委員の島崎赤太郎、岡野貞一もクリスチャン。山田耕筰、信時潔、岡本敏明の父は牧師であった。本人たちもクリスチャン。したがって、唱歌は讃美歌から強い影響を受けている。
 三角錫子は、明治二十五年(一八九二年)三月、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業すると同時に、内地より俸給の多い北海道札幌区女子尋常高等小学校訓導となった。この札幌時代に教会の日曜礼拝で信者たちがオルガンに合わせて歌う讃美歌に出会った。 錫子は洗礼こそ受けなかったが讃美歌を歌い、オルガンを学び、『北海道教育雑誌』に短歌を寄せたことが、「真白き富士の根」を書く下地になった。

 【「真白き富士の根」の真相】
 <「真白き富士の根」の原曲>
 作曲者はアメリカのジェレミー・インガルスJeremiah Ingalls(一七六四年三月一日~一八二八年四月六日)で、彼の編集した讃美歌集の中にある「WHEN WE ARRIVE AT HOME」が原曲。

 <作曲者「ガーデン」は間違い>
 この曲の作曲者は長く「ガーデン」とされてきた。これには理由があります。
 楽譜の右上に注目して下さい。 “GARDEN.”その下にJEREMIAH INGALLS.と書いてあります。  インガルスは、かつて自分が作った「GARDEN HYMN」という歌を元に「WHEN WE ARRIVE AT HOME」を作った。それで、右上に「“GARDEN (HYMN)”という歌を元にしてその歌詞も使って JEREMIAH INGALLSがこの歌を作った」と書き残した。このインガルスの記載が正しく伝えられず、なぜか「GARDEN」が作曲家になってしまった。 「GARDEN HYMN」と書いてあれば、曲名と知れて間違いは起きなかったでしょう。最初に間違えた人が書いたものを、調査せず、そのまま写したために起きた事です。讃美歌のスタイルを知っていれば、何でもない事で、このような簡単な読み間違えはありえないことです。 「真白き富士の根」の作曲者は、「ガーデン」ではなく「ジェレミー・インガルス」が正しい。
 この事は、池田小百合著『童謡を歌おう・神奈川の童謡33選』(センチュリー出版)1996年4月15日出版の時、逗子開成学園の司書教諭・肥後文子さんから調査結果の手紙をいただきました。ありがとうございました。


        ▲「真白き富士の根」木製歌碑(1940年、逗子開成学園内)には ガーデン作曲と間違ったままになっている。
         インガルス作曲が正しい。

 作曲者をガーデンまたはガードンとした間違いは以下のように、かなりあります。
 ●タイトル「七里ヶ浜の哀歌」トマス・W・ガーデン作曲(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』音楽之友社)、タイトル「七里ヶ浜の哀歌」トーマス・W・ガードン作曲(奥村美恵子著『神奈川の歌をたずねて』神奈川新聞社)、タイトル「真白き富士の嶺」ガードン作曲(蓑田良子編・楽譜集『グリーンコーラス・あなたとわたしの歌』(1975年、音楽書院)など。
 ●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫、昭和33年発行)は、タイトルが「七里ヶ浜の哀歌」で“ガードン作曲”となっていて、これを参考資料に使ったため、多くの出版物が間違ってしまいました。
 堀内敬三は解説の中で、大正五年一月二十三日に発行された最初の楽譜集『哀歌』(音樂社)についてふれていない。この楽譜集を見ずに解説を書いてしまった。
 読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)には、次のように書いてあります。 “間違いの端緒は一九三二年(昭和七年)。音楽評論家の堀内敬三が「明治回顧 軍歌唱歌名曲選」(京文社)で、作曲者をガードンとしてしまったことにあるようだ”

 <あなたも一目でわかる讃美歌244番の検証>
 では、日本で使われている日本基督教団の讃美歌より244番を見ましょう。

                                   ▲讃美歌244

 「信仰の生活 神の招き」の章の一曲。楽譜の左上には作詞者の名前と、作った年が書かれている。「Kanjiro Nagasaka,1951」。
 次に楽譜の右上に注目して下さい。一段目の「COME TO ME 我にきたれ」は、この曲のタイトル。一番の歌詞の中にも「我にきたれ」という言葉がある。 二段目は作曲者の名前と作曲年。「Shozo Koyama,1952」。1952年に小山章三が作曲したということです。このように讃美歌のスタイルを知っていれば何でもない事です。 小山章三先生は、現在、国立音楽大学名誉教授。私(著者・池田小百合)は、国立音楽大学の四年生の時、小山章三先生に卒論の指導を受けました。その時、讃美歌244の作曲経過を聞き、感動したのを覚えています。「枕もとで出来上がったこの曲を歌うと、たちどころに女性の病気が治った」というものです。その女性とは奥様。奥様への愛が込められた一曲です。千葉県市川市在住。
 (註) 「Nagasaka, Kanjiro(1871-1952)」、「Koyama, Shozo(1930-)」。

 【『真白き富士の根』のその後】
 この歌は学生間に歌い伝えられた。

 【楽譜集『哀歌』の出版】
  ・大正五年(一九一六年)一月二十三日、ボート遭難の七回忌の祥月命日に出版された楽譜集『哀歌』(音楽社)があります。
  神奈川県立図書館で見ることができます(大正六年十二月十日発行三版)。傷みが激しいのでデジタルで保管して欲しいと思います。フェリス女学院大学附属図書館では所蔵していませんでした(2011年7月1日レファレンス回答による)。


 【「根」か「嶺」かの議論】
 「真白き富士の根」、「真白き富士の嶺」となっている記載がある。一般の人は当然迷います。

 【調査結果】
 <三角錫子は「真白き富士の根」と表記した>
  ・大正五年(一九一六年)一月二十三日、楽譜集『哀歌』(音樂社)として出版された。
  ・楽譜集『哀歌』は、三角錫子の作歌集。
  ・楽譜集『哀歌』には、「真白き富士の根」と、「母のなげき」の二曲が掲載されている。「母のなげき」の作曲者は山本正夫。
  ・表紙・歌詞のみを記した部分・山本正夫 調和の楽譜も、全て「眞白き富士の根」です。

  (註)楽譜集『哀歌』は、神奈川県立図書館が所蔵していて、やっと見る事ができました。研究者は、次の研究者のために、所蔵図書館を明記してほしいものです(2011年6月30日)。これを利用する場合は、インターネット検索「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と書いていただけると、苦労が報われます。
 
  ▼「真白き富士の嶺」となっている逗子開成学園のボート遭難碑(1963年) (当時の校長澤井測による)

 曲名については、逗子開成学園の『試論』昭和六十一年第六号で、松本晴和氏が次のように書いておられます。
  “三角錫子自身が『真白き富士の根』と記したことは間違いなく、古語辞典では「嶺」と「根」は同根。原作詞者に忠実であるべきだと思う”  
 現在、逗子開成学園の刊行物は、「真白き富士の根」と、「根」に統一されています。逗子開成学園創立九十周年記念式典演奏(平成五年四月十八日)のCDも、「真白き富士の根」となっている。

▼参考  「富士の嶺」と「富士の根」はいずれも富士の峰を意味するもので、古来、両方の表記があります。「根」は借字といって、漢字の意義に関係なく一字で一音を写すものとして使われています。『広辞苑』には、「ね【峰・嶺・根】みね、山のいただき」とあり、根も嶺も同じ扱いです。また、「かいがね【甲斐が根・甲斐が嶺】甲斐国(山梨県)の高山」というような説明もあります。筑波嶺も筑波根の表記があります。富士の高嶺も富士の高根もあり、いずれも同義で用いられています。
 なお、次に続く歌詞が「仰ぎ見るも」となっていて、これは富士の峰を仰ぎ見ていると思われます。三角錫子自身が、富士の根の「根」を「根っこ」の意味で用いた旨の発言等があれば別ですが、やはり、自然に「富士の根」で富士の峰(山)を表したものと思います。 

 【演歌師が歌い流行する】
 大正七年頃から演歌師がこれを歌って全国的に流行させた。曲名も初めは「哀悼の歌」や「哀歌(あいか)」とされていたが、しだいに「七里ヶ浜の哀歌」といわれるようになり、流行した。したがって、この歌は流行歌のジャンルで紹介されている場合が多い。「七里ヶ浜の哀歌」のタイトルのほうが一般には悲劇が伝わりやすい。
 
 【映画化とレコード】
  ・昭和十年(一九三五年)には松竹が映画化『真白き富士の根』(出演・及川道子、河村黎吉ほか)して、その主題歌になった。
 ミス・コロムビアが吹き込んだレコード(日本コロムビア)も発売されて全国的に流行。 レコード番号28507。昭和十年十月発売。

▲歌詞カード「眞白き富士の根」。ガードン作曲と間違っている。
この歌詞カードは『懐かしの流行歌集 戦前戦中Ⅰ
 福田俊二編』(柘植書房)1995年3月10日発行で見る事ができます。

  ・昭和二十九年(一九五四年)には大映で映画化された。『真白き富士の嶺』(出演・北原義郎、沢村美智子、林成年、加東大介ほか)。
 テイチクから菊池章子が吹き込んだレコードが発売された。

 <『童謡・唱歌・流行歌全集』掲載の「眞白き富士の根」>
 歌詞が「仰ぎ見る眼も」「捧げまつらん」と変えて出版されている。この歌詞で覚えて歌った人も多い。
  ▼婦人倶楽部(第十七巻第一號)新年號附録(大日本雄辯會講談社)昭和11年1月1日発行『童謡・唱歌・流行歌全集』より。富田千秋畫

 【楽譜を詳しく見ましょう】

 逗子開成学園・記念誌『七里ヶ浜ボート遭難事故百年忌』(2010年1月23日発行)に掲載されている楽譜。
 タイトルは、ボート遭難の歌「真白き富士の根」となっている。このタイトルは、内容がわかりやすい。

旋律は、ヘ長調(ヨナ抜き長音階・数字譜では4と7が無い)。 八分の六拍子、弱起。
二部形式。初出の『哀歌(眞白き富士の根)』より歌いやすいように整えてある。

  ・元からあるメロディーに、後から歌詞を付けたので、歌詞の付け方が難しい部分があります。注意して歌いましょう。
 「あ おぎみーる もーーい まはなーみ だー」 「さ さげまーつ るーーむ ねとこーころー」
  ・一カ所あるフェルマータは、この歌の山になるように、歌い方に気を付けて下さい。
  ・五番の歌詞の初出は「おともすごし」ですが、現在は「おとも高し」と歌われています。

 【三角錫子(すずこ)の略歴】
  ・明治五年(1872年)四月二十日、三角風三の長女として石川県金沢に生まれ、寿々(すず)と名付けられた。父親に早死にされ、弟五人をかかえて苦労の連続だった。
  ・明治二十五年(1892年)三月、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業すると同時に、当時特別手当がついた北海道札幌区女子尋常高等小学校訓導を皮切りに、東京女学館・女子高等師範学校・北海道師範学校・私立横浜女学校・私立東京高等女学校で教育に従事。
  ・明治三十五年五月には過労から胸を患って休職し、転地療養のため逗子に転居した。
  ・明治四十一年(1908年)四月からは鎌倉女学校の教壇に立ち、逗子からの通勤の道すがら逗子開成中学校の多くの生徒と出会っていた。「真白き富士の根」の歌詞を作った当時は三十七歳。
  ・遭難事故の翌年三月三十一日付で鎌倉女学校を退職。住まいも鎌倉の材木座に移している。
  ・大正五年(1916年)四月、常磐松女学校を創立した(現・トキワ松学園)。豊多摩郡渋谷町の常磐松(ときわまつ)一番地に、明治末年、松山イツが始めた女子音楽園の校舎の一部を借りてのささやかな開校であった。年限は二年、本科・家政科・裁縫専修科の三科から成り、定員百八十名。
 三角がこの女学校に来たのは、親しかった下田歌子のすすめ。下田歌子の実践女学校は隣にあった。
 渋谷の校舎は爆撃を受けて焼失したため、戦後に今の碑文谷(ひもんや)に新築移転した。校名をカタカナにしたのは、漢字時代の「常磐松」が、非常にしばしば「常盤松」と誤記されたからだそうです。
 ●逗子開成中学校記念誌「七里ヶ浜ボート遭難事故百年忌」に書かれている“常盤松”の漢字は誤記ということになります。
  ・大正十年、四十九歳の若さで亡くなりました。墓は鎌倉松葉ヶ谷の長勝寺にある。徳田四人兄弟の墓も長勝寺にある。四人兄弟の父親、徳田正茂は一年後に亡くなり、その翌年に母親も亡くなった。長勝寺は、日活の映画俳優・赤木圭一郎の墓がある事で有名。

 【三角錫子は、なぜ数学教師だったか】
  これは、だれもが不思議に思う事です。
  トキワ松学園の事務局長の沖氏から聞いた話が、鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)に掲載されていますので紹介します。
 “「三角先生の祖父にあたる方は、加賀の前田侯(こう)に数学を教えたそうです。三角という姓は殿様から頂いたものだと聞いています。」
 もしかすると、三角関数を講義したのではあるまいか。”
  鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)より抜粋。

  三角は女子高等師範学校で高等師範科を卒業している。当時は科目別でないため、中等学校の教員免許を取得したと思われる。数学が多いが他の教科(国語、理科、化学、家事など)も教えている。
  なお、自叙伝『涙と汗の記』では「三角術で藩主から三角という姓とコンパスの定紋を拝領した」と記している。
  (註)「三角」については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。ありがとうございました(2015年1月22日)。

  【ボート遭難像】 稲村ケ崎公園内には遭難した兄弟をモデルにした「ボート遭難像」があります。台座には「ボート遭難の碑」と亡くなった十二人の氏名が書かれた「碑文」が刻まれている。

 【後記】
 逗子開成中学校記念誌「七里ヶ浜ボート遭難事故百年忌」(逗子開成中学校・高等学校)2010年1月23日発行(編著・逗子開成中学校・高等学校校長 袴田潤一)は、貴重な資料です。これは、厚木市立中央図書館で所蔵しています。だれでも閲覧可能です。
 肥後文子著・山上浩編『85年ぶりに新事実‐「真白き富士の根」の作曲家はガーデンではなくインガルス』(逗子開成学園 1996)は、厚木市立中央図書館では所蔵していません(2011年6月28日)。 神奈川県立図書館でも所蔵していませんでした(6月30日)

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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野中の薔薇

原詩 Johann Wolfgang von Goethe「Heidenröslein」
訳詞 近藤朔風      
作曲 Heinrich Werner
(ハインリッヒ・ヴェルナー)

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013年4月5日)


▲明治四十四年発行『女聲唱歌』の歌詞


 インターネット上には、「訳詞 近藤朔風(こんどうさくふう)」と書いてあるさまざまな歌詞が掲載されています。一体どれが本物なのでしょうか。
 それで調べてみる事にしました。
 これを解く鍵は、『女聲唱歌』(東京 水野書店発行)明治四十二年発行と、明治四十四年発行にありました。研究者は必見です。

  【メロディーの初出】
 のちに愛唱されるようになるヴェルナーの「野ばら」のメロディーが最初に日本に紹介されたのは、『小学唱歌集』第三編(明治十七年三月二十九日出版届・四十二曲収録)に掲載された第八十九「花鳥(はなとり)」。
 楽譜は、ヘ長調、八分の六拍子、三部合唱です。タイトルは「花鳥(はなとり)」で、いかにも教育的な内容で、現在歌われている近藤朔風の「野ばら」とは全く違います。日本語作詞者不詳。

▲「花鳥」 『小学唱歌集』第三編(1884年)掲載

  山際 白みて  雀は鳴きぬ  早疾(と)く起きいで  書(ふみ)読め吾子(わがこ)
  書読め吾子  書読む隙(ひま)には 花鳥(はなとり) 愛(め)でよ

  書読む隙に  花鳥愛でよ  鳥鳴き 花咲き 楽しみ尽きず
  楽しみ尽きず  天地(あめつち)開けし  始めもかくぞ
  

  【『女聲唱歌』明治四十二年版の検証】
 天谷秀・近藤逸五郎共著『女聲唱歌』(東京 水野書店発行)明治四十二年(1909年)十一月二十七日発行に掲載された。
  (註Ⅰ)本名・近藤逸五郎=近藤朔風。
  (註Ⅱ)神奈川県立図書館所蔵(2013年3月24日調査)
 
▲『女聲唱歌』表紙 
ユリとハープの挿絵
▲『女聲唱歌』中表紙 
右上に東京音樂院長と書いてある。
▲奥付 明治四十二年
十一月二十七日発行


▲「緒言」 (傑作集、女声三部合唱、斉唱可など) ▲目次 掲載曲二十五曲。
四に「野中の薔薇


  ▼歌詞 タイトルは「野中の薔薇
  一番の一行目「童は見でぬ、野なかの薔薇。」   一番の二行目「若やかに咲く、その色愛でつ、」  三番の三行目「折られてあはれ、淸らの色香、」
  
▲楽譜 タイトルは「野なかの薔薇」 ト長調、八分の六拍子、
三部合唱。

     今歌われている歌詞と異なる・・・・ 「ワラベ―ハミデヌ」「ワカヤカニサク」「ヲラレテアハレ」。


例えば
三番の歌詞は
たおりて あわれ」と
変えられている


平成二十一年発行
(平成十八年検定済)
『高校の音楽』1
(音楽之友社)より


  <タイトル調査のまとめ>
 歌詞のタイトルが「野中の薔薇」で、楽譜のタイトルが「野なかの薔薇」です。
 そのため、出版物により二種類のタイトルが使われている。

  <歌詞調査のまとめ>
 初出の一番の一行目は「童は見でぬ、野なかの薔薇。」
 二行目は「若やかに咲く、その色愛でつ、」の歌詞です。
 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の「野なかの薔薇」の解説に、“初めは、「童は見でぬ、野なかの薔薇。若やかに咲く、その色愛でつ、」の歌詞でした。”とあるのは、この事です。初出を見ると理解できます。
 三番の三行目の歌詞は、初出から「折られてあはれ、淸らの色香、」で、楽譜も「ヲラレテアハレ」です。

 中村幸弘編著『読んで楽しい日本の唱歌 I 』(右文書院)は、「野なかの薔薇」のタイトルで堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)を使った解説が掲載されている。中村の解説には次のように書いてあります。
 “この訳詩、初めは、「童は見でぬ、野なかの薔薇。若やかに咲く、その色愛でつ、」だったそうです”と。著者は初出を確かめていない事が、“だったそうです”の文から分かります。このように、多くの研究者は『女聲唱歌』明治四十二年版を手に取って確かめていないと思われます。

 【『女聲唱歌』明治四十四年版の検証】  
 では、いつから今歌われている歌詞の「童は見たり、野なかの薔薇。清らに咲ける、その色愛でつ」になったのでしょうか。
 神奈川県立図書館に行くと、電話をしておいたので、司書の方が二冊の『女聲唱歌』を、すぐに見せてくれました。最初は、なぜ二冊あるのか不思議でしたが、この二冊は最も貴重な資料で、二冊同時に見る必要があります。この図書館で見る事ができるのは、すばらしい事です。研究者は必見です。2013年3月24日(日曜日)調査、桜木町は桜が満開でした。
 一冊目は、明治四十二年版(上記の通りです)。

 二冊目は、これの訂正再版、明治四十四年発行でした。表紙、目次、歌詞のタイトル「野中の薔薇」、楽譜のタイトル「野なかの薔薇」は、明治四十二年版と同じ。歌詞が右、楽譜が左の見開きに掲載されていて見やすくなっているので、明治四十四年版の方が優れている。緒言は削除されているが、これは残すべきだった。
 (註)国立国会図書館には、明治四十三年四月十日訂正再発行の『女聲唱歌』が所蔵されている。明治四十四年四月二十日訂正再版はこれを踏襲している。

▲中表紙
天谷秀・近藤逸五郎共著『女聲唱歌』
(東京 水野書店発行)
明治四十三年四月二十五日 
文部省検定済 
▲奥付 
明治四十四年四月二十日
訂正再版
発行
(神奈川県立図書館所蔵)

   ▲歌詞 「野中の薔薇」近藤朔風と書いてある。タイトルは初出と同じ。 ここで「童は見たり、」「淸らに咲ける、」の歌詞に訂正した。
 三番の三行目の歌詞は、初出と同じ「折られてあはれ、淸らの色香、」で、楽譜も「ヲラレテアハレ」であった。
   楽譜のタイトルは初出と同じ「野なかの薔薇」 、以下の変更した歌詞にそって「ワラベ―ハミタリ」「キヨラニサケル」となっていた。
  三番は「ヲラレテアハレ」のままである。

  ●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の「野なかの薔薇」の歌詞は「童は見たり、」「淸らに咲ける、」であるが、この出典を<『女声唱歌』明42・11>と記しているのは間違いである。出典は<『女声唱歌』明44・4>が正しい。歌詞のタイトルも「野なかの薔薇」ではなく、「野の薔薇」が正しい。掲載楽譜のタイトルは「野なかの薔薇」となっているのでこれは『女聲唱歌』と同じである。歌詞と楽譜を同じページに掲載するので、便宜上、「野なかの薔薇」に統一したのでしょう。

  【「折られてあはれ」とタイトルの調査】
  ・堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の歌詞は「折られてあわれ、」で、歌詞のタイトルも楽譜タイトルも「野なかの薔薇」に統一してある。
  ・森田美子編著・咲花実千代共著『四季をつたえる「京」のうた・こころのうた』(ミヤオビパブリッシング)2010年発行の歌詞は「折られてあわれ」で、楽譜も「おられてあわれ」。タイトルは歌詞も楽譜も「野なかの薔薇」になっている。
  ・佐藤愛編曲『シニアのための童謡・唱歌集』(音楽之友社)2003年発行の歌詞は「折られてあわれ」で、楽譜は「おられーてあわれ」。歌詞も楽譜もタイトルは「野ばら」になっている。
  ・『私の心の歌 夏 夏の思い出』(学習研究社)2004年発行の歌詞は「折られてあわれ」で、楽譜も「おられてあわれ」。タイトルは歌詞も楽譜も「野ばら」になっている。
  ・読売新聞文化部『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)2003年発行は、文語体のまま明治四十四年四月二十日訂正再版発行の詩を掲載している。したがって「折られてあはれ、」。しかしタイトルは「野ばら」になっている。明治四十四年の歌詞の正式なタイトルは「野の薔薇」です。
  ・上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版社)2005年9月発行は、歌詞を掲載しているのでタイトルは「野中の薔薇」である。歌詞は「折られてあわれ、」。著者の上笙一郎は、『女聲唱歌』を見て確認している事がわかります。
  (註) 池田小百合編著『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』改訂11版(夢工房)は、歌詞集なので、タイトルを「野中の薔薇」とし、歌詞も明治四十四年四月二十日訂正再版発行を使う事にしていました。したがって、三番の三行目は「折られてあはれ、淸らの色香、」です。 楽譜だけを使う場合は、「野なかの薔薇」のタイトルで、「おられてあはれ」と歌うのが好いでしょう。

  【歌詞の意味】
  ・「紅にほふ、」=鮮やかな赤い色に染まっている。
  ・二番は「手で折るなら折ってもかまわない、思い出の種として、君を刺すことになるだろう」という意味。
  ・三番の「永久にあせぬ。」=常しえに色あせてしまった。「ぬ」は「折りぬ」の「ぬ」と同じ完了の助動詞。ここは誤解されやすい。

  【近藤朔風(こんどうさくふう)の略歴】詩人(1880年~1915年)
  ・明治十三年、東京府神田区駿河台袋町生まれ。出石藩(兵庫県出石郡)出身の内務官僚・桜井勉の五男。
  当時内務省地理局長で「官員録」記載の住所は駿河台袋町9番地。本名は、逸五郎。
  ・十三歳で外戚の近藤家の養子となる。
  ・明治三十五年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)入学。東京音楽学校(現・東京藝術大学)選科生として唱歌、ピアノを学んだ。
  ・明治三十六年、東京音楽学校でオペラ「オルフォイス」上演の際、石倉小三郎、乙骨三郎らと共に歌詞の日本語訳を担当した。その後、山田源一郎の『音楽新報』に歌曲の訳を掲載するなど、西洋歌曲・主としてドイツ近代歌曲を選び、新しい訳詞を付して紹介した。『独唱名曲集』『女聲唱歌』(天谷秀と共編)を編み、ヴェルナー「野中の薔薇」、シューベルト「菩提樹」、ジルヘル「ローレライ」などは今でも歌い継がれている。
  ・大正四年一月十五日に亡くなりました。

  【勝承夫作詞の「野ばら」の検証】
 沢山の曲が作られたように、沢山の歌詞も作られた。 『五年生の音楽』(文部省)昭和二十二年七月十五日翻刻発行(昭和二十二年六月十四日文部省検査済)には、勝承夫(かつよしお)が作詞した「野ばら」が掲載されている。
 勝承夫がタイトルを「野ばら」としたのは、近藤朔風の「野中の薔薇」と区別するためでしょう。歌詞は「わらべは見たり、野中のばら。」となっている。近藤朔風の歌詞は「童は見たり、野なかの薔薇。」  
 楽譜は、ニ長調 八分の六拍子。小学五年生がニ長調の学習をするために掲載された楽譜です。
   ▼歌詞と楽譜(一部)「野ばら」作詞 勝承夫 作曲 ウェルナー

  【高校生の音楽教科書「野ばら」の検証】
 『高校生の音楽1』(教育芸術社)、『MOUSA』1(教育芸術社)、『高校生の音楽1』(音楽之友社)、『高校の音楽1』(音楽之友社)いずれも平成二十一年発行(平成十八年検定済)には、近藤朔風の訳詞「わらべーはみたり のなかーのばら」が「野ばら」のタイトルで掲載されている。三番は「たおりてあわれ」と歌われている。なぜでしょうか?


 <1> <タイトルが「野ばら」となった考察>
 初出のタイトルは、歌詞は「野中の薔薇」、楽譜は「野なかの薔薇」となっていた。しかし、これでは困るので、「野薔薇」となり、薔薇の漢字は難しいので、平仮名の「野ばら」にしたのだろうか。 教科書の楽譜には訳詞:近藤朔風と書いてある。したがって、楽譜のタイトルは初出の「野なかの薔薇」のままで、よかったのではないか。歌詞を「たおりてあわれ」に変えたので、初出の「野なかの薔薇」と区別するために「野ばら」にしたのだろうか。「野ばら」のタイトルにした理由がわかりません。
 <2> 「たおりてあわれ」と歌われている考察>
 近藤朔風の歌詞「野中の薔薇」の三番は、「童は折りぬ、」に対して「折られてあはれ、」で、歌詞としては全く問題無い。直す必要がない。しかし、二番に「手折(たお)りて」とあるので、これにそろえて三番も「たおりて」にしたのだろうか。「たおりてあわれ」と歌われている理由がわかりません。
  ★そこで、教育芸術社と音楽之友社に、なぜ「野ばら」のタイトルなのか、なぜ「たおりてあわれ」の歌詞にしているのか、理由を教えてもらう事にしました(2013年3月25日、回答待ち)。

 【音楽之友社からの回答の検証】  音楽之友社 出版部より回答(2013年3月28日着)
 質問<1>の回答「ゲーテの原語タイトル「Heidenröslein」は確かに(Heiden=荒野の,röslein=バラ)で(荒野のバラ→野ばら)に訳詞者の近藤朔風がタイトルにしたものです」。
  ●この回答者は、『女聲唱歌』を見ていないため、明治四十二年、四十四年共に訳詞者の近藤朔風がタイトルにしたものは「野中の薔薇」(楽譜のタイトルは「野なかの薔薇」)であることを理解していないようである。
 質問<2>の回答「原詞は恋のなやみを「野ばら」に託した詩で、原詞は少年はばらを折ってしまったとあるので、訳詞者は「手折(たお)りてあわれ」としたようです。(楽譜にあわせるので、難しかったようです)・・・・・
  ●訳詞者の近藤朔風訳は「手折(たお)りてあわれ」ではなく、『女聲唱歌』明治四十二年、四十四年共に「折られてあはれ、」(楽譜は「ヲラレテアハレ」)と訳している。回答者は『女聲唱歌』を見ていないので推測での回答になってしまっています。初出から「折られてあはれ」(ヲラレテアハレ)と歌うように書かれていました。初出の楽譜にあわせて歌っても別に難しくはありません。近藤朔風の学歴を見ると、東京外国語学校(現・東京外国語大学)入学、東京音楽学校(現・東京藝術大学)選科で唱歌・ピアノを学んでいる。自分で歌って確かめているはずです。
 これらの楽譜を「訳詞:近藤朔風」とし、タイトルを「野ばら」、歌詞を「手折(たお)りてあわれ」としているのは、正しくないことになる。一社だけでなく、教育芸術社の回答も待ちたい(2013年3月28日)。

 【教育芸術社からの回答】
 教育芸術社 編集部より回答 (2013年4月13日)

 まず、最初のご質問のタイトルについてですが、弊社は昭和23年から音楽の教科書を発行しております。その中で、ヴェルナー作曲/近藤朔風訳詞「野ばら」が初めて掲載されたのは、昭和25年度用の「中学音楽2」です。このときすでにタイトルは「野ばら」となっています。歌詞は現在教科書に掲載している歌詞ではなく下記のとおりです。

  1  わらべは見たり 荒れ野のばら  朝とく きよく
     うれしや みんと  走りてよりぬ ばらよ 赤き 荒れ野のばら
  2  手折らん われは 荒れ野のばら  たええず われは
      しのべど とわに 君をばささん ばらよ 赤き 荒れ野のばら
  3  わらべは折りぬ 荒れ野のばら 野ばらは刺せど
     なげきもあだに  手折られにけり ばらよ 赤き 荒れ野のばら

 そして昭和26年度用「中学音楽3」にシューベルト作曲/近藤朔風訳詞の「野ばら」が掲載されています。こちらの歌詞は現在教科書に掲載しているものと同じです。ですので、2つめのご質問の3番の歌詞をなぜ「たおりてあわれ」に変えているのですか?ですが、このときすでに「折られてあはれ」ではなく、「たおりてあわれ」となっています。
 
 その後、昭和48年度用「高校生の音楽1」からは、シューベルト、ヴェルナーの2曲とも現在と同じ歌詞が掲載されるようになりました。  

             ▼『中学音楽3』(教育芸術社) 27教芸 音楽9001
             昭和36年4月20日文部省検定済、昭和39年12月10日発行


 昭和26年度用と同じで、タイトルは「野ばら」、近藤朔風作詞、シューベルト作曲。三番は「たおりてあわれ」

 【結論】★調査中(2013年4月15日)
  (1)なぜ、近藤朔風作詞と書いてあるのに、タイトルが「野中の薔薇」でなく、「野ばら」になったのか不明。
  (2)なぜ、三番の歌詞は「折られてあはれ」が、「たおりてあわれ」に変えられているのか不明。
  (3)なぜ、シューベルト作曲の「野ばら」にも近藤朔風の作詞が付けられているのか不明。これは、不自然。

             ▼『高等学校音楽1』(全音教科書株式会社) 16全音 髙芸1002
             昭和26年文部省検定済、昭和26年発行


 タイトルは「野ばら」、近藤朔風作詞、H・Werner作曲。教育芸術社の昭和25年用『中学音楽2』の「野ばら」の歌詞に似ているが、違う。
 
 ★(4)なぜ、いろいろな近藤朔風作詞の歌詞があるのか不思議 (調査中2013年4月15日)。

  【原詩について】
 古い民謡詩をもとに、ゲーテが1771年にシュトラースブルクに滞在していた時に書いたとされる。ゲーテが書いた「野ばら」は、近藤朔風の詩とは少々趣が異なる。次のようなエピソードが伝えられている。

 「1770年、アルザス地方の大学で学んでいた当時21歳の学生だったゲーテは、友人に連れられて、ゼーゼンハイムという田舎の村の牧師の家を訪れました。そのとき紹介された、牧師の家の三女、ブロンドのおさげ髪のフリーデリーケ・ブリオンにゲーテはひとめぼれし、やがてふたりは恋に落ちました。フリーデリーケは18歳。ふたりの交際は、ほぼ1年にわたって続きましたが、大学を卒業したゲーテは結婚を強く望むフリーデリーケを捨て、何もいわず彼女のもとを去って、故郷のフランクフルトに帰ってしまいました。
 「野ばら」が書かれたのはその後のこと。残されたフリーデリーケはずっと独身のまま、その生涯を終えたそうです。清らかに咲くバラが無情にも折られてしまう詩は、ゲーテが恋人を裏切り、たぐいまれな美しい心を深く傷つけてしまった自責の念がこめられています」。

 この詩にヴェルナーが1829年に作曲した。シューベルトの曲も有名。シューベルトが作曲したのは1815年(シューベルトは17歳か18歳、作品3である)。ヴェルナーは、シューベルトの曲を知っていたはずです。
 シューベルトの曲は、リズミカルで、かわいらしい。ヴェルナーの曲はリズムがやわらかで、かわいらしいが、それと共に優しい感じが強く訴えます。これは、シューベルトの曲が二拍子なのに対して、ヴェルナーの曲が六拍子であることにもよる。その他、ベートーヴェン、ブラームス、シューマンなど、多くの作曲家が曲をつけている。

 ●『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)「ヘルマン・ゴチェフスキ 地球をまわったドイツ民謡と日本の唱歌」の「花鳥」の解説では、“ウェルナーが1827年に作曲した。”と書いてある。1827年は1829年の誤り。

▼シューベルトの『野ばら』。音楽之友社「高校の音楽1」より




     Heidenröslein (Johann Wolfgang von Goethe)

 Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
 Röslein auf der Heiden,
 War so jung und morgenschön,
 Lief er schnell, es nah zu sehn,
 Sah's mit vielen Freuden.
 Röslein, Röslein, Röslein rot,
 Röslein auf der Heiden.
 Knabe sprach: ich breche dich,
 Röslein auf der Heiden!
 Röslein sprach: ich steche dich,
 Dass du ewig denkst an mich,
 Und ich will's nicht leiden.
 Röslein, Röslein, Röslein rot,
 Röslein auf der Heiden.
 Und der wilde Knabe brach 's
 Röslein auf der Heiden;
 Röslein wehrte sich und stach,
 Half ihm doch kein Weh und Ach,
 Musst' es eben leiden.
 Röslein, Röslein, Röslein rot,
 Röslein auf der Heiden.

 
  【「葉かげの花」シューベルト曲】
 シューベルトの曲に付けられた最初の日本語訳詞は、明治四十五年(1912年)、納所弁次郎編『高等女学唱歌 第一編』掲載の「葉かげの花」。(坂西八郎著『野ばらの来た道』(響文社)2005年による)

       葉かげの花

   一 緑のはかげ、ほのぐらきに、
      白金なせる、千すじの光、
      いまこそさせ、
      紅い深き、小さき花に。

   二 蝴蝶を知らず、露を知らず、
      さやけき朝の、光を知りて、
      いまぞ匂う、
      紅き深き、小さき花は。

   【シューベルトのレコード情報】
   以下は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有。
     1 加 COLUMBIA C-15183 (Br)アレクサンダー・キプニス  原語
    2 英 HMV DB1844 (S)エリザベート・シューマン   原語
    3 日 VICTOR JA1009 クロア・ド・ボア児童合唱団
      フランス語 A面「野ばら」 B面「ソルヴェイクの子守唄」
    4 日 COLUMBIA 39012 ベルトラメリ能子   大木篤夫、山田耕筰共訳
      歌い出し「野ばらは若く、すがすがしいよ、わらべは寄りて・・・・・」
    5 日 KING 1002 長門美保   伊藤武雄作歌は間違い。
       「わらべはみたり、あれののバラ、あさとくきよく・・・」近藤朔風の詩で歌われている。

   【ヴェルナーのレコード情報】
    ・キングレコード AC-24 長谷川新一 指揮 東京少年合唱隊 東京少女合唱隊。
       頭声発声による学年別唱歌範唱レコード(高学年用 六年生)
       「楽しき農夫」「よろこびのうた」「のばら」「早春のうた」

   【映画「野ばら」】
  映画「野ばら」の広告が、昭和三十三年九月十一日(木)朝日新聞(夕刊)に掲載されている。文部省特選、東京都教育委員会特選。東和映画提供。総天然色。ウイーン少年合唱団特別総出演、ミハエル・アンデ少年、エリノア・イェンセン主演。日比谷スカラ座。入場者十六万人突破。



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