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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
海沼實作曲の童謡
 あの子はたあれ   お猿のかごや  蛙の笛  からすの赤ちゃん   里の秋
 ちんから峠  みかんの花咲く丘   見てござる  やさしいお母さま  
夢のおそり  夢のお馬車
海沼實の略歴   斎藤信夫の略歴   細川雄太郎の略歴   山上武夫の略歴
童謡・唱歌 事典 (編集中)




あの子はたあれ

作詞 細川雄太郎
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

  【初出】
 加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」 わが人生』(芸術現代社、平成元年10 月発行)、35ページによると、この詩は原題『泣く子はたァれ』で、童謡同人誌『童謡と唱歌』(加藤省吾・編集発行、昭和十四年(1939年)二月二十日発行)に掲載されました。この本には、次のように書いてあります。
  “これが昭和十四年二月二十日発行の「童謡と唱歌」に発表された時の原作である。
 この「泣く子はたァれ」を海沼先生が雑誌から採り上げられて、先ず「泣く子はたァれ」というタイトルを「あの子はたァれ」と変えられ、今歌われているように作曲された。最初はテイチクレコードに吹込みされたように思う。”
 ●テイチクレコードではなく、正しくはキングレコード。

加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)より

  【作詞の場所】
 細川雄太郎は六十八歳の時、毎日新聞学芸部記者のインタビューを受けています。当時、滋賀県浦生郡日野町大窪一一七八の一に居住し、悠々自適の年金生活を送り、近在の仲間を集めて詩誌『葉もれ陽』を主宰していた。
 その様子を記者は、“作者自身にうかがってみると、この歌ができたのは昭和十五年春、氏が二十四歳で、群馬県藪塚本町(やぶづかほんまち)のしょうゆ・みそ醸造会社に住み込み店員として働いている時だった”と書いています。
 細川「醸造会社には尋常小学校を卒業して、すぐ働きに出ました。オヤジが死んだので、オヤジが勤めていた醸造会社にお世話になったんです。生まれ育った日野に母と妹を残してずうっと独りぼっちの生活でしょう。郷愁の念がつのってねえ。あの詩は楽しかった幼いころの情景を思い出して書きつづったものですよ」。

 記者“歌に出てくるナツメの木は、いまも自宅前に生えている。「ミヨちゃん」は特定の人物ではなく、これはゴロがいいので。また作詩はいつも夜、蒲団に入ってからやったという。
 氏が作詩に興味を持つようになったのは、この会社に俳句が好きな番頭さんがいて、手ほどきを受けたのがきっかけ。メロディとの出会いは、たまたま会社の隣に定方雄吉という作曲家が住んでいて、作った詩に曲をつけてもらったのが最初。そのうち東京の同人雑誌にも詩を投稿するようになり、それが音羽ゆりかご会の海沼実の目にとまり、彼の作曲でできたのが、この「あの子は・・・」だったという”。
  細川「みなさん“あの子はだあれ”と歌っておられるようですが、本当は“たあれ”なんですよ。別にかまいませんがね」(毎日新聞学芸部」『歌をたずねて 愛唱歌のふるさと』(音楽之友社、1983年発行)より)。
 (註)上記 「東京の同人雑誌」は、加藤省吾編集の『童謠と唱歌』で、細川は毎回熱心に投稿している。


▲細川雄太郎
 この記述の「昭和十五年春、二十四歳で」は、加藤省吾の記述、昭和十四年に雑誌『童謠と唱歌』に発表と合いません。しかし、他にも初出詩では「ミーちゃん」になっているのに、記者が「ミヨちゃん」と記録違いをしていることから推測すると、このとき記者は細川の言葉を正確に書き取ったかどうか、疑問になります。「昭和十五年」「ミヨちゃん」という誤りは細川自身の言葉ではなく、記者の記述のなかに出て来るものです。
 私は、細川自身が間違えるはずはないと思い込んで、「昭和十五年」のこの記述を信じ込み、その証拠を長い間探しました。しかし、2009年5月、『童謠と唱歌』が群馬県立土屋文明記念文学館に保管されていることが判明し、そのコピーを見ることが出来て、加藤省吾の記述が正しく、毎日新聞記者が間違っていたことが確認できました。原詩については新しい発見もありましたが、それについては後述します

  【作曲】
 “昭和一四(一九三九)年四月に作曲された「あの子はたあれ」も、海沼實初期の作品として著名です。時々、「あの子はだあれ」と濁点がついているものも見かけますが、「たあれ」と濁らずに発音するのが正式名称です。そもそも文法的には「誰=たれ」と発音するのが正しく、「だれ」は江戸時代以降に転じたものなのですが、言葉の響きの美しさに対するこだわりから、「たれ」を用いる詩人は少なくありません”(海沼実(實の孫)著『童謡 心に 残る歌とその時代』NHK出版、平成15年(2003年)発行による)。


▲『童謡 心に 残る歌とその時代』NHK出版に掲載の「泣く子はたァれ」


海沼實の生涯
▲海沼実(實の孫)の
 2003年の著書
▲海沼実(實の孫)の
 2009年の著書
 作曲者の「海沼實」は、実がこの漢字です。『童謡 心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成15年発行)を書いた海沼実は、實が没した翌年の月命日に生まれたことから実と名づけられたもので、實の孫に当たります。
 「あの子はたあれ」の旋律は、ロ短調四分の二拍子、二部形式です。短調ですが、あまり暗く悲しそうな気持ちで歌ったりしないように。無邪気に歌うのがよいでしょう。
 最初から最後までタッカタッカのスキップのリズムで一貫しています。日本人は、このリズムが大好きです。

  【レコード初吹込み】
 郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ、2004年発行)によると次のようです。
  “一九四一年(昭和一六年)にキングレコード童謡の一枚として発売されましたが、レコード化に際しては制作担当者の発案で改作が行われ、題名を「アノ子ハタアレ」とし、第三節と第四節は全く改められました。
  戦後のレコードでは第四節がさらに手を加えられて「黒い影」が「影法師」に、「いつしか」が「いつか」に改作されて現在にいたっています。なお「誰」は今日では「だれ」と読みますが、戦後までは「たれ」の場合が圧倒的でした。ですからこの曲も「たあれ」でなくては違和感があります”。

  レコードの曲名「アノ子ハタアレ」、編曲は海沼實、伴奏はキング管絃楽団、歌手は秋田喜美子。
  レコード番号はキング51502-1-B(S-4348)。
  録音年月日1940年(昭和15年)9月3日。
  発売年月日1941年(昭和16年)2月15日(3月新譜)。
  (註) 録音年月日と発売年月日を間違えている出版物が多い。
  レコードは発売されましたが、戦時中のため、あまり売れませんでした。この音源は、『甦える童謡歌手大全集』8(キングレコード)でも、聞くことができます。

△初版レコード「アノ子ハ タアレ」昭和十六年(1941年)三月キングレコード発売。歌手 秋田喜美子(当時小学生)、
画 黒崎義介。(細川隆司氏蔵)
 秋田喜美子は東京小石川区音羽の青柳小学校生、幼稚園時代から海沼實主宰の音羽ゆりかご会で
レッスンを受けていた
 第12回企画展「少年少女詩・童謡誌展」リーフレットより(発行2001年10月14日群馬県立土屋文明記念文学館)。


  ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)掲載の「コロムビアレコード 昭14・?」は間違いです。

▲「アノ子ハタアレ」郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による。

 海沼実(實の孫)著『海沼實の生涯』(ノースランド出版、2009年)では、秋田喜美子を、「幼稚園の頃から音羽ゆりかご会に所属し、護国寺にほど近い青柳小学校に通っていた少女歌手」と紹介しています。ただし、2003年の自著では、“作品の原題は「泣く子はァれ」でしたが”としていた記述を、この2009年の本では“そもそも作品の原題は「泣く子はあれ」であった”と変更しています。

▲海沼実(實の孫)『海沼實の生涯』
(ノースランド出版、2009年)掲載

 【キングで録音された時の改作】
  改作のいきさつは、海沼実(實の孫)著『童謡 心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成15年発行)に紹介してあります。
  “この作品の原題は「泣く子はたあれ」でしたが、後にキングレコードでレコード化の際に、ディレクターの柳井尭夫が「戦時下に『泣く子』とはけしからん。『あの子』にしては?」と改作を申し出、そのほかの部分に至るまで、大幅な改作が行われました。柳井は以前に「みよちゃん」でお馴染みの「仲良し小道」(三苫やすし作詩・河村光陽作曲)などもをヒットさせていたことから、縁起を担いで、「あの子はたあれ」の第一節にも「みよちゃん」を登場させます。さらに、海沼と柳井にとって共通の友人で戦死した「内田憲二=けんちゃん」を登場させるなど、かなり貪欲に改作を進めますが、「たあれ」を「だあれ」に直すことだけは海沼の反対もあり、諦(あきら)めたそうです。
  現在の感覚からすれば「作家の著作権はどうなるの?」と感じられるかも知れませんが、当時の著作権法ではレコード会社も立派な著作者の一人として認められており、作詞者、作曲者と共に、全くの並列関係にありました。したがって、レコード会社のディレクターは、専属契約にある創作者たちと推敲を重ねながら、より良い作品を産み出すべく、常に試行錯誤を繰り返していたわけです。
  さて、「あの子はたあれ」のオリジナルの録音は、当時の音羽ゆりかご会に所属していた少女歌手の秋田喜美子が行いました。当初の録音では第四節が「お窓に浮かんだ黒い影 お外はいつしか日が暮れて」と唄われていました”。

 原詩のひなびた雰囲気や感覚にも捨てがたい味わいがありますが、改作された作品の幕切れの黒い影と明るい月の鮮やかさの対比には拍手したい気持ちが起こります。作詞者は「細川雄太郎・柳井尭夫」と表記したいくらいです。
 補作に当った柳井尭夫は、田中一郎のペンネームをもつ作詞家でした。

 【コロムビアで録音された時の改作】
 キングレコード 番号は51502-1-B(S-4348)で、歌手・秋田喜美子は(四番)「お窓に浮かんだ 黒い影 お外はいつしか日が暮れて」と歌いました。
 後にコロムビアで録音が行なわれた時には、「お窓に映った 影法師 お外は いつか日が暮れて」と現在歌われているように改作されました。この時のコロムビアのディレクターは足羽章。彼は、四番の歌詞の改作について次のように書き残しています。
 「昭和21年夏頃、筆者(足羽章)がコロムビアでディレクターを担当し、松永園子さんの歌で出したレコードが大変ヒットしました。
 録音の時、作曲者の海沼実氏が“だあれ”ではきたないので“たあれ”にしましょう、作詞者には諒解を得てありますから、と提案したため濁点なしで歌われました」(足羽章・編『日本 童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版、1984年発行より)。

▲足羽 章

 朝日新聞東京版1985年2月16日「小さなかけ橋 続あの子はたあれ(2)」には、“東調布第三小学校時代の松永(結婚して太田)園子さんは、児童合唱団「音羽ゆりかご会」にはいっており、昭和二十二、三年ごろ、コロムビアから「あの子はたあれ」のレコードを出しました”と書いてあります。
 ←松永(太田)園子さん(朝日新聞1985年2月16日「小さなかけ橋」より)
 「あの子はたあれ」の片面は大道真弓唄の「お猿のかごや」。

 <「お猿のかごや」のレコードについて>
  編曲 海沼實。歌手 大道真弓 音羽ゆりかご会。伴奏コロムビアオーケストラ。
  レコード番号 コロムビア A347-A (M210138-2)
  録音年月日 昭和二十二年(1947年)8月26日。
  発売年月日 昭和二十三年(1948年)3月(第14回発売)
 (郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による)。
 (註)B面が松永園子が歌った「あの子はたあれ」ということになります。
 朝日新聞東京版第2東京紙面の連載コラム「小さなかけ橋」には1985年1月5日(土)から1月10日(木)まで「あの子はたあれ(上)(中)(下)」、2月15日(金)から2月26日(火)まで「続あの子はたあれ(1)~(6)」の記事が掲載されていました。単行本『小さなかけ橋』(朝日新聞社,1986)も刊行されています。

 【詩人のこだわり】
 細川雄太郎の言葉 「みなさん"あの子はだあれ"と歌っておられるようですが、本当は"たあれ"なんですよ。別にかまいませんがね」 (毎日新聞学芸部『歌をたずねて 愛唱歌のふるさと』より)。
 "だあれ"では音がきたないので"たあれ"と濁らない発音にしたのです。言葉の響きの美しさに対するこだわりから、「たれ」を使う詩人は多い。明治21年『明治唱歌』の大和田建樹・作詞『故郷の空』には、「あゝわが兄弟(はらから)たれと遊ぶ」があり、現在も違和感なく愛唱されています。


▲コロムビアC26 「あの子はたあれ」          ▲キング花63 「あのこはあれ」
コロムビアC26 歌手 松永園子。タイトルは「あの子はたあれ」。
 このレコードは北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所蔵。
 「お外は いつかー」と、「いつか」を、ひとまとまりの言葉として歌います。
コロムビアC26のシール別版
夕住凛さん所蔵。

 【キング花レコード】 
 キング花-63/歌手は秋田喜美子 キングオーケスト ラ。
 このレコードでは、タイトルは「あのこはだあれ」となっている。
 四番は「おまどに
うかんだ くろいかげ」「おそとはいつしか ひがくれて」 と歌っています。このレコードは北海道在住の北島治夫さん所有。歌詞カードの コピーを送っていただきました。振付があります。


▲キング花-63 秋田喜美子のレコードに付属の振付(北島治夫さん提供資料)

 【「たけんま」の発音】
 当時の子供たちは竹馬を「たけんま」と発音していた ので、童謡歌手も「たけんま」と歌いました。

 【なつめの花】
 クロウメモドキ科の落葉高木、花時期6月。葉のわきに淡黄色の小さな花を数個ずつつける。実収穫期10月。

 【原詩を求めて】
 群馬県立土屋文明記念文学館に加藤省吾の『童謠と唱歌』が現存することが分ったのが2009年の5月14日でした。さっそくコピーしていただきました。謄写版刷りの素朴な同人誌の5ページに掲載された原詩を見た私、著者・池田小百合は唖然としました。加藤省吾の本に載っていた原詩も、海沼実(實の孫)の本に載っていた原詩も、違っていたからです。目次のタイトルは「泣く子は
だァれ」、詩のタイトルは「泣く子はたァれ」、詩の本文は「泣く子はだーれ」になっているではありませんか。海沼實が「作詞者には了解を得ていますから」と言ったという足羽章の証言が重要になってきます。

細川雄太郎の原詩「泣く子はたァれ」 童謠と唱歌 第五巻 第二号 5頁 及び 目次
詩のタイトルは「泣く子はたァれ」ですが、詩の本文では「泣く子はだーれ」と表記されています。目次では「泣く子はだァれ」。
「あそんでる」はひらかな表記、「ミーチャン」「ユーチャン」はカタカナ表記。
「おながすいたと」の「おな」とは、「おなか。腹」を意味する幼児語。<幼児のことばもしくは、幼児に対して用いることば>。
『滋賀県方言調査』(教育出版センター、昭和五十年)による。夕住凛氏から教えていただきました。

 
裏表紙
▲「童謠と唱歌」第五巻 第二号 裏表紙
(レコードの宣伝が書かれています)

▲童謠の研究 童謠と唱歌 第五巻 第二号
二月号  東京 童謠倶楽部 発行 (表紙)

後記
▲童謠と唱歌 第五巻 第二号 編集室から
 発行日は昭和十四年二月二十日発行とある


▲講談社の絵本『童謡画集(2)』より 林 義雄 画


  【細川雄太郎の略歴】 
  ・大正三年(1914年)十一月二十七日、滋賀県蒲生(がもう)郡日野町大窪の清雲(せおん)に長男として生まれる。
  ・大正十年(1921年)、日野小学校に入学。小学校時代に二人の教師と出会い、文学と芸術の面白さを知る。七歳。
  ・大正十二年(1923年)、九歳の時、群馬の岡崎商店で働いていた父・豊吉が病死。
  ・昭和四年(1929年)、日野小学校高等科を卒業。日野町の岡崎商店本家に奉公に出る。十五歳。
  ・昭和五年(1930年)四月、群馬県新田郡藪塚(やぶづか)本町(現・太田市)の岡崎商店出店へ移る。店は醤油と味噌の醸造元で、仕込職人や丁稚をたくさん抱えていた。昭和五年(1930年)四月から昭和十五年(1940年)十月までの十年間。十五歳から二十五歳。
  ・昭和七年(1932年)、この頃、工場の隣に引っ越してきた高等小学校教師の定方(さだかた)雄吉と知り合い、『童謠と唱歌』を紹介される。定方雄吉は、キングレコード専属の作曲家としてハーモニカを吹いて童謡や民謡の作曲をしていた。『童謠と唱歌』(加藤省吾主宰)同人となり作詩に励む。十八歳。

 <定方雄吉について>
 1905年6月1日生まれ。太田市由良六七七居住。筆名 大利根ひろし、高原秋彦、五条玉緒。元高等学校教諭。キングレコード専属作曲家。日本音楽著作権協会正会員。
 代表作品に、「ブランコ」(結城よしを作詞 文部省推薦キングレコード)、「竹屋の由兵衛」(林柳波作詞 キングレコード)など、童謡レコード三十五曲、歌謡・民謡レコード多数。校歌、園歌、団体歌三十四曲。観光歌十三曲。


  ・昭和九年(1934年)、徴兵検査を受ける。二十歳。
  ・昭和十年(1935年)、二十一歳の時、高等女学校に通っていた妹の千代が逝去。
  ・昭和十三年(1938年)、群馬県新田郡藪塚本町の醤油・味噌醸造会社に住み込み店員として働いている時、雑魚寝する大部屋の天井からぶら下がった電灯のコードを自分の寝床まで降ろし、布団の中で一冊のノートに「泣く子はたァれ」「ちりから峠」を書いた。書きためた詩は、大部屋の壁際に並べられた私物を入れる棚にしまい、何度も推敲してから同人誌に送った。二十四歳。
  ・昭和十四年(1939年)、定方雄吉の紹介で『童謠詩人』主宰の横堀眞太郎 恒子夫妻(佐波郡三郷(みさと)村(現・伊勢崎市)居住)と出会い、恒子から作詞の手ほどきを受ける。『童謠詩人』(横堀眞太郎主宰)同人となり作詩に励む。二十五歳。

 <『桑の実』(群馬童謠詩人会)について>
 青柳花明主宰の同人誌『桑の実』(群馬童謠詩人会)は、昭和六年(1931年)に創刊。推進役の青柳花明は、天台宗東寿寺(勢多郡粕川村 現・前橋市)の住職。子供会活動に力を入れ、地元の人から「良寛さん」と呼ばれるほど親しまれた。子供たちに沢山の童謡を教えた。野口雨情を寺に招いて講演してもらった事もある。自らも詩作に励み、『赤い鳥』や『おとぎの世界』などに投稿した。青柳花明の指導で『桑の実』から若い詩人が育った。横堀恒子もその一人。

 <『童謠詩人』について>
 昭和十四年(一九三九年)十一月、横堀眞太郎は、小学校教師のかたわら『桑の実』で育った夫人恒子と「童謠詩人社」をおこし、同人誌『童謠詩人』を創刊した。恒子が編集長。
 樺沢友佳・新井正三・青柳花明・加藤省吾・細川雄太郎・多胡純策・神保ちぎら等同人が競ってレコード童謡を発表した。昭和十八年(1943年)、戦争の激化に伴い、警察からの発行停止の要請により、同年十四号で廃刊した(群馬県教育文化事業団『ぐんまの童謡』による)。

  <横堀眞太郎について>1902年10月24日~1976年1月16日
 伊勢崎市波志江町一四五八居住。筆名 赤城ゆたか。元小学校校長。日本音楽著作権協会正会員。「童謠詩人社」をおこし、同人誌『童謠詩人』『童謠祭』を発行。『童謠作家』(野田しげみ主宰)、『童謠人生』(関沢欣三主宰)などの同人を経て、『CANARY』編集同人。
 代表作品に、「かぜひき子狐」(桑原哲郎作曲 キングレコード)、「鈴つけお馬」(赤城ゆたか作曲 キングレコード)などレコード作品三十篇。作曲も手がけている。校歌、園歌など三十五篇。創作総数千五百篇。

  <横堀恒子について>1907年5月20日~1972年2月12日
  埼玉県児玉郡に生まれ。本名 ツ子。子供の頃に渋沢栄一の生家で養育された。桐生高等女学校に在学当時から村の文学少女と呼ばれ、長じては武内俊子と並び称され、“女流詩人の双璧”と言われた。
  代表作品に、「花のほろ馬車」(赤城ゆたか作曲 キングレコード)、「だるま踊り」(橋爪芳男作曲 ビクターレコード)、「またあしたね」(海沼實作曲 コロムビアレコード)など生涯に二十八曲のレコード作品を残している。著書に、童謡集『木馬の夢』、句集『葦の芽』、民謡集『初島田』がある。
  『桑の実』(青柳花明主宰)同人。『童謠人生』(関沢欣三主宰)指導同人。『童謠詩人』『童謠祭』(横堀眞太郎主宰)編集同人を経て、『CANARY』指導同人。日本音楽著作権協会正会員。細川雄太郎より五歳年上。戦後は佐波郡三郷村の女性村会議員第一号として活躍した。


 <「泣く子はたァれ」を発表>
 童謡の研究『童謡と唱歌』第五巻 第二号 二月号 昭和十四年二月二十日発行(加藤省吾主宰 東京童謡倶楽部発行)に「泣く子はたァれ」を発表。 海沼實の目に留まり作曲された。「泣く子はたァれ」には、となりのユーチャンが登場する。「ユーチャン」は細川雄太郎の少年期のニックネームだった。

  <「ちりから峠」を発表>
 『童謡と唱歌』第五巻 第三号 四月号 昭和十四年四月十日発行(加藤省吾主宰 東京童謡倶楽部発行/三月号は休刊)に「ちりから峠」を発表。海沼實の目に留まり作曲された。

  <ラジオ放送について>
  ・昭和十四年、タイトル「泣く子はたあれ」が、JONK(NHK長野放送局)からラジオ放送される。月日、時間、番組名、歌手については当館所蔵(群馬県立土屋文明記念文学館)の資料では確認できませんでした。
  歌のタイトルについては、長野放送局が細川雄太郎宛に出した著作権使用料受領督促状(当館所蔵)にて確認(書状の日付は昭和15年1月30日で、 著作権使用料の初回振込日が1月31日と書いてあります)。放送年は、督促日から昭和14年であったことが推測されます(群馬県立土屋文明記念文学館/平成28年1月27日)。
  ・昭和十五年(1940年)二月十七日、土曜日。JOAK(NHK東京放送局)午前九時四十五分からの十五分番組『幼児の時間』でタイトル「泣く子はたアれ」がラジオ放送される。音羽幼稚園児、ピアノ伴奏海沼實。

 <読売新聞・朝日新聞番組表では> 9:45~10:00
  『幼兒の時間』童謠 音羽幼稚園兒[ピアノ伴奏]同園音樂教師海沼實
  ①齊唱 ひよこの兵隊 あの子とこの子 ②獨唱 *秋田幸子 *泣く子はだアれ 細川勇太郎作詞 海沼實作曲 ③齊唱 お山のお猿 スタコラサッサ ④獨唱 ○さん ⑤齊唱 早起き雀 兵隊さんの汽車
  (註)* 秋田幸子は、秋田喜美子の間違い。*朝日は、「泣く子はたアれ」と書いてある。兵隊さんの汽車も斉唱で歌われている。「汽車ぽっぽ」に記載あり。

  <レコード吹き込みについて>
  ・昭和十五年、「アノ子ハタアレ」と改題のうえキングレコードに吹込まれた。編曲は海沼實、伴奏はキング管絃楽団、歌手は秋田喜美子。レコード番号はキング51502-1-B(S-4348)。
 録音年月日1940年(昭和15年)9月3日。
 発売年月日1941年(昭和16年)2月15日(3月新譜)。
  以上は、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ、2004年発行)による。

 『童謠詩人』第五輯(昭和十五年十一月一日発行)の【レコード通信】には、“◎泣く子は誰(細川雄太郎詩海沼實曲)は「あの子はたアれ」と改題の上八月十四日キングレコードに吹込まる”と記述、【發表會通信】には“◎音羽ゆりかご會第六回發表會、 あの子はたアれ 細川雄太郎詩 佐藤敏子唄、またあしたネ 横堀恒子詩 孫福興子唄、作曲竝伴奏 海沼實、十月二十七日  於蠶糸會館”の記述がある。
 【編輯後記】には、“本輯には同人消息として關澤神田木村細川諸氏の歌謠作品のレコーディングを發表するつもりで居たがその紙面がなく、發賣になつた細川君のレコード廣告だけで許してもらつた。他の諸氏には申し譯ない次第である”と記述されているが、ここにレコード廣告と記述されている細川作品は「あの子はたアれ」ではなく、キング・レコード十月新譜「流行歌 思ひ出の戰線」(細川雄太郎作詩、定方雄吉作曲、細川潤一編曲、谷田信子唄)です。
 『童謠詩人』は群馬県佐渡郡三鄕村波志江一四五八の童謠詩人社発行、編輯発行人は同所の横掘恒子、主宰は横堀眞太郎。

  “作詞者の細川雄太郎に支払われたレコードの吹き込み料金は十円だった。当時、ビールが五十七銭で飲め、 新聞購読料が月一円二十銭だった”(夕住凛著『「あの子はたあれ」の童謡詩人 細川雄太郎』(サンライズ出版)による)。

 吹き込みの様子について秋田喜美子は次のように語っています(吹き込みの日付に関して、郡氏の9月3日と、『童謠詩人』第五輯の8月14日との違いがあるが、秋田は日付については語っていない)。
  “「吹き込んだのは、青柳小学校二年生の時でした。この日、いまは亡き母親が、髪にコテをかけてくれました。海沼実先生が口うつしで教えてくれた歌詞を一生懸命覚えたものです」と。・・・
  秋田さんは、文京区・護国寺前にあった菓子問屋のお嬢さんで、昭和十八年のキングレコードの抜粋目録の歌手紹介によると「いつも級長という優等生で、幼稚園時代から童謡をけいこし、現在山本雅之氏の主宰する『仲よし童謡音楽園』の明星として活躍する人気歌手」とあります。
 戦況の悪化とともに、秋田さん一家は父親の実家のある茨城県へ疎開し、県立水海道女子高を出たあと、四年間小学校の教員をしました。その後、父親が葛飾区で再開した菓子店を手伝い、離婚の経験もし、最近は、健康コンサルタントをしています。・・
 (1985年(昭和60年)1月9日 朝日新聞東京版第2東京「小さなかけ橋 あの子はたあれ(中)」より抜粋)。

  ・昭和十五年秋、満洲から大豆が入らなくなり、十月、岡崎商店を解雇される。
  “人気男だった細川が日野に帰ることになって寂しい”と横堀眞太郎は『童謠詩人』(昭和十五年十一月 第五輯)に記している。滋賀県蒲生郡日野町大窪一一七八の一に帰郷。二十六歳。
  ・昭和十六年(1941年)七月、召集。重砲兵として朝鮮海峡の麦島に赴任。二十七歳。
  ・昭和二十年(1945年)八月、釜山で玉音放送を聴く。十月帰国。日野町の実家に帰り、亜炭鉱山のトラック運送の仕事につく。三十一歳。
  ・昭和二十二年(1947年)、横堀眞太郎主宰『童謡祭』に同人として参加。地元日野の有志による文芸誌『炬火~TORCH』の編集を担当。 十一月、小林美津と結婚。「泣く子はたァれ」には、可愛いゝミーチャンが登場する。偶然にも小林美津は「ミーチャン」。ユーチャン(三十三歳)とミーチャン(二十八歳)のカップル誕生。

  <『童謡祭』について>
 昭和二十二年(1947年)、『童謠詩人』の旧同人の要望により横堀眞太郎は、『童謠祭』を創刊した。横堀恒子・清水基美・川上米子・神保ちぎら・五十嵐まさ路・細川雄太郎らが作品を発表したが、経済的な行き詰まりにより、昭和二十四年(1949年)四月第七号で終わった。

  ・昭和二十三年(1948年)、国営野洲川農業水利事務所に勤務(ダム工事後は、野洲川土地改良区に移管し、引き続き勤務)。三十四歳。
  ・昭和三十年(1955年)、日野町教育委員に就任。四年間務める。四十一歳。
  ・昭和三十四年(1959年)三月、「葉(は)もれ陽(び)詩謡社」を創立し、同人誌『葉もれ陽』を創刊。四十五歳。


  寸詩

   葉もれ陽によせて  細川雄太郎

 葉もれ陽のように ひっそりと
 そしてあたたかく 人々の心に
 夢とよろこびを 落して行こう

 ボクたちの ウタごころが
 期せずして ペンをささえた
 つゝましい グループ
 葉もれ陽の 前進

 太陽のめでるところ
 新しい陽のあたる広場え
 ウタの広場え
   進もう
 祈りとともに・・・・・・

=========


歌謠・童謠・
その他文芸誌
『葉もれ陽』第一巻第四号
(昭和三十四年
十二月二十五日発行
葉もれ陽グループ発行
 B5判)より

 細川の寸詩が寄稿されている最終頁の[後記]には、ガリ版刷りの苦労がしのばれる次のような記述があります。編集(E)という署名にて。

 “「葉もれ陽」第四号ずい分と遅くなって本当に申し訳ありません。編集は井上君と相談の上速くに一応すませてありましたので、母の死後何かと雑務や日々の暮らしに追われておりますため印刷の方を井上君に一任してやってもらう様にしてありました。会社づとめの身で彼はよく毎日鉄筆をにぎってくれました。原紙が切り終えてすってみますと、彼の労空しくぼーっとしか出ず失敗に終り残念がり、このことを井上君が大阪の詩友松村良子さんに便りの筆+[一字判読できず]の端にしておいたか、松村さんがそれなら私にやらせて下さいと云われ、私もお願いしようかと思ったがこれも結局だめ、とうとう最後に私がやらせて頂きましたがごらんの様なお粗末な出来で恐縮です。弁解じみましたが、とま右の様な訳で心配して下さった萩さんを始め諸氏にごめいわくをおかけした事を陳謝し大方の御寛容をお願いします。

◎毒にも薬にもならぬオンボロ誌のキャッチフレーズを頂だいしそうですが、今のところあっちたてればこっちが立たず式で編集子の胸中いささかノイローゼ気味で苦しいところですが、そのうちおいおい誌の中に一貫したものを出して行きたいです。三号誌ならず曲りなりにも四号目。がんばります(E)”

  ・昭和四十年(1965年)、母、かん、逝去。
  ・昭和五十年(1975年)、野洲川土地改良区を定年退職。六十一歳。
  ・平成四年(1992年)九月、同人誌『葉もれ陽』100号を発行。滋賀県文化賞を受賞。七十八歳。

←同人誌『葉もれ陽』100号の表紙(1992年9月)
  ・平成七年(1995年)三月十日、妻の美津、逝去。
  ・平成九年(1997年)十一月、地域文化功労者表彰(文部大臣表彰)を受ける。八十三歳。
  ・平成十一年(1999年)二月二十一日、急性循環器不全のため永眠。享年八十四。
  以上は、夕住凛著『「あの子はたあれ」の童謡詩人 細川雄太郎』(サンライズ出版)を参考にしてあります。

→夕住凛著『「あの子はたあれ」の童謡詩人 細川雄太郎』(サンライズ出版)2015年10月30日発行の表紙。

  【歌碑】
  ・昭和五十八年(1983年)七月、六十九歳。細川の住居に近い国道沿いに『あの子はたあれ』の歌碑が建ちました。作者自筆の歌詞が第二節まで刻まれています(滋賀県蒲生郡日野町木津 国道三〇七号線沿い)。刻まれているのが第二節までなのは、第三節と第四節が、大幅に改められたことが影響していると思われます。現在は、日野町町民会館わたむきホール虹の正面玄関右側に移転(2013年12月)。
  (註)綿向山(わたむきやま・標高一一一〇メートル)は、鈴鹿山系の一つ。

  ・昭和六十三年(1988年)十一月、七十四歳。群馬県の岡崎商店跡地(和食そば処やまて屋)に『童謡作家 細川雄太郎「あの子はたあれ」作詞の処』の記念碑が建立。建物は残っているがやまて屋は現在は廃業されたそうです(2016年2月,夕住凛氏より私信)。

  ・平成二年(1990年)六月三日、七十六歳。群馬県太田市藪塚本町『なつめの里公園』に、「あの子はたあれ」の歌碑が建立。除幕式に川田正子・孝子姉妹とともに出席。
 左の写真はその歌碑。なつめをイメージするために赤御影石を使用した(植木吉彦氏撮影。第12回企画展「少年少女詩・童謡誌展」リーフレットより)

  ・作曲者、海沼實の故郷の長野市篠ノ井の茶臼山自然植物園(恐竜公園)童謡の森内にもあります。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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ちんから峠

作詞 細川雄太郎
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2015/02/05)



▲海沼実(海沼實の孫)著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版、2003年)による

 【初出】
 童謠同人雑誌『童謠と唱歌』(加藤省吾 編集発行)昭和十四年(1939年)四月十日発行に発表された細川雄太郎の作品です。当初は「ちりから峠」という題名でした。この作品に目をとめた作曲者の海沼實は細川と協議し、「ちんから峠」に改題しました。

 【『童謠と唱歌』掲載の「ちりから峠」】
 群馬県立土屋文明記念文学館では『童謠と唱歌』第五巻第三号四月号(東京 童謠倶樂部発行)を所蔵しています。これは加藤省吾の手書き、謄写版刷り。
▲表紙 『童謠と唱歌』第五巻第三号四月号
(東京 童謠倶樂部、昭和十四年四月十日発行
▲目次からは、「ちりから峠 細川雄太郎」は
わからない。
「花売りお馬車・他三篇 加藤省吾」のページに「ちりから峠 細川雄太郎」「花売りお馬車 加藤省吾」
「家鴨の小母ちゃん 加藤省吾」「狸の学校 無名」が掲載されている。

   
▲「ちりから峠」細川雄太郎 タイトルは「ちりから峠」。「子供」「あそんでる」
「かへりに」とある。これが初出の表記。
▲「ちから峠」と「吹いてゆく」の書き込みがありますが、だれが
書き込んだのでしょうか。群馬県立土屋文明記念文学館に問い合わせました。
 「当該雑誌は、御寄贈いただいた資料で、受入時には確実に、すでに
この書き込みはありました。この書き込みがいつ誰によって成されたのかに
つきましては不明です」。 (文学館 学芸係からの回答 2015年2月16日)

▲編集後記  『童謠と唱歌』第五巻第三号四月号   東京 童謠倶樂部発行、
昭和十四年四月十日発行。編輯兼発行印刷人 加藤省吾 東京市渋谷区上智町八番地。

  『童謠と唱歌』編集後記より、「三月号は休刊」だった事がわかります。「去る日 細川君が上京遊に来られた」と書いてある。

  【『童謠と唱歌』蔵書】
  群馬県立土屋文明記念文学館では『童謠と唱歌』の蔵書が六冊ある。 4巻7号(昭和13年12月)5巻1~5号(昭和14年1月2月4月6月7月)
 【歌詞について】
 ・細川雄太郎が昭和十四年一月に作詞。自筆『創作手帳(創文 童謠集№2)』の「ちんから峠」の末尾に(昭和)十四・一月作であることが記されている。

△『創作手帳(創文 童謠集№2)』(細川隆司氏蔵)

 「ちんからホイ」は、原作では「ちりからしゃん」でした。
  海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)には、次のように書いてあります。
  “細川は、作品をより身近なものへと仕上げるために、他人の手が加わることに対して嫌悪感を感じるような堅物ではなかったことから、この作品の作曲に際しても、實はいくつかの改作を施している。
 まず、最初に實が気にしたのは、原作にあった「ちりからしゃん」という言葉である。大人であれば当たり前に使いそうな「鈴の音」を擬音化した言葉だが、日頃から幼児、児童を相手に歌唱指導を行っていた實には、この言葉が、子ども達にとっていかに困難な発音であるかを説明した上で「ちんからほい」と改作した。
 これに伴って、題名も「ちんから峠」と改題すると、さらに原作では全四節となっていた歌詞のうち、第三節を削除して、全体を三節までに改作しました”。
 第三節を削除した事は、海沼のセンスのよさがうかがえます。

 <一番>は、春風のそよ吹く頃、優しいお目々をして峠を越えて行くお馬の歌です。
 日野には峠がいくつもありますが「ちりから峠」という峠はありません。細川雄太郎の心の中の峠でしょう。細川雄太郎の故郷に近い鈴鹿峠に、伊勢と近江の国境の難所を往来する馬子が唄う「鈴鹿馬子唄」がある。
 川田孝子は「おんま」と歌いました。これは、当時の子どもたちが馬を指さして「おんまが通る!」と言った事からきているようです。童謡の歌い方として定着しています。
  「ちんからホイ」では、馬の歩みを表現した歌詞になりました。曲全体から峠を越えて行くのどかで楽しそうな馬の歩みを感じます。「ちんから」で弾みがつき、「ホイ」の合いの手が生き生きした歌にしています。「ちんからホイ」に改めて成功しました。

 <二番>は、今日はよいお日和、山の麓の子どもたちは、輪回しをして遊んでいます。
 馬の鈴の音を擬音化したものに、これによく似た故郷で遊んだ輪回しごっこの音も、二番に加えた。
 輪回しというのは、竹の先に付けた針金を使い、鉄の輪や自転車のリム(ゴムタイヤとスポークを取り除いた車輪)を走りながら回す遊びで、チリカラ、チリカラという音がする。
 「日和」はよく晴れた天気のことです。

 <三番>は、町からの帰りです。
  ・日本コロムビアレコードの川田孝子は次のように歌っています。
  「すず風そよ風 うれしいね」
  「小鳥もぴいちく 鳴いている
  (註)川田孝子の歌は『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ)で聴くことができます。
  しかし、海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)には次が正式な歌詞とされていると書いてあります。
  「春風そよ風 うれしいね」
  「小鳥もピーチク ないてます
  (註)上記の歌詞は、自筆の『創作手帳(創文 童謠集No.2)』で見ることができます。

  【曲について】
  ・変ロ長調、四分の二拍子、四つのフレーズで作られています。
  ・ヨナ抜き長音階(ファとシを使わない五音音階)で作られています。曲全体に日本風な感じが出ているので、歌いやすい。
  ・リズムは十六分音符やスキップなどがおりこまれていて、楽しい感じを表しています。

  【レコード吹込み】
 ・童謠誌『童謠詩人』第11輯(昭和17年(1942年)5月・横堀真太郎主宰)の【レコード通信】には、“ちんから峠(細川雄太郎詩 海沼實曲 渡邊佐和子唄)は三月二十日テイチクレコードに吹込まれた”という記述がある。発売月日は不明。
  (参考) テイチクレコード 吹込者: 渡邊佐和子
       昭和17年5月、「七夕まつり」(加藤省吾作詞/八洲秀章作曲)
       昭和20年2月、「忠靈塔の歌」(加藤省吾作詞/海沼實作曲)

  ・長田暁二編『日本抒情歌全集③』(ドレミ楽譜出版社)には、“昭和14年4月に作曲され、17年にテイチクから戸板茂子の歌でレコードが出た。”と書いてあります。『童謠詩人』か長田か、どちらかの吹込歌手情報が間違っているか、あるいは二人歌唱だったかと思われます。
  ★レコード発売月日も未確定。戸板茂子は、YouTubeに檀道子・戸板茂子「日本のわらべうた(第二輯)お月さまいくつ・子守唄」長津義司編曲・伴奏帝国管弦楽団、 テイチクレコードX5044(イ2077)や、渡邊佐和子・柴田秀子・ 戸板茂子・児童合唱「日本わらべうた(第二輯)夕焼け小焼け・かりかりわたれ・ねんねうた・かえろかえろ」テイチクレコードX5045がアップされています。 他には 渡邊佐和子・戸板茂子・テイチク国民合唱隊唄「欲しがりません勝つまでは」(山上武夫作詞、海沼實作曲、長津義司編曲、T3428(イ1739)もありました。「欲しがりません・・・」はCD「終戦70年 軍歌・戦時歌謡大全集」に収録されています。

       欲しがりません勝つまでは

  1.どんな短いえんぴつも どんな小さい紙きれも 無駄にしないで使います
   そうです僕たち私たち  欲しがりません勝つまでは
  2.靴や洋服あたらしく つくることより役にたつ 強いからだをつくります
   そうです銃後も戰地です 欲しがりません勝つまでは
  3.これは戰車に飛行機に これはお艦をつくるため  みんな揃って貯金です
   そうです心をひきしめて 欲しがりません勝つまでは
  4.北に南に次つぎと あがる日の丸かちどきに 負けず劣らず進みます
   そうです日本の子どもなら  欲しがりません勝つまでは


 平成二十七年(2015年)七月、細川の生家から細川自筆の「陣中日誌」が見つかった(『「あの子はたあれ」の童謡詩人 細川雄太郎』の著者夕住凛氏による)。この日誌には次のような記述があるという(夕住氏私信)。
   (韓国の麦島にて。昭和十七年)“三月二十一日 土曜 晴
   午後はその後 入浴してそれからは手紙書いて 後は山で雑誌を読み ハモニカを吹いて見た それきりで静かなものである
   (中略) 海沼氏からハガキで ちんから峠がテイチクに吹込と言って来た。又一つうれしいことが増えて来た様なものである。
   夜は安らかに眠ることが出来た。”

 当時のハガキの転送状況から推測すると、海沼の手紙の内容は「テイチクに吹込予定」という意味だったのでしょう。海沼は筆まめで他の人にも頻繁に手紙を書いている。

 加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)には、“これも海沼先生が現在歌われているように手を入れられて作曲し、「あの子はたぁれ」と同じテイチクレコードで吹込みしたように思う”と書いてあります。
  ●「あの子はたぁれ」は、テイチクレコードではなく、正しくはキングレコードで吹込み。加藤省吾の記憶違い。

  ・昭和二十三年(1948年)三月、川田孝子の歌唱で再吹込みされコロムビアレコードより発売。川田孝子の「ちんから峠」の歌唱は、『甦える童謡歌手大全集』や『史上最高の歌姫 いま甦るオリジナル原盤 童謡歌手 川田三姉妹』で聴く事ができます。
  ●長田暁二編『日本抒情歌全集③』(ドレミ楽譜出版社)には、“流行ったのはむしろ戦後で、23年に川田正子の歌でコロムビアがレコーディングしている。作曲者の海沼實は23年1月にコロムビアと専属契約を結んでいる”と書いてあります。“23年に川田正子の歌で”は間違い。少女歌手時代の川田正子は細川雄太郎の童謡をレコーディングしていない。大人になってから十六年ぶりに吹込んだ『思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘・川田正子』にも細川雄太郎の童謡は入っていない。

 <北島治夫氏のレコード情報>
  ・“23年に川田正子の歌で”は間違い。川田正子は昭和22年に歌手を引退している。
  ・昭和23年 川田孝子の歌唱で発売(コロムビア A404) 北島治夫氏所有。
  ・昭和26年 同レコード再発売(コロムビア C30)  C30のレコード・シール写真は夕住凛氏所蔵。
  ・その後、8インチ盤の短縮盤(コロムビア CP8)が出た。

 馬を見かけなくなると、この歌も歌われなくなりました。

▲ちんからとうげ/絵は武田将美。「童謡画集(3)」1960年11月25日刊、講談社ゴールド版


  【細川雄太郎の略歴

  【海沼實の略歴

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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お猿のかごや

作詞 山上武夫
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)



池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画

 【詩の誕生】
 昭和十三年九月、作詞者の山上武夫は東京の大森の姉の嫁ぎ先で居候生活をしていました。 『お猿のかごや』に小道具として使った「小田原提灯(ぢょうちん)」が縁となり、親しい関係にある小田原市から頼まれて書いた小文の中で、詩を書いたいきさつについて次のように述べています。
  「(前略)その日の東京の空は、美しいオレンジ色の夕焼であった。(姉の家の)すぐ裏に、子どもたちが勝手に出入して遊ぶことの出来た、近くのラジオ製作工場所有の広い空き地があったが、そこへげた履きで出た私は、草の中をそぞろ歩きながら、夕焼雲のかなたのふるさとを思っていた。 山国に生まれ育った私は、何よりも山が恋しかった。郷愁は常に、山を思うことから始まった。九月―、ふるさとの山々は、秋なのである。
  帰りたい。あの山へ登りたい。この足で、やわらかい落葉を踏みたい。・・・私の脳裏に、幼いころから親しんだ山道が、目の前の夕焼の色を映して、なつかしく浮かびあがった。(中略)
 ひらめきというものは、時も所も選ばない。突如飛び出して駆け過ぎるものだが、この時、猿が、かごが、夕焼け空をかすめて消えたのである。
 私はハッとして現実に戻った。あたりは暗くなりかけていた。急いで与えられていた三帖の部屋に飛び込み、原稿用紙に向かった。そしてどうやら三節目まではなめらかに書き進めたのだが、「起承転結」の<結>に当たる四節目でつかえた。かごの動きを止めずに、どうやってこの作品を結ぶかであった。行きつ戻りつ長い苦吟の時間が流れた。「ちらちらあかりは 見えるけど 向こうのお山は まだ遠い」このフレーズを書きあげたとき、あたりはしんと寝静まっていた。夜更けであった(後略)」 (註・信濃毎日新聞夕刊「来し方の記」抄録 昭和60年12月21日より抜粋。これは、『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)で見る事ができます。この文を面白おかしく書き直した出版物が多数あります。使う時には引用であることを明記してください。そうでないと、書き直されるたびに事実と違い、読者が混乱します)。

 【ゆかりの山道】
 こうして故郷長野県・松代町の東のはずれ奇妙山中腹の清滝という今は枯れてしまった滝に向かう山道を、「お猿のかごや」が往来したらおもしろいだろうという空想からできた詩です。(註・大雨が降ると清滝として復活するそうです)。山道に立つと盆地状になっている松代が一望できる。
 (註・毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)には、山道に立つ山上武夫の写真が掲載されています)。下記写真参照。

「清滝」は約40メートルの高さ。
昭和41年の松代群発地震によって
水脈に変化が生じたといわれる。
現在は、わずかな水しか落ちていないが、
奥山に大雨が降った翌日には滔々と水が流れ落ちる。

 ●箱根の山道を想像する人は多いようですが間違い。

 【小田原提灯の謎】
 「小田原提灯」とは、折り畳んで懐中に入れる事ができるので「懐中提灯」とも言われたものです。江戸時代、甚左ヱ門が作って売り出したのがはじまり。雨にあたっても壊れにくく、材料に大雄山最乗寺の霊木を使ってあるので魔よけになると宣伝され箱根の山越えをする旅人に重宝がられました。
 作家で『みかんの花咲く丘 川田正子 歌とその時代』(東京書籍)の著者でもある戀塚稔(恋塚稔)は、自ら編集委員を務める『森の木』十号(オフィース森の木)平成五年三月二十八日発行で、「舞台は信州・松代の山道である。そこになぜ「小田原提灯ぶら下げて(一番)」と、神奈川県小田原の提灯が出てくるのか」の疑問を解くために松代へ行き、山上の夫人・秋子に会っています。
 「山上家は祖父の代からの骨とう屋で、店の片隅に古ぼけた小田原提灯が置いてあり、その特異な形から、少年の頃山上の脳裡に焼きついていたのである」(『お猿のかごや』の秘密)より抜粋。
 戀塚稔の貴重な研究発表です。
 しかし、すでにその疑問は解けていました。毎日新聞学芸部編『歌をたずねて』(音楽之友社)昭和五十八年十月十日発行には、「山上家は祖父の代から骨董商を営んでいた」「家に小田原提燈があったことも思い浮かべていた」と書いてあります。
 かつて、“童謡の謎”や“童謡の秘密”という本が流行した時がありましたが、それは著者の"無知"にすぎません。

 【発表の経過】
 作詞者の山上は、作曲者の海沼と同郷(長野市松代町)で、後輩にあたります。山上は、作曲のレッスン用に海沼に作品を提供していました。昭和十三年九月、「お猿のかごや」の出来上がった詩をすぐ海沼に送りました。九月中に作曲され、海沼がレコード会社へ持ち込みました。
 詩は、山上の自作発表童謡誌『ゆずの木』昭和十三年十二月号に掲載しました。
 昭和十四年秋レコード化が実現し、ビクターからA面が「動物の大行進」でB面が「お猿のかごや」として発売されました。歌詞カードもA面はカラーだが、B面は地味な単色刷り。昭和十四年十二月に発売、昭和十五年正月新譜。
 レコード番号は、ビクターレコードZ-5036。歌手は尾村まさ子、大内至子、山崎百代、小林茂子。歌詞カードはカタカナと漢字書き。山道を狐を乗せたお猿のかごやが駆け抜ける挿絵入り。地味な単色刷り。タイトルは「オ猿ノカゴヤ」。


 このレコードの写真は、神津良子著『お猿のかごや 作詞家・山上武夫の生涯』(郷土出版社、平成十六年発行)で見る事ができます。
 しばらくすると「お猿のかごや」の名指しで全国のレコード店から注文が殺到し、在庫が一枚もなくなるという大ヒットになりました。昭和十五年には改めてA面曲として再発売されました。

 後日、山上は海沼とコンビを組んだ事について「二人とも同じ土地に生まれたことが大変よかった。それが、詩と曲がぴったり一致する作品を生み出したという気がする」と評価しています。

 【作曲時に歌詞を改訂】 
 長野市松代町の海沼の菩提寺・法泉寺の境内に歌碑があります(昭和六十三年五月建立)。海沼の自筆楽譜と一緒に、歌碑には珍しく原詩の一連が山上の直筆で記されています。
 ●「宝泉寺」と書いてある出版物は間違い。お寺の名前は「法泉寺」。

 <歌碑に刻まれた原詩の一連>
   エッサ ホイサ エッサ ホイサ
   お猿のかごやだ ホイサッサ
   日暮れの山道 ほそい道
   小田原提灯 ぶらさげて
   ヤットコ ドッコイ ホイサッサ
   ホイ ホイ ホイ ホイ ホイサッサ
                  山上武夫

  山上武夫夫人の秋子さんによると「飯山の小学校で講演した折りに、その記念に色紙にしたためたもの。昭和61年のこと」。山上武夫の後に落款がある。

 現在歌われている歌詞は、海沼が作曲上の都合で改作したものです。
 一番の一行目は、「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」という「籠かき」のかけ声そのものでしたが、海沼が作曲する時、「エッサ エッサ エッサホイサッサ」に改め、歯切れをよくしました。
 山上は反対でしたが、海沼は自分の意見を通しました。山上の言葉が残っています。
  「はじめのところですが、私はエッサホイサ、エッサホイサと書いたのですが、先生は平凡だからエッサ、エッサ、エッサホイサッサにしろとおっしゃる。どうしても気にくわないので考え直してくれと言っても絶対に変えてくれなかった。しかし、曲をつけてみるとこれでよかったんですね」(毎日新聞学芸部編『歌をたずねて』(音楽之友社)昭和五十八年十月十日発行による)。
  また、原詩には入っていなかった「ソレ」のかけ声を入れて、「ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ」と、いっそう力強く楽しくなりました。
 さらに最後の「ホイ」を一つ減らして、「ホイ ホイ ホイ ホイサッサ」と四つにしました。かけ声を改作したことにより、あかぬけたように思われます。
 はずんだリズムに乗って、おもしろく歌いましょう。

 【小田原提灯の歌い方】
 海沼實の自筆楽譜(昭和二十一年)は「オダハラヂャウチン」で、長野市松代町の歌碑の楽譜(昭和六十三年建立)も「おだわらぢょうちん」となっています。海沼は、二十四歳で東洋音楽学校に入学、バイオリンを専攻したが、楽器演奏は終生「上手くない」と言われたようですが、その楽譜は立派なものです(註・自筆楽譜(昭和二十一年)は、神津良子著『お猿のかごや』(郷土出版社)で見る事ができます。この本は山上武夫を知る貴重な資料です。神津良子の労作です)。
 戦後発売されたレコード、童謡歌手・大道真弓とゆりかご会は、「おだわらぢょうちん」と歌っています。 (レコード番号/コロムビア A347-A(M210138-2) 録音年月日/昭和二十二年八月二十六日 発売年月日/昭和二十三年三月(第十四回発売)。
 レコードについては、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による)。
 川田孝子は「おだわらちょうちん」と歌いました(日本コロムビア/甦える童謡歌手大全集)。
 それぞれ大ヒットを収め、『お猿のかごや』を不動のものにしました。

 【踊りの振り付け】
 この曲は、海沼實作曲『川田正子愛唱童謠振付集』第二輯(白眉社)昭和二十三年発行の表紙絵のテーマに使われています。賀来琢磨の振り付け。昭和の初めから舞踏家による童謡の踊り方が発表されました。踊りは学芸会に欠くことのできないものでした。

川田正子愛唱曲集


▲講談社の絵本『童謡画集(2)』1960年より 鈴木寿雄 画


 【山上武夫の略歴】
 作曲家・草川信(長野市県町)と、山上武夫、海沼實は、同じ長野県の生まれです。
  ・大正六年(1917年)二月八日、長野県埴科郡(現・長野市)松代町松代に生まれる。
  ・昭和九年(1934年)、十七歳の時、松代商業学校卒業。詩作を志して上京。
  ・昭和十一年(1936年)、日本放送協会(NHK)発行『子供のテキスト』の童謡募集に「つららの兵隊」「この道ほそ道」が相次いで入選。
  ・昭和十二年(1937年)五月二十二日、二十歳の時、入選作の一つ「この道ほそ道」が草川信の作曲でラジオ放送された。五月二十七日、草川信の家を訪問した時に海沼と初めて会う。海沼の勧め、草川の助言により童謡の道に専念する決意をした。
  ・昭和十三年(1938年)五月、童謠発表の雑誌として童謠誌『ゆずの木』(ゆずの木童謠社)の発行を始めた。創刊号(昭和十三年五月十五日発行)。
▲童謡誌『ゆずの木』第一号

  ・同年九月、「お猿のかごや」を作詞。海沼實が作曲。
  ・同年十二月、「お猿のかごや」を『ゆずの木』に発表。
  ・昭和十四年(1939年)、二十二歳、「お猿のかごや」ビクターでレコード化。
  ・昭和十五年(1940年)、正月新譜発売の「お猿のかごや」がヒット。
  ・その後も海沼とコンビを組んで『欲しがりません 勝つまでは』『見てござる』『農家の皆さん 今晩は』も作りヒットしています。
  ・松代で終戦を迎えた後、再び東京で仕事をしたいと思いましたが事情が許さず断念。故郷で書店を営みながら詩作を続けました。
  ・昭和四十四年(1969年)、海沼とのコンビの曲『うまれたきょうだい十一人』が、「第十一回日本レコード大賞童謡賞」受賞。
  ・昭和六十二年(1987年)十一月二日、七十歳で亡くなりました。


▲海沼 實
 【海沼實の略歴】
  ・明治四十二年(1909年)一月三十一日、長野県埴科郡(現・長野市)松代町松代に生まれる。
  ・昭和七年(1932年)、音楽家を志望し上京。
  ・昭和八年(1933年)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。同 年、護国寺幼稚園に「音羽ゆりかご会」を開設。「音羽ゆりかご会」の名前は、「音羽」という地名と、海沼が師と仰ぐ草川信作曲・北原白秋作詞の『揺籠のうた』によっている。これが会歌。
  ・昭和十一年(1936年)、東洋音楽学校卒業。
 (註 上京までのいきさつ、音楽学校入学、「音羽ゆりかご会」の開設などについては、藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)に、くわしく書かれています。)
  ・昭和十七年(1942年)、川田正子(八歳)、孝子(六歳)姉妹が「音羽ゆりかご会」に入会。
  ・昭和十八年(1943年)七月十日、「音羽ゆりかご会」は「第四回 東京兒童音樂競演會」で、一等(『やさしいお母さま』を歌った大道真弓)と二等一席(『兵隊さんの汽車』を歌った川田正子)を獲得しました。そして、少女歌手川田正子、孝子の姉妹らとNHK専属になり、「東京放送児童合唱団」が結成されました。
 ●川田正子が、「優勝」や「一位」と書いてある出版物は間違いです。
  ・川田正子、孝子、美智子三姉妹ほかの童謡歌手を育てる一方で、『みかんの花咲く丘』『お猿のかごや』『あの子はたあれ』など約三千曲を作曲し、活躍しました。
  ・私生活では協議離婚の末に、川田正子、孝子の母・須摩子と再婚。誕生した一人娘は、現在の音羽ゆりかご会代表の海沼美智子。美智子の息子が三代目海沼実です。海沼實の孫です。祖父(海沼實)の月命日に生まれたので、同じ名前を付けられたのだそうです。
 (華やかなステージとは裏腹に、家族関係は複雑なようです。書ききれない)。
  ・昭和四十六年(1971年)六月十三日、六十二歳で亡くなりました。


著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合≫


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見てござる

作詞 山上武夫
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2015/02/05)



 【詩ができるまで】
 敗戦の年、昭和二十年十月八日に山上武夫が書きました。そのいきさつは、次のようです。
  山上武夫が松代に帰郷中の事です。日本放送協会(NHK)から委嘱された「戦後の子どもの心を明るくする童謡」を書こうとしていた。「お国の夜明け」と題を決め書き始めた時、千曲川の増水を知らせる半鐘が鳴りだした。書き続ける気にならず、畳にひっくり返り、水嵩を増す千曲川の様子を思い浮かべていた。と突然、そのシーンはのどかな田園風景に変わる。稲穂やかかし、飛びまわる雀などが浮かんできた。千曲川べりの田園風景だと思えたが、長国寺のそばのお地蔵さんも瞼に映る。「見てござる」の題がひらめくと、後は一気に書き上げた。それを済ますと、中断した「お国の夜明け」に取りかかり完成させた。この二作の歌詞を海沼實が作曲するが、NHKでは「見てござる」を採用した。放送されるとたちまち大きな反響を呼んだ。レコードが発売されると全国に広まりました。

  【山上武夫と海沼實のコンビ】
  山上武夫と海沼實とは、「お猿のかごや」(昭和十四年)を初め、よくコンビを組んだ。「二人とも同じ土地に生まれた事が大変よかった。それが、詩と曲がぴったり一致する作品を生み出したという気がする」と山上は語っている。

  【海沼實との出会い】
 山上武夫と海沼實は松代を同郷としていたが、顔を見知っている程度で、付き合いはなかった。昭和十二年五月二十七日に偶然、草川信の家で出会って言葉を交わした。
 その数日前、山上がNHKに応募して入選した「この道ほそ道」を草川が作曲、その曲がラジオ放送された。これを聴いていた山上は、草川に会おうと思い立ち訪ねた。あいにく草川は留守だった。応接間で待っていると海沼實が「この道ほそ道」の楽譜を借りようと来た。草川の家からの帰り道、山上は、詩の道に進むか童謡の道か迷っていることを海沼に打ち明けた。海沼は「本腰を入れて童謡一筋に進むべきではないか」と言った。
 後日あらためて草川の家を訪ね、相談すると「詩も童謡も同じ一つの道」と答えた。そして「ポエムだけでは、生活を維持できない。安定した仕事を持ち、その傍ら作品を生み出すように」とすすめ、童謡の道を選ぶなら応援すると励ました。山上は、「童謡が労少なくして書けたという事は、それだけ自分の筆が童謡に向いているということだろう」と振り返り、童謡に専念する事を決意した。生涯に草川は山上の三十作品ほどを作曲している。
  〔参考文献〕神津良子著『作詞家・山上武夫の生涯 お猿のかごや』(郷土出版社)、『信州松代 童謡紀行』(風景社)。

  【歌詞について】
  ・「見てござる」は、「見ていらっしゃる」の古い言い方です。
  ・一番はお地蔵さん、二番はかかし、三番は山のからす、四番は月が、それぞれいろいろ見ているおもしろい歌です。起承転結になっています。
  ・「ホイ」とか「ソレ」のかけ声が、いっそう歌に生き生きとした感じを与えています。

  【歌詞の変更】
 作曲に際して歌詞を海沼實が改訂しました。改訂して成功しました。
   「村のはずれの お地蔵さん」→改訂後「村のはずれの お地蔵さん
   「見て 見て 見て 見てござる」→「見てござる ソレ 見てござる」
   「たんぼ たなかの かかしどん」→「たんぼ たなかの かかしどん
   「山の からすの 勘三郎」→「山の からすの かんざぶろう
   「夜は お空の お月さん」→「夜は お空の お月さん

  【お地蔵さんは、あった】
 お地蔵さんが歌い込まれた珍しい童謡です。お地蔵さんは子どもたちの遊びを見守ってくれています。
  長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には次のように書いてあります。
 “作詞の山上武夫と作曲者の海沼實は同郷で、長野県埴科(はにしな)郡松代(まつしろ)町(現・長野市)の出身です。その山村に思いを走らせつつ、作ったのでしょう。詩に出て来るお地蔵さんは、松代の松代藩主真田家の菩提寺、長国寺にありましたが、今はもうなくなってしまいました。”
  詞と曲譜を刻んだ歌碑が、松代の梅翁院に建てられています。

▲真田家の菩提寺  長国寺 ▲歌碑 長野市松代 梅翁院

  【初出】
 昭和二十年(1945年)十月、海沼實が作曲しました。十月十日の夜八時から戦災で元気をなくした子どもたちを励ますメッセージソングとしてラジオ(JOAK)で初放送されました。その後、繰り返し放送されました。
  川田正子と音羽ゆりかご会が最も得意にしていた曲です。今聴いてみると、よくこれほどうまく歌えたのかと不思議に思うほど素晴らしい。リズムカルで、しかも音程がしっかりしている。なにより楽しそうに歌っているのがいい。

  【曲について】
  歌い出しの八分休符に特長があります。軽快なリズム、日本風な旋律で作られています。

  【レコード童謡】
 郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると次のようです。
  “一九四七年(昭和二十二年)にはキングとコロムビアの二社から前後してレコードが発売されるほどの人気でした。
  ・初出レコード=歌手 川田正子/編曲 海沼實/伴奏 キング管絃楽団
   レコード番号 C221-A(6568)
   録音年月日 1946年(昭和21年)11月27日
   発売年月日 1947年(昭和22年)6月発売。
  (註)録音と発売の年月日を混同している出版物が多い。

  ・続いて昭和二十二年九月には妹の川田孝子が歌うコロムビア盤が発売されました。別会社から姉妹が歌う同一曲のレコードが同時期に市場に並ぶとの珍しい現象が生じました”。

  【反響】
 CD『史上最高の歌姫 童謡歌手 川田三姉妹』解説 海沼実には次のように書いてあります。
  “終戦直後に大人気を博した同作品は、同時期に始まったJOAK『のど自慢素人演芸会』でも選曲が殺到。みんなが「見てござる」を歌いたがり、番組担当者を困らせた。実際、放送中に「“見てござる”以外も選曲するように」と異例の呼びかけがあったほど”。
 人気の曲だった事がうかがえます。

  【今では】
  今ではテレビの『NHKのど自慢』で「見てござる」を歌う人はいません。「歌は世につれ世は歌につれ」と言われるように時代の流れでしょう。
 「ござる」「かかしどん」「来はせぬか」「いからし」「どこじゃいな」など古い言葉を多用していることも歌われなくなった要因の一つでしょう。
 歌詞にある石けり なわとび かくれんぼなど元気に外遊びをする子どもがいなくなり、田んぼに「かかし」が見あたらなくなると次第に歌われなくなりました。平成になると、だれも歌わなくなりました。若い人は全く知りません。

  【二人のその後】
 海沼實と山上武夫のコンビは、ラジオ番組のテーマ曲「農家のみなさん今晩は」も作っている。この時期は、ラジオが人々の生活の中に占める割合が大変大きかった。
 海沼は、その後も音羽ゆりかご会を拠点に活動を進めた。昭和三十九年(1964年)の「ワン・ツウ・スリー・ゴー」で第六回日本レコード大賞童謡賞を受賞した。五年後の昭和四十四年(1969年)には山上作詞の「うまれたきょうだい11人」でも第十一回日本レコード大賞童謡賞を受賞した。
  山上は、地元へ戻り書店を経営しながら作詞活動を続けた。昭和四十八年(1973年)の作品「タンブリンのわ」(岩河三郎作曲)が教科書に載った。海沼は昭和四十六年(一九七一年)、山上は昭和六十二年に亡くなった。

  【山上武夫の略歴

  【海沼實の略歴


            ▲「みて ござる」鈴木寿雄・絵 「講談社の絵本ゴールド版 童謡画集」2 昭和35年 講談社


著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合≫


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里の秋

作詞 斎藤信夫
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【詩「星月夜」を作る】
 斎藤信夫は、明治四十四年三月三日、千葉県山武郡南郷村(現・山武市)五木田で生まれました。南郷小学校、成東中学校を卒業、 一年間の代用教員を経て、昭和六年三月、千葉県師範学校(現・千葉大学教育学部)本科第二部を卒業。 小学校教員(十六年間)のかたわら、毎日一つ童謡を作り続けていました(この間に昭和十二年三月、千葉県師範学校専攻科を卒業)。
 それは、同様に教職にあって詩人でレコードも出していた市原三郎と親しくなり、影響を受け たのがきっかけでした。船橋市の葛飾国民学校の訓導をしていた時、 昭和十六年十二月八日、真珠湾爆撃がありました。その日から連日、戦争童謡を作りましたが、なかなか心に触れるものは生まれなくて苦悩していました。
 (註)昭和十六年四月一日に尋常高等小学校から葛飾国民学校に改称。

 ところが、昭和十六年十二月二十一日の夜、ふと閃きました。それは、次のようだったと斎藤信夫は書いています。
  「そうだ、慰問文形式がいい。場所は東北地方の片田舎。親子三人の平和な家庭に召集令状が来て、父は今戦地。ほだ火の燃えるいろり端では、小学四年か五年の男の子が、鉛筆をなめなめ、戦地の父への慰問文を書いている。
 一節二節は、家庭の現況。三節で父親の武運長久を祈り、四節で僕の決意を述べ終わった時、はじめて頬につめたいものの流れているのに気づく。私は、男の子になりきっていたのである。 タイトルが後になったが、満天の星が月夜のように明るかったので、「星月夜」とし・・・」(斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)平成八年三月発行より抜粋)。
 できた「星月夜」は、後の「里の秋」と一番と二番は同じでしたが、三番と四番は、お父さんが戦地へ行っている、銃後の僕たちも頑張らなくては、という<少国民向けの戦意昂揚の詩>で、次のようでした(作品番号3229)。

   三 きれいな きれいな 椰子の島   
      しっかり 護って くださいと   
      あゝ 父さんの ご武運を
       今夜も ひとりで 祈ります

   四 大きく 大きく なったなら
      兵隊さんだよ うれしいな
      ねえ 母さんよ 僕だって
      必ず お国を 護ります

  この詩は斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)74ページで見ることができます。 また、自筆原稿は『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会)で見ることができます。

 【「星月夜」のその後】
  「星月夜」は、それからどうなったのでしょう。
 斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)によると、「他の作品と合わせて十篇ぐらいを印刷して、急いで作曲家に送ったが、戦争は年毎に激しくなり、作品のことなど頭になかった」とあり、「作曲家」とは誰のことか記してありません。
 昭和十六年以前に、斎藤の童謡に曲を付けているのは、平岡均之、桑原哲郎、藤井弘也、山本雅之、山本芳樹、中山直治、山口保治、海沼實、草川信といった人たちです。
 また、恋塚稔著『みかんの花咲く丘 川田正子ー歌とその時代』(東京書籍刊)によると、「彼はひとり職員室に残って、ガリを切った。そして彼の作詞した他の二、三の作品とともに、レコード会社や音楽雑誌の出版社などに送った。数年前に会ったことのある新進作曲家・海沼実のところにも送っておいた」とあります。「音楽雑誌の出版社」というのが気になります。

 ●さらに、あるインターネットの「里の秋」のページには次のように書いてありました。
 「海沼が何か適当な詞はないものかと、古い童謡雑誌をひっくり返して調べているうちに斎藤信夫の「星月夜」に目がとまったのである」
 「応接間で斎藤が緊張して待っていると、海沼はニコニコしながら現れた。手には何やら雑誌を持っている。そして、その雑誌をペラペラめくりながら意外なことを言い出した。それは斎藤が以前書いた詩を書き直して欲しいという話であった。雑誌のページに載っていたのは彼が昭和16年に発表した「星月夜」だった」。
 ・・・何度も「雑誌」という言葉があります。「星月夜」は、なにかの「雑誌」に発表されたのでしょうか。
 そこで、加藤省吾夫人の加藤なつさんに手紙を出し、雑誌『童謡と唱歌』に「星月夜」が掲載されているかどうかを調べていただきました。
 加藤省吾の娘の美知子さんからは、「手元にある(加藤省吾が編集していた同人雑誌)『童謡と唱歌』の中には「星月夜」という作品はありませんでした。斎藤信夫氏は昭和十九年九月一日発行の第四巻第六号より同人として御賛同下さっております(加藤なつ代理)」と教えていただきました(2004年1月5日FAX受信)。
 昭和十六年には、斎藤信夫はまだ『童謡と唱歌』の同人ではありませんでした。
 私はとてもガッカリしました。加藤なつさんと加藤美知子さんにも、手間をおかけして申し訳ないことをしてしまいました。
 このインターネットの「里の秋」の記事は、物語風に書いた創作であると認識しました。以後、物語風な文章には注意するようになりました。

 【「星月夜」は海沼實の手にあった】 
 斎藤信夫は、雑誌『遊戯と唱歌』の終わりの方のページに新人作曲家の投稿欄があり、海沼實の作品がよく掲載されているのを見ました。
 (註)『遊戯と唱歌』は学校遊戯研究会編で大正書院発行、大正十五年六月創刊。
 そのころの海沼は東京・小石川区(都になる直前。現・文京区)の護国寺の音羽幼稚園で歌を教えていました。海沼の作品に将来性を感じた斎藤は、書店で住所を調べてもらい海沼を訪ねました。それ以後、新しい詩ができるたびに、それを海沼に送り続けました。

 【「星月夜」を作曲しなかった理由】  
 「星月夜」を受け取った海沼は、曲をつけませんでした。
 前線にいる兵士達の士気をそぐような感傷的な歌は、次々に発売禁止という厳しい処分を受けていたからです。

 【「里の秋」に改作・改題】 
 やがて戦争が終わります。
 『星月夜』ができて四年後、海沼實から「スグオイデコフ カイヌマ」という至急電報が成東の実家にいた斎藤のもとに届きました。何事かとすぐ列車に飛び乗って、南佐久間町(現・西新橋)の川田家に寄寓していた作曲家・海沼實を訪ねました。これが二回目の顔合わせでした。
 海沼には、JOAK(現・NHK)から川田正子と東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会)の出演依頼が来ていました。それは、昭和二十年(1945年)十二月二十四日、午後一時四十五分からの「外地引揚同胞激励の午後」という特別ラジオ番組で、引揚援護局の人の挨拶の後、漫才、続いて「かわいい魚屋さん」「めえめえ子山羊」などの歌を歌う他、引揚援護局の人の挨拶の後、川田正子が歌う新曲を一曲「兵士を迎える歌」を作るというもので した。局では、詩のほうも任せるということでした。
 雑誌『森の木』十号(森の木編集部)平成五年三月二十八日発行には、「昭和二十年の十二月になって、海沼実先生が行李の中からガリ版ずりのこの詞をみつけ、少しことばをかえてこの詞を使おうと考えたのです」と書いてあります。
 斎藤は、海沼から次のように言われました。「新曲は、あなたの『星月夜』 で、いきたいんです。4番は捨てていい。3番だけ帰国する兵隊さんを迎える詩に作り替えてください。曲は、1番2番があるから、それによって私が作ります。 たった一回の放送だから、適当にまとめてくれればいいんです」。
 放送までに一週間ちょっとしかなく、斎藤は成東の自宅に帰っていろいろ考えました。・・・三番は南方の戦地から輸送船で引き揚げて来る父の安否を気づかう母と子の心情の<引揚者慰問の歌>の内容にしました。三番の終わりを「いのります」として詩が完成したのは放送当日のことでした。
 自筆のこの詩は、『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会)で見る事ができます。歌詞の最初は「静かな しずかな 里の秋」で、タイトルは、 まだ『星月夜』になっています。
 タイトルはリハーサルと本番との休憩時に、海沼が「斎藤さん『星月夜』では童謡のタイトルとしては硬いと思うんです。ほら、一番の一行目に「里の秋」とありますね。いっそ曲名を『里の秋』にしちゃいませんか」と言って改題しまし た。
 この歌は、当時小学五年生の川田正子が歌いました。

 【川田正子が歌う】 
 川田正子としては、海沼實、斎藤信夫コンビによるはじめての曲でした。
 正子によると、「練習はいつもと同じ口移しでした。先生が、私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています」(川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)2001年10月発行による)。
 (註)口移し=ワンフレーズずつ海沼が歌って教える。

 放送では、川田正子と東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会)が、「可愛い魚屋さん」「めえめえ子山羊」「肩たたき」「チンチン電車」、これに新曲を一曲「兵士を迎える歌」ということで「里の秋」を歌いました。

 【昭和20年12月24日に歌う】 
 NHK特別番組「外地引揚同胞激励の午後」は、南方からの復員兵を乗せた船が入る浦賀港(神奈川県・横須賀)から中継する予定でしたが、回線の故障で東京・内幸町のスタジオから放送になりました。
 (註)浦賀港への引揚第一船入港は氷川丸の昭和二十年十月七日で、以降十二月十五日までほぼ毎日一隻の割合で入港している。十月七日の氷川丸入港は写真入りで新聞に掲載されている。

 この日は、今ではクリスマス・イブですが、当時は敗戦の四ヶ月後、東京は焼け野原で、その日の食べ物を確保するのが精一杯、心のゆとりなどない時代でした。
 この催し一回だけの歌の予定でしたが、歌が放送されるや全国から、番組の合間でもよいから、これからも流して欲しいと言う電話や葉書が殺到しました。歌った川田正子の家宛にも、それこそ山のように全国から手紙が届いたそうです。報道番組はともかくとして、一つの歌に対してこのような反響があったのは、開局以来のできごとでした。
 以後、ラジオは「復員だより」という番組で、ひきつづき『里の秋』を放送し、全国的な大ヒットとなりました。

 【新聞の番組表の調査】 
 川田正子によると次のようです。
 “終戦から四月が立った年の暮れ、NHKでは外地から復員してくる将兵のために特別番組「外地引揚同胞激励の午后」を企画していました。放送は十二月二十四日の午後一時四十五分から。この特別番組のために海沼先生が作曲したのが「里の秋」です。”
  (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局75ページより)

 <読売新聞ラジオ番組表>
 昭和二十年十二月二十四日は月曜日。
  1:45~4:00「外地引揚同胞激励の午後」浦賀市中継。
  ①挨拶 池田○○ ②漫才 泣笑ひ交響曲―大空ヒット・玉松一郎 ③童謠 川田正子 ④歌と軽音樂 福本泰子 松本新室内樂團 となっている。1:00~1:45がレコード・コンサート。浦賀市(横須賀市浦賀の間違い)中継の予定が変更になった。
  <毎日新聞ラジオ番組表>
  神奈川縣浦賀より中継 となっている。
  <朝日新聞大阪版>
  ①挨拶 松田○二郎 ③童謠 「可愛い魚屋さん」ほか 東京放送兒童合唱團 となっている。

 【ヒットに必要だった三番の歌詞】 
 「歌は世に連れ」と言いますが、改作した三番を、敗戦という時代が必要としていたのです。この時、この歌に三番がなかったら大ヒット曲にはなっていなかったでしょう。番組が終了すると斎藤の所にも多数の手紙が届きました。

 【教育者・斎藤信夫の考え】 
 斎藤信夫に届いた手紙の内容は、あとから加筆した三番についてで、大体二つに大別できました。

▲斎藤信夫

 帰ってくるという希望をわずかにも心に持つ、出征兵士を戦地に出した家庭からは「この曲のおかげで、どんなにか力づけられた」という感謝の内容のものと、すでに戦死を知らされた家族には、深い失望を与えたようでした。 斎藤信夫は、次のように言っています。
 「自分としても、三番はなくてもよかったと思っている。歌自体はともかく『里の秋』のような歌で喜ぶ人が沢山いる世の中は余り迎えたくないからである」。
 斎藤の教育者としての姿勢がうかがえる重要な言葉です。この斎藤の考えを取り上げる童謡の研究者はほとんどいません。
 斎藤は、終戦の翌年三月、「私は私なりに敗戦の責任をとる」と教職を退きました。
 日本が行った侵略戦争で戦地となった南方の人々がどれほど犠牲になったか計り知れません。日本に残された家族の心配も大変なものでした。誰もがいつも死を覚悟した時代でした。この歌は、身内の誰かを戦場に送り出している日本の全ての家族に、自分たちを歌った歌だと映り共感を得たのです。大ヒットの陰にこのような事実があったので、斎藤は素直に喜べなかったのでしょう。

 ●「ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』を一部参考にしました」という 次のような文章を発見しました。「今歌われている童謡は2番までですが、実は3番がありました。」これは、間違いです。今でも一般の童謡を歌う会などでは三番まで歌われています。

 【レコードの吹き込み】 
 ラジオから歌がヒットしたので、レコードも作られました。
 レコード番号コロムビアA349-A(M210206-2)/録音年月日1947年(昭和22年11月28日)/発売年月日1948年(昭和23年)3月(第14回発売)。
 以上は、郡修彦著CD『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による。
 ★斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)の斎藤が書いた解説には、「21年9月21日コロムビアレコード吹き込み(川田正子歌)」と書いてあります。未確認。

 【斎藤信夫のその後】 
 退職していた斎藤は、戦後は中学校の教員として教壇に復帰しました。二十年間、中学校に勤務し、昭和四十二年三月定年退職。
 また、月刊童謡研究誌「花馬車」や幼児童謡研究誌「三輪車」を編集発行し、同人と共に研鑽を積み童謡の普及に力をそそぎました。
 童謡の創作は昭和七年以来五十五年、書いた詩は全部で一万一千百二十七篇。B五判の大学ノート六十五冊に、通し番号がついていて、『星月夜』は三二二九。『里の秋』は三五三〇。最後の作品の後にも、一一一三六までナンバーが振ってあり、書き続けるつもりだったようです。作詩に対する意欲と、繊細で几帳面な人柄がうかがえます。
 海沼とのコンビで作った『蛙の笛』『夢のお馬車』『夢のお橇』『ばあや訪ねて』『母さんたずねて』などがヒットして有名になりました。
 昭和六十二年九月二十日、千葉市内の病院で亡くなりました。享年七十六歳でした。

 【秋を歌った日本の代表歌】 
 今や、日本の秋を歌った代表的な曲です。この歌のように静かに暮れる里の秋は、昔はどこにでもありました。
 一番の歌詞の「お背戸に 木の実の 落ちる夜は」は、斎藤家の屋敷林の中に、シイの木があり、その実がトタンのひさしをたたく音からできました。木の実の落ちる音さえ聞こえる静かな里の秋の夜です。
 「背戸」は、農家の母屋の裏口、裏門のことです。昔は裏に井戸や流しがあり、野菜や手足の泥を洗っていました。
 二番には、夜鴨の鳴く声が響く満天の星空があります。そこで父のいない母と二人だけでの暮らしは、寂しいものです。でも、秋は「栗の実」の季節です。いろりばたで煮て、食べながら父のことを話します。それは、きっと楽しいひとときでしょう。栗の実を煮る音や匂いまで伝わってくるようです。現在では、「いろりばた」はすでになくなってしまいました。同時に親子が語らった楽しい団らんも消えつつあります。
 歌詞の三番は、椰子の島を後に、復員船で帰ってくる父の無事を祈り待ちわびるという情景を歌ったものです。一、二番までは、父の帰りを母と子が待ちながら静かに暮らしているようすを描いたと思っていた人は、突然出てくる「椰子の島」の歌詞に驚くようです。さらに、軍務にあった父の無事を祈るのですから、不思議に思うのです。
 前に書いたように、この歌には、戦時下にできた『星月夜』という原作があり、三番はそれを改作したものです。そのことは、あまり知られていません。この美しい童謡『里の秋』には、戦中から戦後にかけての波乱に満ちた時代が隠されています。改作をした作詞者の斎藤信夫は、後日「三番はなくても良かった」と言っています。一番、二番だけでも、<のどかな秋の農村の歌>として十分通用するからです。 歌う時には、二番と三番の間に間奏を入れるのが良いと思います。

 【もう一つ作った「里の秋」】 
 斎藤は自分の考えにしたがって、昭和二十六年一月十七日に『里の秋』の三番を削除し、一番と二番の歌詞を引き伸ばし、三番まである別の『里の秋』の歌詞を作りました(作品番号4366)。
 平和になった昭和の普通の家庭の父の帰りを待つ母と子の様子になっています。しかし、この歌詞で歌う事はありません。作品4366は、【教育者・斎藤信夫の考え】が作らせたものです。作品4366「里の秋」は次のようです。

     里の秋

  しずかな しずかな 里の秋
  父さん 帰りの 遅い夜は
  ああ 母さんと ただふたり
  栗の実 煮てます 囲炉裏ばた

  明るい 明るい 星の空
  鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は
  ああ 父さんの 靴の音
  覗いて 待ちます 硝子窓

  しずかな しずかな 里の秋
  お背戸に 木の実の 落ちる夜は
  ああ 父さんよ まだかしら
  何度も 母さんと 覗きます

 【愛唱されて沢山の歌碑】 
 歌碑は、斎藤を記念して成東城跡公園、母校の成東町立南郷小学校(現・山武市立南郷小学校)、千葉市若葉区の野呂パーキングエリア「文学の森」にもあります。
 また、作曲をした海沼實の故郷・長野県長野市松代町のつつみ公園、歌を歌った川田正子の実家があった千葉県いすみ市岬町岩熊、そして兵庫県たつの市の白鷺山の「童謡の小径」内には全国から募集した「あなたの好きな童謡」ベスト八の中の一曲として歌碑があります。みんなに愛唱されていることがわかります。
 千葉県成東城跡公園の自筆の歌碑(昭和五十七年十一月建立)は「静かな しずかな 里の秋」となっています。

 【斎藤信夫の略歴
  ・明治四十四年(1911年)三月三日、千葉県山武郡南郷村(現・山武市)五木田に生まれる。
  ・昭和四年五月十七日、山武郡大総尋常高等小学校代用教員。
  ・昭和五年三月三十一日、山武郡大総尋常高等小学校訓導。
  ・昭和五年三月三十一日、一年間休職して千葉県師範学校(現・千葉大学教育学部)本科第二部に入学。昭和六年三月、卒業。
  ・昭和六年三月三十日、山武郡緑海尋常高等小学校訓導。
  ・昭和七年三月三十一日、千葉市院内尋常小学校訓導。
  ・昭和九年三月三十日、千葉郡二宮尋常高等小学校訓導。
  ・昭和十年三月三十一日、山武郡源尋常高等小学校訓導。
  ・昭和十一年三月三十一日、二十五歳の時に一年間休職して千葉県師範学校専攻科(現・千葉大学教育学部)入学。昭和十二年三月、卒業。
  ・昭和十二年三月三十一日、山武郡豊成尋常高等小学校訓導。
  ・昭和十五年三月三十一日より終戦の年まで、葛飾尋常高等小学校訓導(現・船橋市)。
  教職のかたわら独学で詩作に取り組みながら教材雑誌に投稿を続けるうち、雑誌で作曲家・海沼實の存在を知り、海沼とは面談をしたのちに手紙を交わした。
  ・昭和二十年六月十五日、応召。
  ・昭和二十年八月十八日、召集解除。葛飾国民学校復帰。
  ・昭和二十一年三月三十一日、山武郡南郷村国民学校訓導。
  ・昭和二十一年三月三十一日、退職。“終戦の翌年三月、私は私なりに敗戦の責任をとる意味で教職を退いた”(童謡詩集『里の秋』の解説による)。小学校訓導十六年間勤務(代用教員期間を除く)。
  ・昭和二十二年四月三十日、市川市立第四中学校の教壇に復職する。
  ・昭和二十三年三月三十一日、山武郡大平村立大平中学校教諭。
  ・昭和二十四年五月三十一日、山武郡大平村立大平中学校教頭。
  ・昭和二十八年四月一日、成東町大富村組合立平野丘中学校教諭。
  ・昭和二十九年十月一日、町村合併にて成東町立成東中学校教諭と改称。
  ・昭和三十八年四月一日、山武郡成東町立東中学校教諭。
  ・昭和四十二年三月三十一日、退職(五十五歳)。中学校教諭二十年間勤務。
  ふたたび教職についたあとも作詞と詩の研究を続け、童謡の研究会を主宰して昭和二十九年(1954年)三月三日に月刊童謡研究誌『花馬車』を、昭和三十年(1955年)二月一日に幼児童謡研究誌『三輪車』を創刊する。『三輪車』は定年退職した昭和四十二年(1967年)に、また『花馬車』は昭和六十一年(1986年)にそれぞれ終刊。『花馬車』は三十二年間に381号を発行。『三輪車』は140号を発行。
  童謡の創作は昭和七年以来五十五年、作品は昭和六十一年には一万一千百二十七篇を数える。曲がついた「里の秋」「蛙の笛」「夢のお馬車」「夢のおそり」「母さんたずねて」「ばあや訪ねて」などが大ヒット。昭和六十一年三月三日、「里の秋」誕生四十周年を記念して童謡詩集『里の秋』を出版。
  著書に『童謡の作り方』(昭和二十三年十一月十八日発行)、『愛唱童謡劇作集』上下巻(昭和二十四年十二月十五日発行 ペンネーム葉山春夫)、『中学生のオペラ』(昭和二十七年三月一日発行 ペンネーム葉山春夫)、『こどもオペラ』第一集(昭和二十七年十二月二十日発行 ペンネーム葉山春夫)、第二集(昭和二十八年二月一日発行 ペンネーム葉山春夫)、童謡集『青空を見つめて』(昭和四十九年十二月二十日発行)など。
  ・昭和六十二年(1987年)九月二十日逝去。享年七十六。
  (参考)童謡詩人『斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会発行)。    童謡詩集『子ども心を友として』(成東町教育委員会発行)。


著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合≫


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蛙の笛

作詞 斎藤信夫
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 童謡「蛙の笛」は、夏の夜の蛙の大合唱と思っている人が多いようですが、一 匹の蛙との出会いから生まれました。

 【作詞当時の斎藤信夫は】 
 昭和十二年三月、千葉県師範学校専攻科(現・千葉大学教育学部)を卒業し、小学校教員のかたわら、毎日一つ童謡を作り続けていました。それは、同様に教職にあって詩人でレコードも出していた市原三郎と親しくなり、影響を受けたのがきっかけでした。・・・そして終戦の翌年三月、敗戦の責任をとる意味で教職を退きました。
 川田正子によると、“戦時中は、生徒たちを前に「日本は必ず勝つ。君たちもお国のために尽くして欲しい」などと言ったこともあるそうです。斎藤先生はこのことをとても悔いていて、終戦後、教師を辞めました。「自分には教師としての責任がある。自分は罪深い人間だった」と思い詰めて語るような人でした”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)。

 早速、次の日から職探しをしましたが、世は就職難時代で、仕事はなかなか見つかり ませんでした。

 【「蛙の笛」の誕生】 
 “昭和二十一年(1946年)四月十二日の夜ふけ、明日 はどこへ出かけようと、疲れ果てて横になった寝床へ―コロコロ コロコロコロ と、冬眠から目がさめたばかりの蛙のかわいい声が聞こえてきた。
 それが、悶々としてやるせない胸には―ガンバレヨ ガンバレヨ―と聞きとれるではないか。そうだ、蛙の言う通りだ。万物の霊長たる人間が、これしきの事 で、何たるざまだ、よし頑張ろう、ついては、優しく励ましてくれた蛙たちに、思い切り早春の夜の美しい歌をプレゼントしようとして書いたのが、この作品「蛙の笛」(作品番号 3561)である。”(斎藤信夫『童謡詩集 子ども心を友として』 (成東町教育委員会)より抜粋)。

 できた詩を、斎藤信夫はすぐに海沼實に渡しました。すでにコンビで作った 「里の秋」が大ヒットしていました。海沼實が作曲をしました。

 失業中だった斎藤は、作詩のかたわら、童謡歌手になって忙しくて学校になか なか行けない川田正子の家庭教師の役を引き受けることになりました。海沼・川 田・斎藤との交流が、童謡界・レコード会社専属の道へと開けていく時期でし た。
 川田正子によると、“1946(昭和二十一)年に学校が始まるまでの数ヶ月、海沼 先生と母は、私の勉強をみてくれるように斎藤先生に頼みました。穏やかで、分 からない所は何回でも丁寧に教えてくれる先生でした” (川田正子著『童謡は 心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)。

 【初放送】 
 “昭和二十一年八月十八日、NHKラジオではじめて歌ったときは、わたしの独唱でした。”(CAY-850 『思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘・川田正子』(日本コロムビア)解説・川田正子による)。
 長田暁二編著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)には、“栃木県佐野市の東座から、川田正子と音羽ゆりかご会によって、NHKラジオの中継放送が行われた。”と書いてあります。

 <昭和二十一年八月十八日読売新聞番組欄では>午後1:30~2:15
  「農村慰問の午後」栃木縣佐野町東座 中継 ▽挨拶 内田秀五郎 ▽浪花節 小柳丸 ▽歌謠曲 松田トシ他*朝日新聞では 童謠と歌謠曲 となっている。
  なお、東座は佐野町中心部にあった劇場(芝居小屋)名。
  (註)放送については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2016年5月23日)

 【レコード発売】 
 『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会、発行は掲載資料から平成八年以降と思われるが記述が無い)の「童謡レコード一覧表」によると、コロムビア レコード/レコードNO.「A-318」/曲名「蛙の笛」/歌手「川田正子・川田孝子」/備考「昭和22.3.20」。
 『蘇る童謡歌手大全集2』(キングレコード)に収録された音源では、川田正子・孝子とコロンビアゆりかご会が唄っています。
 長田暁二編著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)には、“レコードはコロムビアから「みかんの花咲く丘」と組み合わされ、川田正子・孝子の合唱で吹き込まれていた”と書いてあります。
 加藤省吾レコード吹込曲作品年表によると、童謡「みかんの花咲く丘」(コロムビア)の発表年月は昭和23年1月になっています。

 これらの記述と残った音源から推測すると、『蛙の笛』は『みかんの花咲く丘』と組み合わせてレコードになり、その発売日は昭和23年1月ということになります。
 童謡レコードに詳しい北島治夫さんに『蛙の笛』と『みかんの花咲く丘』が組み合わされているかどうか調査していただいたところ、確かにA318でこの二曲がカップリングされていると教えていただきました(2009年5月14日)。さらに北島氏は、「当時の月報が無いため確かなことは言えないが、レコード番号からは、A318が昭和22年11月以前に発売されることはありえない」とのことでした。北島氏の資料によると、昭和22年11月発売と判明しているレコードはA298~303、307、309、315、316。昭和22年12月発売がA338~340、昭和23年1月発売がA323~328、330。これらのデータからは厳密に番号順に発売されたわけではないことが判りますが、レコード番号のA318の発売が昭和22年11月より遅れることはあっても、早まることは考えられないことになります。

 だとすると、成東町教育委員会資料の備考の昭和22年3月20日という日付けは一体何でしょうか。
 私はこの日付けは録音年月日だと判断しました。そう判断した理由は、成東町教委資料の『里の秋』『夢のお橇』の記述に、レコード番号「A-349」備考「昭和22.11.28」とありますが、郡修彦『CDブック親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ、2004年)のCDに収録された曲の音源データによると、『里の秋』、レコード番号「A-349」、録音年月日「1947年11月28日」、発売年月日「1948年3月(第14回発売)」とあり、教委資料の日付けは録音年月日の日付けと一致しているからです。
 『蛙の笛』は昭和22年3月20日に録音されてから、昭和23年1月に発売されるまで10ケ月も間があいたことになります。当時はこのような遅れは珍しくなかったようです。レコード番号からは、当初はもっと早く、昭和22年の11月には発売される予定だったのかもしれません。けれども、みかんの花が咲き出すのもカエルの声が聞え出すのも春になってからです。冬に向う11月の発売では、季節はずれと判断されたのではないでしょうか。

 【川田姉妹合唱のレコードを聴く】
 一番は、川田正子の独唱。二番は、川田孝子の独唱。三番は、二人の掛け合い二重唱で歌われています。斉唱曲だけを作曲・指導していた海沼にしては珍しい編曲です。

  この『蛙の笛』レコーディングについて、川田正子は次のような重要な証言をしています。
 “せっかく二人が歌うのだからと、海沼先生は合唱用のアレンジを用意してくれたりもしました。「蛙の笛」などを、私がソプラノ、孝子がアルトで二部合唱したのを覚えています。マイクが一本しかなければ、私の方が少し前に立ちました。そうしないと孝子の声で、私の声がかき消されてしまうからでした。
 二人の合唱はあまり出来がよくなかったと思っています。私たちは声の色も、曲想の込め方も異なっていました。子供の割に、お互い個性が強すぎて、ハーモニーを保つのが精一杯だったのです。 これも大人になってからの話ですが、孝子は私に、「私たちは、安田祥子・由紀さおりさん姉妹みたいに一緒に歌おうと思っても、きっと歌えなかっただろうね」と言いました。私も同じように感じていましたから、ああ彼女も気づいていたんだなと思いました”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)。

 
 【楽譜を見ながら聴く】
 海沼實が、蛙の声「コロロ コロコロ」を三番で輪唱にアレンジしたのは見事です。草川信編曲『川田正子愛唱童謠曲集』第五輯合唱篇(白眉社)昭和二十二年六月二十日発行で、その楽譜を見ることができます(北海道在住の北島治夫さん所有。コピーを送っていただき、ありがとうございました)。
 楽譜は、海沼實が川田姉妹のために三番だけ二部合唱にしたものを、草川信が、この楽譜集出版のために、三番に合わせて、一番・二番も二部合唱に編曲したものです。
 注目したいのは、三番の高音部が「ゴラン オ ツキサン モ」となっている部分です。低音部は「ゴラン ヨ オツキサン モ」となっています。楽譜を見ながら聴くと納得できます。

  私は、この『蛙の笛』の歌声が大好きです。私の童謡の会では『蛙の笛』を歌う時、必ず川田姉妹の歌声を聴くようにしています。会場からは決まって感動の大きな拍手が沸き起こります。



 【斎藤信夫のその後】 
 斎藤信夫は、一年後、中学校教師として教壇に復帰しました。戦後の二十年間を中学校に勤務。昭和四十二年(1967年)三月定年退職。昭和六十二年逝去。

 【作曲の工夫】 
 蛙の鳴き声「コロロ コロロ」というリズムが、おもしろく取り入れられています。初め五小節のフレーズ、次が六小節のフレーズ、終わりが二小節のフレーズでできています。 四分の四拍子ですが、曲の都合で、途中に一小節だけ四分の二拍子の部分が作られています(「あれは かえるの」の「あれは」の部分)。

 この手法は、すでに長野県の先輩である草川信が作曲した『どこかで春が』の中で、途中に三ヶ所四分の二拍子の部分が作られ、成功しています。海沼は、草川の楽譜を見て勉強したのでしょう。海沼もまた、『蛙の笛』で成功させています。
 合いの手の「ささ」を入れることで、民謡調の美しい歌になっています。

 【歌唱について】
  ・歌い出しが八分休符の小節があります。リズムをしっかり取って歌いましょう。
  ・「コロロ コロロ コロロ コロコロ」や「あれはね あれはね あれは」「銀の笛 ささ 銀の笛」など、同じ歌詞は繰り返しにつれて感じを強めて歌いましょう。
  ・字余りになる「おつきさんも」のリズムは、楽譜の指示通り、「タンタタタンタン」です。話しかけるように歌いましょう。
  ・最後の「ふーえ」の後の付点二分音符は、たっぷりとした声で、十分のばして歌いましょう。

カエルのきもち 【蛙の種類は】 
 平成十一年(1999年)7月3日(土)~9月5日(日)に 開催された千葉県立中央博物館開館十周年記念特別展『カエルのきもち』は、感動的な展示でした。 会場いっぱいのカエルグッズやカエルの絵本、貴重な研究発表を見る事ができ、『カエルのきもち』になりました。
 「コロロ コロコロと歌う童謡『蛙の笛』のカエルの種類を教えてください」という私の質問に、 学芸員の大庭氏から葉書で返事が来ました。
 「御質問ありがとうございます。斎藤信夫氏は、千葉県成東町の出身です。このことから、 シュレーゲルアオガエルが最も近そうですが、モリアオガエルの可能性も捨てきれません。斎藤信夫氏の個人的資料から調べてみないと確定できません。カエルの鳴き声を笛にたとえるのは面白い発想ですね」(1999年7月24日)。
 日本全国に広く分布しているのはニホンアマガエルですが、その生態については興味深いことが多く、たとえばオスの鳴き声は4月から9月と記されているにも関わらず、神奈川県では水田の中干しによる個体群の全滅が常態化しており、繁殖期は6月に限定されることが2004年から2006年の高校生の調査でわかってきました。 神奈川県立西湘高等学校生物部による調査報告があります。

 【シュレーゲルアオガエルか】 
 オランダ人のシュレーゲルは、 長崎に来たドイツの医学者で博物学者でもあったシーボルトが、日本から持ち帰った日本産生物標本を研究しました。 その標本の中にこの蛙もいました。共同研究者のギュンターがシュレーゲルを記念して命名した種がシュレーゲルアオガエルです。
 鳴き声はコロコロ、ケロケロと、かん高いソプラノ調で大合唱します。 グワッグワッ、グェッグェッと鳴くアマガエルと姿は似ていますが別種です。 アマガエルよりも水田の周囲に林が残るような自然度の高い環境に生息しています。 兵庫県立人と自然の博物館「日本のカエルの鳴き声図鑑」で、 シュレーゲルアオガエルの鳴き声を聴くことができます。 また、モリアオガエルの鳴き声も聴くことができます。

  【カジカガエルか】 
 この歌を歌った川田正子は、次のように書いています。
 “ある年、秋田県に演奏旅行に出かけた時でした。旅館の庭から、とても印象的な声が聞こえてきました。「コロロ、コロロ」。はっとして耳を傾けました。まるで「蛙の笛」そのままの鳴き声でした。それは、カジカガエルでした。昔から美しい鳴き声を人々に愛された蛙です。以来、私は、斎藤先生が詞に織り込んだのは、カジカガエルのことだったのではないだろうかと考えています。”
  (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)
 カジカガエルは渓流に生息するカエルで、大変澄んだ美しい声で鳴きます。兵庫県立人と自然の博物館「日本のカエルの鳴き声図鑑」で、カジカガエルの鳴き声を聴くことができます。 

 【蛙の結論】 
 千葉県成東町の斎藤信夫が作詩をしたのは「春先の四月十二日夜ふけ」。聞いたのは、コロロ コロコロという「冬眠から目がさめたばかりの蛙のかわいい声」。・・・千葉県の春四月は蛙が冬眠から目覚めて鳴くほど暖かい。かわいい声の蛙の大きさはわかりません。夏に大声で元気に鳴く蛙ではありません。

▲「川田正子愛唱童謠振付集」第一編(昭和22年8月15日・白眉社発行)より。
北海道在住のレコードコレクター・北島治夫さん複写提供。

 【斎藤信夫の略歴】 「里の秋」参照

 【歌碑】 
 作曲をした海沼實の故郷、長野市松代真田公園に歌碑があります。 歌詞と楽譜の他に一匹の蛙が笛を吹いている絵が描かれています。
 作詞をした斎藤信夫の故郷・千葉県山武市の成東文化会館「のぎくプラザ」前庭にも 歌碑があります。
 歌った川田正子の実家があった千葉県いすみ市岬町岩熊に「童謡の里」が作ら れ、「里の秋」と「蛙の笛」の歌碑が平成三年に建てられました。碑には両曲の 第一節の五線譜と歌詞がきざまれています。

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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みかんの花咲く丘

作詞 加藤省吾
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


ミカンの花5月13日  初夏、みかん畑は白い花が満開になります。歌は、この花のようにさわやかで美しい詩に、懐かしいメロディーが付いています。
  この歌を少女歌手時代に歌った川田正子によると、作曲者の海沼實が、正子のために作った最初の歌とのことです。歌が作られたいきさつには、大きなドラマがありました。

 【「みかんの花咲く丘」の誕生】 
 歌は、終戦の翌年の昭和二十一年(1946年)八月二十四日に誕生しました。
 その日の午前、月刊音楽雑誌『ミュージック・ライフ』(新興音楽出版社)の編集長の加藤省吾は、人気の童謡歌手・川田正子の取材のために東京の芝にある正子の自宅(東京都芝区南佐久間町・現在の西新橋)を訪ねていました。この取材は正子の歌唱指導をしていた作曲家の海沼と電話で前々から約束がしてあり、午後は出かけるので、午前中ならということでした。加藤省吾 みかんの花咲く丘
 取材を終えた後、川田家の二階に住んでいた海沼から呼び止められました。「明日の夜、NHKのスタジオと、伊東の国民学校の講堂とをつないで一つにして放送する、ラジオの二元放送『空の劇場』という番組を放送するのですが、その中で(まあちゃん)が歌う海に因んだ歌の歌詩を作ってほしい」・・・「詩の内容は、丘の上に立って、海を見て、その海に島を浮かべ、船を出して黒い煙りを吐かせて欲しい」と依頼されました。
 ・・・ 加藤と海沼は、昭和十二年頃からの知り合いで、加藤はすでに同十三年三月にビクターから発売された『かわいい魚屋さん』(山口保治作曲)がヒットして作詞家として認められていました。

 話を聞いた加藤は、なにを主題にしようかと考えてみました。伊東と言えば「みかん」ですが、みかんの「実」にするか「花」にするか迷いました。当時、並木路子が歌ってヒット中の『リンゴの唄』(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)が、リンゴの実を題材としていたからです。実にすれば、二番せんじになってしまいます。そこで八月にしてはちょっと時期はずれだが、ひっそりと咲く白い可憐な「みかんの花」でいくことにし、「みかんの花が咲いている」と書き出すと次々と歌詞が浮かびました。
 一、二番は海沼から与えられた題材でしたが、三番は自身の主観で創り上げたものです。当時は戦争の犠牲になって母親を亡くした子供がたくさんいたので、三番の母さんは戦争のさなかに亡くなってしまい、その母親を想う子供の愛の歌にしました。
 私が「みかんの花咲く丘」を作ったのは、昭和二十一年八月二十四日の十二時半から十三時くらいの間であった。

 以上は、加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行より抜粋です。この文章は文献の定番となり、多くの出版物で、おもしろく書き直され紹介されています。
 『森の木』第九号(森の木編集部)平成四年九月二十七日発行の加藤省吾著「みかんの花咲く丘の思い出」には、“二十分ぐらいで書き上げた”と書いてあります。

 しかし、川田正子は著書『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)で次のように書いています。 川田正子
 “実は、私が海沼先生から聞いた話は少し違います。海沼先生は、二元中継の場所が伊豆半島と決まった時から「みかん」をイメージしていたようで、「今度はみかんの歌を作ってあげよう」と私に言っていました。加藤先生への作詞依頼も事前に済んでいて、二人が最終的な打ち合わせをしたのが、出発当日の午前だったのではないかと私は思います。いずれにしても、かなり急ごしらえではありますが・・・。
 生前の加藤先生にこの話をしてみたのですが、ちゃんとした答えはいただけませんでした。先生はサービス精神が旺盛で、何事も面白おかしく話すのが好きな方でしたから、ちょっと脚色して語っておられたのかもしれません。”

 【作曲は汽車に揺られて】 
 <詩は検閲を受ける>
 できあがった詩は、GHQ管轄下のCIEとCCDの検閲を受け使用許可を得ました。そして、海沼は、そのまま詩をたずさえて、午後の列車で正子と伊東に向かいました。
 (註・昭和二十年九月、CIE米民間情報局並びにCCD米民間検閲部に接収された内幸町のJOAK日本放送協会は、こと放送に関する事は、すべてこの検閲を通さないと放送できなかった。当時は音楽放送であっても、歌詩を伴うものはCIEラジオ課とCCDの検閲を受けなければ放送できなかった)。

 <普通列車で三時間>
 当時、東京と伊東間は、普通列車で約三時間かかりました。東京から伊東への直通は一日に二本、午前一本と午後一本の二本だけでした。
 海沼と正子の乗った列車は、東京発15時10分。伊東着18時18分です。

 <いよいよ作曲>
 伊東に向かう東海道線の汽車の中で、海沼は作曲に取りかかりましたが、なかなか気に入ったメロディーが浮かびません。国府津を過ぎた頃に、音楽学校時代にヴァイオリンでよく弾いていたオペラの曲を思い出して、なんとなく口ずさんでいるうちに、八分の六拍子の前奏八小節ができました。それから後は、メロディーが自然にわきあがって、伊東に着いた時には、完全にできあがっていました。
 私(池田小百合)は、加藤省吾に「オペラの曲は何ですか。『乾杯の歌』ですか」と尋ねた事がありましたが、「わからない」とのお答えでした。研究者がまだ誰もこの「オペラの曲」の記載に注目していなかった頃の事です。
 後に出た多くの出版物では、ここの部分を書く時には「ヴェルディのオペラ『椿姫』のメロディーから曲想がわき」が定番になっています。「乾杯の歌」は8分の3拍子です。

ヴェルディ作曲『椿姫』より「乾杯の歌」の歌い出し

 【口移しで覚える】 
 その夜、旅館にはピアノがなかったので海沼は、正子と風呂に入り体を洗いながら、こういうメロディーだよと口移し(ワンフレーズずつ海沼が歌って教える)で教え込みました。 海沼と川田が宿泊したのは「かにや旅館」。
 (註I)加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)には、“作曲も出来上って旅館に着いたが、指定された宿にはピアノなどあろうはずがない。ピアノがあればメロディーを覚えさせるのは簡単だが、ないのだからどうにもならない。先生があれこれ考えて思いついたのがお風呂で教えようということだった。・・・”と書いてあります。
 (註II)少女歌手川田正子と海沼實が「空の劇場」放送のために泊まった旅館は「かにや旅館」。のちにホテルとして新装になった。
 「伊東温泉ニューかにやホテル」は、昭和43年に聚楽グループに買収されて、「伊東温泉ホテル聚楽(じゅらく)」になっている。

川田正子 1946年  【初放送は大反響】 
 翌、昭和二十一年八月二十五日午後七時十五分から特別ラジオ番組『空の劇場』が始まりました。それは、東京内幸町のJOAK(東京放送局/現・NHK)のスタジオと、静岡県伊東の西国民学校の講堂を結ぶ二元放送でした。「みかんの花咲く丘」は、番組の中で正子の新曲として歌われました。 長い間軍歌調の歌に耳なれていた人々に、八分の六という曲調は非常に耳新しく、正子の明るくさわやかな歌声は、敗戦という大きなショックの中で、着る物も食べる物もなく、どのように生きたらよいか苦悩していた人々のすさんだ心を癒してくれました。 放送終了と同時に大反響を呼び、二元放送の一回だけのために特別に作られたはずの童謡は、空前のヒット曲となりました。

 <「日本で初めてのラジオ二元放送」はあやまり>
 二元放送の最初は、昭和六年一月一日 東京―大阪間です(NHK「放送技術の歴史」、「ラジオ年鑑」等による)。「伊東の歌碑の説明文「日本で初めてのラジオ二元放送」はあやまり」との指摘は恋塚稔著『みかんの花咲く丘 川田正子―歌とその時代』(東京書籍刊)29-30ページにもある。
 なお、番組については昭和二十一年夏の放送編成替えについて「八月から音楽玉手箱に代る「空の劇場」が開始された。「空の劇場」は(日本放送)協会全職員の放送に対する関心を昂めるため一般職員から企画を求めた」とある(日本放送協会編「ラジオ年鑑」昭和23年版による)。伊東からの中継がその第一回でしょう。
  (註)放送については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2016年5月23日)

 【歌った川田正子の年齢】 
 十一歳か十二歳か。
  ・「わたしは小学校六年生、十一歳でした。」・・・(加藤省吾著『「みかん の花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行の序文、川田正子によ る)。
 ・「十二歳の私は、作曲家の海沼実先生に連れられて、伊豆半島の伊東(静岡 県)へと向かっていました。」・・・(川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京 新聞出版局)平成13年10月10日発行による)。
 川田正子は昭和九年(1934年)七月十二日生まれなので、当時十二歳でした。
 [正子の写真は『童謡は心のふるさと』グラビアより、1946年]

 (註)伊東の西国民学校は、現在の伊東市立西小学校(静岡県伊東市幸町)です。 私・池田小百合が主宰する童謡の会員の中に、この小学校の卒業生がいます。学 校では、いつも「みかんの花咲く丘」を歌っているそうです。

 【会場は国民学校の講堂に変更】 
 川田正子によると、
 “翌朝。外はしとしとと雨が降っていました。収録は屋外の予定だったのですが、あいにくの雨。会場は講堂に変更されました。私が到着したときには、入りきれないほどの人々で講堂はごった返していました。真夏の講堂は相当に蒸しましたが、大きな窓がすべて開け放たれ、ときおり湿った風が流れ込みました。”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)による)。
 ●しかし、加藤は海沼から「明日の夜、NHKのスタジオと、伊東の国民学校の講堂とをつないで一つにして放送する、ラジオの二元放送『空の劇場』という番組を放送するのですが、・・・」と聞かされたと書いています。前日に海沼が「講堂」と言ったとしているのはおかしい。
 加藤は文章を書く時、「会場は講堂に変更された」と、後から聞いた内容を混同したようです。(加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)16ページによる)

 <なぜ、伊東西国民学校がえらばれたのか>
 伊東西国民学校(現・伊東市立西小学校)は、市内の中心にあり、戦時中も空襲の被害を受けず、校舎や講堂などの施設が整っていた。
 保存されている校務日誌の昭和21年8月25日当日の記録には、“夜 (空の劇場)開催 放送劇 9時終了”と書いてあります。

 <急遽 講堂で開催>
 ラジオ公開放送の観客だった牧野正氏の証言が残っています。
  「公開放送は、仮設舞台を組んだ校庭で行われる予定だったが、はじめたら夕立がザーッと来たので、みんなが講堂に逃げ込んだ」。
 リハーサル中に夕立が来て、急きょ舞台を講堂に移して、講堂で行われた。当時の記録では、窓ガラス十枚が割れたとされ、盛況ぶりがうかがえる。
 
 【ラジオ番組表の調査】
 朝日新聞復刻版のラジオ番組表を調べてみました。
 昭和二十一年八月二十五日は日曜日です。ラジオ番組表には夜七時十五分から八時までに、次のように書いてあります。
 “伊東―東京 童謡・川田正子、俗曲 〆香・獨唱・永田絃次郎、尺八・福田蘭童”
 川田正子の歌だけでなく、一般の人が楽しめるように、いろいろな音楽が放送されたようです。

 NHKに保存されている「確定番組表」には、弁士・松井翠声、映画スター・川崎弘子 高田稔 明日待子の名前が書いてある。歌、コント、漫談などバラエティにとんだラジオ番組だったことがわかる。

 【加藤省吾の感想】 
 汽車の中で作曲されたので、加藤は『空の劇場』が放送されるまで聞いていませんでした。埼玉県大里郡深谷町(現・深谷市)の疎開先(両親の家)で正子の歌を聞いた加藤は「明るくていい歌だなぁ」と思ったそうです。海沼から一度放送するだけという話で、自分の思うままに書いた歌が大ヒット曲になったのを、一番驚き喜んだのは加藤自身だったことでしょう。後に『みかんの花咲く丘』を作って、本当によかったと何度も言っています。加藤と、海沼のコンビで作った最初の曲でした。
 娘の加藤美知子さんによると、家族全員で正座をしてラジオから流れる川田正子の歌声を聴いたそうです。(加藤省吾没後10年童謡コンサートにて)

 【タイトルの改訂】
  ・川田正子によると、“はじめは「みかんの歌」という題名でそうしたイメージの歌を作ろうとされていたそうです。当時、サトウハチロー作詩、万城目正作曲の「リンゴの歌」が並木路子さんによって歌われ、全国を風靡していました。それでリンゴとみかんでは二番煎の印象にも取られやすいとの考えから、歌の内容についてもいろいろと加藤先生と打ち合わせをされて題名も「みかんの花咲く丘」となったのだそうです”
 (加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行の序文、川田正子による)。
  ・加藤省吾によると、“この当時の歌は余り長いタイトルは駄目だということで、一応「みかん咲く丘」というタイトルにして、放送に間に合わせたのだが、「みかん咲く丘」では、どうも語呂が悪いからということで、後から「みかんの花咲く丘」というように「の花」を入れたのである。
 だから、NHKの資料室にある海沼先生が最初に書かれた楽譜は、「みかん咲く丘」となっていたが、あとから「の花」を入れて訂正したと、海沼先生から聞いている。”
 (加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行より抜粋)。
 この記載も、多くの出版物で使われています。
 ★NHKの資料室にある海沼が最初に書いた楽譜のタイトルは未確認。
  ・昭和二十二年七月に井口小夜子の歌でキングレコードから発売されたレコードのタイトルは「みかん花咲く丘」で、編曲は海沼實。
  ・昭和二十三年一月に川田正子の歌でコロムビアレコードから発売されたレコードのタイトルは「みかんの花咲く丘」。

 【加藤省吾は「母さん」と書いた】 
 加藤省吾は、大正三年七月三十日、静岡県富士郡大淵村穴ヶ原(現・富士市大淵)で生まれました。小学校五年生の三月、父親が事業に失敗して一家が離散しました。親兄弟がばらばらになってしまい、三島の菓子屋に子守奉公に出されたのち、県会議員をしている叔父のもとに引き取られました。この頃、学校で国語の時間に俳句の作り方を学んだのが始まりで、詩に興味を持つようになりました。二十歳を機に上京。叔母の元で居候をしていましたが、両親が埼玉県深谷市で謄写版屋をやっていることがわかって、十年目の再会をしました。加藤の心にはいつも母親を慕う気持ちがありました。『みかんの花咲く丘』の三番の歌詞、「やさしい母さん 思われる」には加藤の母親への思いが込められました。

 【初放送で川田正子は「姉さん」と歌う】 
 最初に二元放送で正子が歌った時、「姉さん」と歌いました。海は、詩ができた時点でこの歌を放送するために、 GHQの管轄下にあったCIE(米民間情報局)ラジオ課とCCD(米民間検閲部)に見せ、 使用許可を得ていました。この時「母さん」は「姉さん」に変えられたようです。
 大人になった正子は、この事について、“私が二元放送で初めて歌った時は、 「母さん」が「姉さん」に変えられていました。戦災で母親を失った子供たちが、この歌でお母さんを思い出すとかわいそうだという配慮でした。戦災孤児が 社会問題になっていた時代ですから、NHKがGHQの意向に添った結果かもしれません”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋。『森の木』第四号(森の木編集部)平成二年七月十日発行も同記述)

 「いつか來た丘 姉さんと」「やさしい姉さん 思はれる」となっている楽譜 も出版されました。

     ▼「川田正子愛唱童謠振付集」第一編(昭和22年8月15日・白眉社発行)より。北海道在住のレコードコレクター・北島治夫さん複写提供。
▲楽譜
 三番は
「ヤサシーイ 
ネエサン」に
なっている。


▼歌詞
  三番は
「やさしい姉さん
 思はれる」
になっている。

 【振付をアニメで見る】
 インターネットのYou tubeに、上記振付を参考にしてアニメを作って投稿した千田信次氏の作品があります。歌はコンピューターの声です。タイトルが「童謡 みかんの花咲く丘」になっているのは、元の振付にそう書いてあるからです。
 アニメーションの作者、千田氏のコメントは“「池田小百合なっとく童謡・唱歌」に、この歌の振付がありました。歌の発表は終戦の翌年とか。その再現です。レトロな遊戯も可愛らしいですね。”
▲糸賀君子・画、「少女」昭和25年7月号。3番歌詞は「母さん」

 【コロムビアで川田正子は「母さん」と歌う】 次に正子が昭和二十三年一月にコロムビアレコードから発売された時は、原作に戻して「母さん」と歌いました (コロムビアA318 昭和二十三年一月発売 カップリング「蛙の笛」)。

 ●『森の木』第九号(森の木編集部)平成四年九月二十七日発行の川田正子著「子どものころの思い出」の“最初のレコーディングでは「母さん」が「姉さん」にかわりました。”
 これは川田正子の文章の書き間違いです。
  “最初のレコーディングでは「姉さん」が「母さん」にかわりました。”が正しいのです。


 【初吹き込みはキングから井口小夜子】 
 レコードの発売では、正子より前の昭和二十二年七月に井口小夜子がキングレコードから発売しています。原作のまま「母さん」と歌っています。レコードを聞けば、すぐわかります。
 二番の「お船はどこへ 行くのでしょう」は、「ゆく」と歌っています。
 三番の「一緒に眺めた」は、「いーっしょーに」と歌いました。

 曲名『みかん花咲く丘
 編曲 海沼實
 歌手 井口小夜子
 伴奏 キン グ管絃楽団。
 レコード番号キングC235-B(6632)
 録音年月日1947年(昭和22年)4月11日
 発売年月日1947年7月。

 <カップリング曲>
 曲名『船頭さん』
 編曲 河村光陽
 歌手 中根庸子
 伴 奏 キング管絃楽団。
 レコード番号キングC235-A(6529)
 録音年月1946年10月18日
 発売年月日1947年7月。

  (註)井口小夜子の歌声は郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)のCDで聴く事ができます。貴重なものです。

  【加藤省吾の記憶違い】
 加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年10月5日発行によると、“最初に井口小夜子さんがキングレコード(昭和二十二年七月発売)から吹き込んだ時、キングレコードの文芸部長の故・清水滝治氏が、戦災でお母さんを亡くした子供たちが、お母さんを思い出すと、かわいそうだということから、お姉さんなら、お嫁に行ったということにすればと言う事で「姉さん」に変えたのである。だから井口小夜子さんが吹き込まれたレコードは今でも「お姉さん」になっている。
 しかし私としては、やはり「おかあさん」でないとしっくりしないので、後に川田正子さんがコロムビアレコードで吹込みした時に、原作に戻して「お姉さん」を「おかあさん」として吹き込みました。
 最近よくいろいろな人達から、どちらが本当ですかと聞かれるが、以上申し上げたような事情で、「おかあさん」が正しいのである。"
 ●この文章は、加藤省吾の記憶違いです。キングレコードで、井口小夜子は原作のまま「母さん」と歌っています。コロムビアレコードで川田正子も「母さん」と歌いました。
 この加藤省吾の間違った記載は、長い間文献として使われました。それは、「作詞者である加藤省吾が自分の曲について間違えるわけがない」と思い込み、だれもが疑わず、確かめなかったためです。一般の人はもちろん信じました。

 【川田正子も間違った】 
 困ったことに、川田正子もまた、加藤省吾の記憶違いの文章を使って本を書いてしまいました。川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)平成13年10月10日発行には、次のように書いてあります。
 “「みかんの花咲く丘」は、私より先に井口小夜子さんという大人の歌手が吹き込んだレコードが発売されました。その中でも「姉さん」と歌われているため、「どちらが正しいのですか」と質問される事がよくあります。私自身は現在、「母さん」で歌っています。”

 【海沼実(實の孫)も間違った】 
 さらに、三代目海沼実(實の孫)もまた、加藤省吾の記憶違いの文章を使って本を書いてしまいました。
 海沼実(實の孫)著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)平成15年3月25日発行には、次のように書いてあります。
 “発表の翌年にキングレコードから、井口小夜子の唄でレコードが発売されますが、このときは戦災孤児の胸中を察したディレクターが、第三節の「やさしい母さん」を「やさしい姉さん」に改作して録音しました。後に川田正子の唄で、コロムビアレコードから発売された盤では、元通り「やさしい母さん」と唄われていますが、こちらが原作通りなのは周知のとおりです。”

 これらの記述により、他の全ての出版物が間違った記載をしてしまいました。

 【「母さん」で歌い継ぐ】 『みかんの花咲く丘』は、のどかな風景を歌っただけでなく、「母」への思いが感じられる三番があるからすばらしいのです。「やさしい母さん」だからこそ、歌全体をほのぼのとした優しさが包むのです。「母さん」で歌い継がれています。

 【歌唱について】
  ・八分の六拍子です。童謡ではめずらしいリズムです。明るく軽快な前奏は、口ずさめるほど親しまれています。揺られているような感じは、汽車の中で作曲されたからでしょう。この二拍子系のリズムに乗って歌います。
  ・最後の「お船がとおく 霞んでる」が、この歌の頂点になっていますから、ここは強めに、のびのびと歌ってください。
  ・正子の声に合わせて作ったので、大変高い音程になっています。しかし、移調して低くするときれいに聞こえません。正子の声がいかに張りのある高い声だったかがわかります。

 【川田正子「いく」と歌う】  
 「二番の“お船はどこへ 行くのでしょう”は、どのように歌うのでしょうか」という私、著者池田小百合の質問に、川田正子さんは、「作曲者の海沼先生と作詞者の加藤先生との話し合いで私の高い声を生かすように「いく」と歌うように決めた」と教えていただきました。
 加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)24ページには出来上がった詩が書いてあります。「お船はどこへ いくのでしょう」となっています。
 海沼実(實の孫)著『読んで歌って楽しめる正しい唱歌・童謡のススメ』(ノースランド出版、2007年)の「みかんの花咲く丘」の歌詞には、「行く・(い)く」とルビがふってあります。

 また、平成21年発行『新編 新しい音楽5』(東京書籍)の冒頭1ページには「み かんの花さくおか」のタイトルで二番までの楽譜が掲載されています。「いく」 と歌うようになっています(著作関係者は湯山昭・熊木眞見子・小島律子・若松 正司ほか)。



 私の童謡の会では、川田正子が歌ったように「いく」と歌っても、童謡の一般的な歌い方で「ゆく」と歌ってもよいことにしています。
 この時、教えていただいたお礼に山形のサクランボを送りました。するとサクランボのお礼の電話に続いて、美しい文字で書かれたお手紙、そして「写真」と「テープ『思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘・川田正子』CAY-850」が送られてきました。私が、どれほど感激したかは、言うまでもありません。


▲テープ『思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘・川田正子』CAY-850<廃盤>
の歌詞と解説 川田正子
 上記歌詞は、池田小百合編著『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』(夢工房)や、
 加藤省吾編『日本童謡唱歌百曲集』改訂版(新興楽譜出版社)昭和二十七年
 四月十日発行、加藤省吾編『日本童謠百曲集(その一)』(新興楽譜出版社)
 で見ることができます。
川田正子テープ

 また、川田正子は三番の「一緒に眺めた」は、「一緒」をひとまとまりの言葉として歌っています。
 後日、妹の川田孝子も、大人になった川田正子も吹き込みをしていますが、「いく」「一緒」「母さん」の歌い方は同じです。

 【加藤省吾が目指した「歌謡曲調の童謡」】 『みかんの花咲く丘』は、『リンゴの唄』に次ぐ大ヒット曲になりました。そのため、「戦後は、<リンゴ>と<みかん>で始まった」などと言われるようになりました。これまで軍歌を耳にしていた人々にとって、この歌は、元気と希望を与えてくれた新鮮な歌でした。
 この詩を作るとき、加藤の念頭にあったのは、ホームソングなどとは違った、みんなが一緒に歌える明るい感じの「歌謡曲調の童謡」でした。その思いどおりに、大人にも子供にも愛唱され続けています。手遊びの歌として遊んだことを思い出す人もあるかと思います。

 【その後の川田正子は】
 それから一年後、一九四七年(昭和二十二年)八月三十一日、NHKで特別番組「川田正子を送る夕べ」を最後に一時引退しました。少女歌手としての活動は、九歳から十三歳までの実質四年間でした。
 2006年1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため亡くなりました。71歳でした。本名・渡辺正子。夫は渡辺一男氏。自宅は世田谷区代田でした。

 【レコードの振付】 コロムビア CP-78
 北海道在住の北島治夫さん提供
 歌・川田孝子 制作担当・足羽章
 学芸会 運動会用(高中学年用)
 今でも歌いながら踊れる方もいると思います。


 【童謡人気歌手】 
 北島治夫さんからは、『童謠人気歌手愛唱曲集』(新興音楽出版社)昭和24年4月1日発行に掲載されている「みかんの花咲く丘」の歌詞、楽譜、最初のとびらのページにある当時の歌手たちの写真の複写を送っていただきました(2010年12月30日)。


 「童謠人気歌手」の写真は貴重なものです。ありがとうございました。 写真をよく見ると、「おかっぱ頭」に「リボン」をつけています。華やかに見せようとしたのでしょうか。長くこのスタイルが流行りました。一般の貧しい家庭でも母親が競って女の子にリボンをつけさせました。童謡歌手は、みんなの憧れでした。

▲加藤省吾

 【その後の加藤省吾は】 
 加藤は、歌が大ヒットしたので、コロムビアレコード の専属作詞家として入社(昭和24年から32年)、すでに専属になっていた海沼との コンビで次々新作童謡を作りました。NHKラジオ子供の歌として発表した「楽し い朝」(昭和22年)また「お花のホテル」(昭和24年)、「銀の笛」(昭和24年)、 「蝶々のお夢」(昭和24年)、「つくしの赤ちゃん」(昭和25年)、「カンガルーの 赤ちゃん」(昭和31年)などがヒットし、戦後の童謡開花期の一時期、名コンビ加 藤、海沼時代といわれて、童謡の黄金時代を築き上げることができました。
 「歌は、歌われてこそ歌」というのが加藤省吾の信念であり、作品が歌われる のを何よりも嬉しそうに聞いていたそうです。(加藤省吾没後10周年童謡コン サートプログラムによる)

 【歌碑について】
  ・静岡県伊東市宇佐美の西、亀石峠の手前の道路わきに歌碑がある(昭和五十八年十一月一日除幕)。碑のわきに、みかんの木が植えてある。加藤省吾は静岡県富士郡大淵村(現・富士市)出身(小学五年生まで)。のち富士郡大宮町(現・富士宮市)に転居。
  ・ホテル聚楽(じゅらく)の庭園にも歌碑がある。少女歌手川田と海沼が「空の劇場」放送のために泊まった旅館が「かにや旅館」。のちに「伊東温泉ニューかにやホテル」として新装になった。その後、「伊東温泉ホテル聚楽」になり、当時を記念して中庭に歌碑を建立した(平成四年六月十日除幕)。
  ・加藤省吾の両親が住み、疎開していた縁で、埼玉県深谷市の智形神社には「みかんの花咲く丘」の歌碑と「加藤省吾顕彰碑」が建てられています(平成四年四月五日除幕)。
  ・海沼實の故郷長野県長野市松代町の真田公園にも歌碑があります。
  ・和歌山県すさみ町の「日本童謡の園」には、みんなが選んだ日本の代表的な童謡七曲の一曲として歌碑があります。
  ・兵庫県たつの市の白鷺山の「童謡の小径」内の歌碑の周りには、みかんの木が植えられています。全国から募集した「あなたの好きな童謡」ベスト8の中の一曲です。このように各地に歌碑があり愛唱されています。

 【正しい資料編纂の希望】 
 簡単に仕上がるだろうと思っていた<池田小百合なっとく童謡・唱歌>「みかんの花咲く丘」の文は、困難を極めました。
 加藤省吾、川田正子、海沼実(實の孫)、それぞれが書いたものが違っていたからです。出版時に誰も気が付かなかったのでしょう。信頼していただけに、非常にがっかりしています。記録として正確なものを残してほしかったと思います。海沼實も加藤省吾も川田正子も亡くなってしまいました。みんなが勉強できるように、残された自筆原稿や楽譜、レコード、雑誌を、大分県教育庁文化課編集『大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集』(大分県教育委員会)のように写真で公開してほしいものです。

 【加藤省吾没後10年童謡コンサート開催】 
 川田正子の歌う「みかんの花咲く丘」(初盤CD)が会場に流れスタートしたコンサートは、しゅうさえこさんの美しい歌声で終始さわやかでした。2010年5月23日(日)14:00より,古賀政男音楽博物館けやきホールにて。
 DVD映像と歌のコーナー「江戸の隠密渡り鳥」 「快傑ハリマオ」では、会場から大きな歓声が上がりました。楽しいひとときを、 みんなで共有しました。

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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夢のお馬車

夢のおそり

作詞 斎藤信夫
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【姉妹作品】
 昭和二十二年(1947年)一月、ある作品に作曲をした海沼は、「曲は良いが、詩が良くない」との理由で、その作品のレコード化を断られました。 そこへ立ち寄った斎藤信夫は、楽譜が読めるので、借りて帰って、一晩のうちに「夢のおそり」と「夢のお馬車」の二つを仕上げて、翌日上京しました。
 海沼は喜んでピアノに合わせていたが、すでにでき上がっている曲には「夢のお馬車」の詩を使いました。
 そして「夢のおそり」は、「捨てるには惜しいから、他の曲を付けましょう」という事で、即興的に作曲しました。
 初放送は「夢のおそり」の方が先になりました。姉妹作ともいえる両作品は、共に大ヒット作となりました(CD『史上最高の歌姫 童謡歌手 川田三姉妹』の解説、斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)平成八年発行の解説による)。

 【斎藤信夫の作品記録】 
  「夢のおそり」
  ・昭和二十二年一月七日作 作品番号3723。
  ・昭和二十二年一月十日 初放送 歌手・川田正子。
  ・「夢のお橇」のレコード発売 レコード番号 コロムビアA-349
 「里の秋」がA面で「夢のお橇」がB面。歌手・川田正子/録音年月日1947年(昭和22年)11月28日/発売年月日1948年3月(第14回発売)。
 
  「夢のお馬車」
  ・昭和二十二年一月十六日作 作品番号3730
  ・昭和二十二年一月二十日 初放送 歌手・川田正子。
  ・レコード発売 レコード番号 コロムビアA-466
 「夢のお馬車」(歌手・川田正子)がA面で
 「土曜日の夜」(歌手・川田孝子 大畑厚子)がB面。
 録音年月日 昭和23年8月25日。
 ★斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)の解説には、「一晩のうちに「夢のおそり」と「夢のお馬車」の二つを仕上げて」と書いてあるのに、創作日が違うのはおかしい。未確認。

 【「夢のお馬車」と川田正子】 
 十六年ぶりに童謡をレコードに吹き込んだ川田正子のコメントには、記憶違いがあります。
 ●「わたくしが歌ったのは昭和21年1月、小学校6年生の時の事です。東京はまだ焼け跡がところどころに残っていましたが、わたくしは、物語の主人公になったような気持ちでこの歌を歌いました。本当を言うと、馬車もそりも、乗った事はなかったのです。でも夢だから・・・」
 (CAY-850「思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘 川田正子」テープの解説・川田正子による)。
 「歌ったのは昭和21年」は記憶違い。昭和22年が正しい。

  【「夢のお馬車」の歌い方について】
 少女歌手の川田正子は、一番は「ムチをふりふり かけてくる」と歌い、二・三番は「どこへゆく」「かけてゆく」と歌いました。
 これは、海沼實が口移し(ワンフレーズずつ歌って教える)で教えたとおりに歌ったためです。録音の際に歌詞を間違えたのではありません。
 海沼實自筆の楽譜で確認できます。この楽譜は『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会発行)6ページで見ることができます。

                             ▲海沼実直筆の譜面 「カケテクル」「どこへゆく」「マダミエル」

 昭和二十二年四月二十日発行の海沼實編著『川田正子愛唱童謠曲集』第四輯(白眉社)の楽譜は、一番から三番まで「ゆく」に統一してあります。旋律は、ハ長調、四分の二拍子、二部形式で作られています。行進曲のような感じの軽快な曲です。


 しかし、大人になった川田正子は、斎藤信夫が書いた詩のように一番から三番まで「いく」と歌いました。
 四番の「お馬」は、少女時代も大人になってからも「おんま」と歌っています。 この歌い方について「当時の子供たちは、馬が通ると『おんまだ、おんまが通るよ』と指さして言ったものです」と川田正子さんから教えていただきました。

 ▲「夢のお馬車」斎藤信夫『子ども心を友として』より
 「かけていく」「どこへいく」「かけていく」「まだ見える」と書いてある。

▲佐藤ひろ子画。講談社の絵本Cクラウン版「童謡画集1」より 現在入手不能です。


  【「夢のおそり」は今】 
 特徴のある作風、そして迫力のある川田正子の歌声は一度聴いたら忘れられません。レコードが出ると人気となりましたが、一般の人が歌うには非常に難しい曲であったため、愛唱歌にはなりませんでした。また、「橇」を見ることがなくなると、忘れられて行きました。
 私の童謡の会では、「夢のお馬車」を歌う時には決まって「夢のおそり」を聴き、口ずさむようにしています。はじめて聴く人が多く、会場からは驚きの声が上がります。

    夢のおそり  作詩 斎藤信夫 作曲 海沼實

▲川田正子と孝子 (1948年)


 遠いまちから 吹雪をついて
 夢のおそりが 駈けて来る
 ほうら リンリン 聞こえてくるよ
 銀の丘から 鈴の音が

 夢の小箱を 山のように積んで
 どこのよい子に はこんでく
 ほうら チラチラ 窓から見える
 夢のおそりの ゆれる灯が

 赤い手綱で 金のムチふって
 雪の夜道を どこへ行く(ゆく)
 ほうら まだまだ 聞こえてくるよ
 夢のおそりの 鈴の音が

  出典は斎藤信夫著『童謡詩集 子ども心を友として』(成東町教育委員会)平成八年発行


 【「夢のおそり」の歌い方】 
 少女歌手の川田正子は、レコード録音の際に「とおいまちから ふぶきをふいて」(一番)、そして「ほうら  ヒラヒラまどからみえる」(ニ番)と歌いました。ここは正子が間違って歌ったものです。大人になった正子は、 斎藤が書いた歌詞のとおりに「吹雪をついて」、「ほうら チラチラ」と歌っています。
 このことについて川田正子は次のように書いています。
 "そのころは、レコーディングのことを「吹き込み」と言っていました。私がコロムビアで初めて吹き込んだのは、「赤ちゃんのお耳」(都築益世作詞・佐々木すぐる作曲)という曲で、これは海沼作品ではありません。
 吹き込みの現場は、今とは相当違いました。歌と伴奏を別々に録音する技術がなく、スタジオには歌手、楽団、 それに指揮者の方もそろっていました。そこでリハーサルを二、三回。すぐに本番となります。録音用の原盤はわずか五、六枚しかありませんでしたから、とても緊張しました。
 曲のレッスンは録音のずっと前、長ければ二カ月ぐらい前から受けました。直前になると、風邪をひかないように気をつけて、当日の体調を整えました。
 吹込みが始まると、一番から最後まで全部、通して歌いました。現在のように、同じ個所を何回も録音して、よくできた部分を後からつなぎ合わせることはできませんでした。 私が間違えても、演奏の方でミスがあっても、失敗すればそこまで。スタジオにブザーが鳴って、原版は無駄になりました。
 ところが子供というのはやっかいで、歌詞にしろ、メロディーにしろ、一度間違えて覚えてしまうと、急には直せません。 間違った個所を指摘してもらっても、頭からやり直すと、また同じ所で間違えるのです。しかも何回も歌っているうちに声が嗄れてきます。
  「どうしても間違いが直らなくて、しょうがないからそのままレコードにしたこともあったなあ」
 大人になってから当時のディレクターさんに聞かされたことがありました。子供に歌わせるのがいかに難しいか。その苦労が身にしみて分かったのは、後に自分自身が指導者になってからです。"
   (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)

 【川田正子の言葉】 
 “海沼先生から「まあちゃんのための曲に詞がほしいのだけど」と頼まれて、斎藤先生が手元にあった二つの詞を送りました。”
 ●斎藤信夫が書いたものと、川田正子の記憶に違いがあります。どちらかが間違いです。
 “ラジオ番組のために用意したのではなく、二人のアーティストが自分たちの理想とする童謡を世に問おうとしたのが、この二曲でした。
 「夢のお橇」の方は、歌う季節が冬に限定されますので、舞台ではどうしても「夢のお馬車」を歌う機会が多くなります。しかし、「夢のお橇」には少し大人っぽい雰囲気があって、私の大好きな曲です。
 斎藤先生は、同時期に提供した二つの詞から、それぞれ全く曲想の異なる童謡が生まれたことを大変驚かれたそうです。「海沼先生は、自分の中にとてもたくさんのメロディーをもっていた方だった」と私に話してくれました”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)。
 ●長田暁二編著『心にのこる 日本のうたベスト400』(自由現代社)の『夢のお馬車』の解説「昭和22年1月、NHKの委嘱で作られたもの」は間違い。

 【「童謡はおやつ」海沼實の言葉】 
 川田正子によると、
 “当時の子供たちが童謡 に飛びついたのは、学校で習う堅苦しい唱歌とは違う楽しさがあったからでし た。海沼実先生は「唱歌が主食だとしたら、童謡はおやつだね」と語っていまし た。
 童謡は唱歌に比べて曲の構成も複雑です。歌い方が大事で、短い詞に込められ た叙情性を表現しなくてはなりません。「曲想を入れて歌う」と言いますが、た だ美しい声で歌っても、歌の心が聞き手に伝わらないのです。戦後、童謡ブーム が花開いたのは、童謡の持つこうした魅力が人々の心に強く響いたからにほかな りません。”
 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)

 「夢のお馬車」と「夢のおそり」は、子どもたちに夢を与える“おやつ”にふ さわしい童謡です。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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からすの赤ちゃん

作詞 海沼 實
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/09/22)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 私の童謡の会では、まず歌詞を読んでから歌います。歌詞を読み味わうと、おもしろい事に気がつきます。

  【歌詞について】
 『からすの赤ちゃん』の歌詞は、四番まであります。「からすの赤ちゃん」や「めえめえやぎさん」、「まいごの鳩さん」、「きつねの赤ちゃん」が、おねだりしたり、あまえたりして啼く歌です。いろいろな動物が出て来るのが子どもたちの興味を引きます。
 「なぜなくの」か、という問いかけに答えさせる形式で進んで行きます。「なぜなくの」という問いかけは、この童謡の魅力の一つです。
 一番の黒い「からすの赤ちゃん」が、鶏に赤い帽子や赤い靴をほしいと無理なおねだりをしているのがかわいいです。
 二番の「やぎの赤ちゃん」が、眠くなったからおっぱいを飲みたいとあまえるのは変です。おっぱいを飲んで満足すると眠くなるものです。
 三番の「鳩」は、夜飛ぶことはありませんから、提燈を貸してほしいというのは変です。鳩は鳥目なので暗くなるとすぐ目が見えなくなり方向がわからなくなります。だから夕方は真っ暗にならない内に一斉にねぐらに帰るのです。
 四番の「きつねの赤ちゃん」は、木の葉や小石がお金に化ける事を知っているのでしょう。狐は悪賢く、人をだますという俗説から来ているのでしょうが、私、著者・池田小百合は、新美南吉の童話『てぶくろをかいに』のかわいい狐を連想します。ここでは、かわいい狐が、あまえて、おねだりしていると考えたい。狐と三日月の取り合わせは、なかなか日本情緒があります。
 このように、読むと、いろいろなことが見えて来るものです。

 【長田暁二の解説では】  
 藤田圭雄は、その著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局、昭和六十三年十一月十八日発行)で、“この童謡については、長田暁二の「昭和の童謡アラカルト」という本に、大変おもしろい話が出ています”として、次のように紹介しています。
 “昭和十四年の春、ポリドールにいた海沼実は、三苫(みとま)やすしの「なぜなくの」という歌に作曲をしました。ところが、三苫は同じ歌をビクターにも投稿していて、ビクターではそれを中山晋平の曲でレコーディングして一足先きに発売してしまいました。この曲は「中山晋平作曲目録」にも出ていず、よくわかりませんが、ともかく海沼の曲は宙に浮いてしまったのです。そこで矢島邦子というペンネームで、その曲にこの「からすの赤ちゃん」の詞をはめ込み、昭和十七年、飯田景応(けいおう)の編曲で勝部(かつべ)みどりにうたわせて発売しました。しかし戦時中この歌はあまり流行りませんでした。それが戦後になり二十三年五月にコロムビアから川田孝子の歌で、作者も作詩作曲海沼実ということで改めて発売され、これは大ヒットになったというのです”。
 ●作曲時期は「昭和十四年の春」である。
 ●「中山晋平の曲」という先行する曲がある。
 ●最初のレコード発売は「昭和十七年発売」である。
 実はこれらは、正しくない。

 さらに、長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には次のような記述もあります。
  “晋平の曲はヒットせず埋もれてしまいましたが、海沼はやさしいこの曲に自信を持っていたので、矢島邦子という女性のペンネームを使って、人が持っている物をなんでも欲しがる幼児の気持ちを、いろいろの動物に寄せて表現したかわいい詩をはめこみました。それが「からすの赤ちゃん」です。・・・
  昭和十七年頃は、子供の生活も文化もすべてが国家と戦争に結びつけられ、<欲しがりません勝つまでは>のスローガンの下に、全国民に耐乏生活を強調していました。従って、この歌のように見るもの聞くものすべてが欲しくなる歌は広く歌われることになりませんでした。
 もっとも ポリドール側は、中村雨紅に「夕やけ小やけ」に似せた「山やき野やき」(森義八郎曲)を作らせ、その裏面にこの曲「からすの赤ちゃん」を配して発売したのです。 
 (註)レコードのA面の曲のタイトルは正しくは漢字で「山焼野焼」。

 戦後、川田孝子が全国放送で繰り返し歌ってから大ヒットし、昭和二十三年五月、彼女の歌唱でコロムビアに吹き込み、再々発売の折り、作詞者を矢島邦子から海沼実に訂正しました”。

 <レコード・コレクターの北島治夫氏所有のレコード>
  コロムビア C28  「烏の赤ちゃん」 歌手・川田孝子
         裏面  「またあしたね」  歌手・松永園子

  【間違った文献を使うと 1】
 藤田圭雄は、「ビクターの作曲者は中山晋平」と思い込み、『中山晋平作曲目録』の調査をしています。そして、「出ていず、わからない」と不思議がっています。時間をかけて調査をしているのに、残念なことになってしまいました。

 【加藤省吾の解説では】
 加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社、平成元年十月五日発行)には次のように書いてあります。
  “発表された時は、矢島久仁子というペンネームでポリドールレコードから発売された。昭和十四年か十五年頃だったと思うが、この曲にはこんな裏話があった。 若くして故人となった三苫やすし君という作詩家がいて、プリント刷りの童謡集などを出して作曲家に送っていた。自分でガリ板を切って印刷した手刷りの童謡集であったが、その中に「なぜ啼くの」というタイトルの作品があった。この詩に海沼先生が作曲されて、ポリドールレコードに持参、OKとなりさて吹込みという段階になった。それで三苫やすし君に吹込み通知を出したところ、この作品は中山晋平作曲により一足先にビクターレコードで吹込んでしまったという。良い曲だからこのままボッにしてしまうのは惜しいということになり、担当ディレクターが先生がハメ込みしたらと言ってくれた。海沼先生も苦心して作曲した作品が切角採用されて、吹込みという段階になって駄目だといわれては非常に残念なことで、あきらめ切れないというわけで、それでは私が考えてみましょうと、一晩掛って出来たのが、からすの赤ちゃん なぜ啼くの・・・という歌詩であった。なんでもいいからなく動物を集めてと思って作ったというが、最初ポリドールレコードで吹込みした時は、海沼 実作詩でなく、矢島久仁子作詩というペンネームを使った。
 ビクターで吹込んだ「なぜ啼くの」の方は余り歌われずに消えてしまったが、「からすの赤ちゃん」の方は大ヒットになった。”
 ●「矢島久仁子」と書いてある。
 ●作曲時期は「昭和十四年か十五年頃だったと思うが」とある。
 ●先行する曲は「中山晋平作曲」とある。
 ●「なぜ啼くの」というタイトルの作品。
 実はこれらは、正しくない。
  (註Ⅰ)「一晩掛って出来た」「なんでもいいからなく動物を集めてと思って作ったというが」とあるが、海沼實から直接聞いたのだろうか。
  (註Ⅱ)「三苫やすしは、プリント刷りの童謡集などを出して作曲家に送っていた」とあるが、何という童謡集だったのでしょう。『ズブヌレ雀』でしょうか、『モウモノオ汽車』でしょうか。

  【海沼実の解説では】
 海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成十五年三月二十五日発行)によると次のようです。
 海沼実は海沼實の孫に当たります。
  “昭和十六年(一九四一年)六月に作曲された「からすの赤ちゃん」は、海沼の作品としては珍しく、作詞作曲のいずれも彼自身が手がけています”。
  (註)「からすの赤ちゃん」の歌詞が付いて完成したのは昭和十六年六月ということになります。

  “この作品、もともとは三苫やすし作詩の「なぜなくの」という作品がレコード化されるに当たり、ポリドールとビクターの二社が発売を企画したことが発端で生まれた作品であったのです。
  この作品のレコード化に当たり、ポリドールは海沼に作曲を依頼したのに対し、ビクターは細田義勝を推し、結果的に二社が競作することになりました”。
 ●ここでも「なぜなくの」と平仮名のタイトルになっているが、海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)では、「なぜ啼くの」と漢字が入ったタイトルになっている。
 ●「ポリドールは海沼に作曲を依頼した」と書いてある。それでは前記の加藤省吾の証言「三苫やすしは、プリント刷りの童謡集などを出して作曲家に送っていた」「その中に「なぜ啼くの」というタイトルの作品があった。この詩に海沼先生が作曲されて、ポリドールレコードに持参、OKとなり」と違ってしまう。それともポリドールから依頼されて作ったのでしょうか。
  (註Ⅰ)「ビクターでの作曲者は細田義勝」と書いてある。藤田圭雄が調査した『中山晋平作曲目録』に出ていないのは当然です。
  (註Ⅱ)「ビクターでの作曲者は細田義勝」この情報は海沼実の著書にしかなくて、いつ作曲したか、いつレコーディングしたか、いつ発売されたかは不明である。さらにビクターが細田に作曲を依頼したのか、細田が作曲をして売り込んだのか、資料不足で詳細は不明です。
 『からすの赤ちゃんの謎』とか、『からすの赤ちゃんの不思議』とかしたいところですが、ただ、資料がないだけのことです。資料は大切です。この一か所の資料がないということだけで全貌が見えず、納得できません。

  <細田義勝について>  
 “昭和十一年の最大の話題は渡辺はま子のヒット・レコード≪忘れちゃいやョ≫でした。最上洋詞/細田義勝曲/渡辺はま子唄(ビクター/五三六六三/昭和十一年二月発売)。 この歌は、三越のメッセンジャー・ボーイであった最上洋(もがみよう・一九一三年~一九三八年)が持ち込んだ自作詩のノートの中から、細田義勝が取り上げて作曲したものです。これを吹き込んだ渡辺はま子は、武蔵野音楽学校の出身で、横浜の女学校で音楽を教えていましたが、昭和八年にデビューし、この≪忘れちゃいやョ≫がヒットの第一号となりました。しかし、この歌は歌い方が「官能的歌唱」ということで六月には発売禁止となり新聞ダネにまでなりました。すでに十二~十三万枚が売れていた。
 発禁処分を受けたビクターでは、急いで吹き込み直して≪月が鏡であったなら≫と改めて発売した。最上洋詞/細田義勝曲/渡辺はま子唄(ビクター/五三七七三/昭和十一年?月発売)。 渡辺はま子がさらりと歌ったこのレコードは味もそっけもないものだった。依然として≪忘れちゃいやョ≫の方に人気があった”(森本敏克著『音盤歌謡史』(白川書院、一九七五年十二月二十日発行)。
  (註)上記の森本の記述で注目したいのは“最上洋が持ち込んだ自作詩のノートの中から、細田義勝が取り上げて作曲したものです。”という部分です。昔の作詞家は作品ができると作曲家に送っていた。一方、作曲家は良い詩を常に探していた。

 海沼実は次のように記述している。
 “その結果、最終的にはビクターのほうが一足早く、平山美代子の歌でレコード化をしてしまうわけです。しかし、作品内容に自信のあった海沼は、どうしても自作を諦めることができず、原作詩をモティーフにして、現場で即興的に作詞をして、録音・発表してしまいます”。
 (註)原作詩をモチーフにしてというのは、注目すべき重要な事です。
  “ところが、フタを開けてみたところ、後からできた「からすの赤ちゃん」のほうが大ヒットしてしまったのですから、世の中わからないものです。つき合いのあった原作者の三苫に気を遣った海沼は、当初、作詞・矢島久仁子というペンネームを用いただけでなく、後には三苫の作品「燕(つばめ)の旅」(歌詞はラスト参照)などにも曲を付けて、ヒットさせています”。
 ●ここでは「矢島久仁子」になっているが、海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)では、「矢島邦子」と書き直してある。

 <「矢島久仁子」について>
 海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)には次のように書いてあります。
 “「からすの赤ちゃん」についても、筆名が「ヤジマクニコ」となっている事実を取材の記者から知らされた(妻の)二三夫(ふみを)は『姓の矢島は主人の叔母から、名は娘の久仁子から取ったものと聞かされています』などと誠しやかに語り、まるで自分がマネージャーであるかのような対応をしたという”。
 (註)「矢島久仁子」は妻が言ったその場しのぎの間違いということになります。ちなみに、長女の名前は「久子」で、昭和四年九月三日生まれ。昭和五年八月十一日に満一歳で亡くなった。

 【初レコード発売について】
 海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)には次のように書いてあります。
  “実際のところこの時に實が用いたペンネームは、かねてから何かと親身になって相談に乗ってくれていた母方の叔父・矢島邦を女性風に改めたものであって、昭和十六年八月にポリドールから発売されたレコード(P-3082)資料にはハッキリと「作詞・矢島邦子/作曲・海沼実/編曲・飯田景応/歌・勝部みどり/伴奏・ポリドール管弦楽団」と記されている”。
 (註)最初の発表時の作詞者名(仮名)は「矢島邦子」が正しい。作曲は海沼實となっている。
 “昭和十六年八月にポリドールレコードから中村雨紅作詞、森義八郎作曲「山焼野焼」のB面曲として発売された「からすの赤ちゃん」は、瞬く間に人気が高まりヒットにつながった”。
  ●季刊『どうよう』19号(チャイルド本社)掲載の河村順子が書いたレコード初吹き込みの曲目リスト「烏の赤ちゃん/海沼実詞・海沼実曲 昭和17年 ポリドール 勝部みどり」は正しくないという事になります。

 【『なぜ啼くの』は、こんな詩】
 三苫やすしの原詩「なぜ啼くの」は、四番まであり、海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)と、海沼実著『海沼實の生涯』(ノースランド出版)で見ることができます。詩は同じですが、『童謡 心に残る歌とその時代』ではタイトルが平仮名で「なぜなくの」になっているが、『海沼實の生涯』では漢字の入った「なぜ啼くの」に訂正してある。
 一番は「お山の鴉(からす)は なぜなくの」、二番は「田圃(たんぼ)の蛙はなぜなくの」、三番は「牧場の子馬は なぜなくの」、四番は「かわいい お人形 なぜなくの」となっています。
 現在、「からすの赤ちゃん」は歌いつがれていますが、「なぜ啼くの」の方は忘れられてしまいました。詩を見れば、どちらの詩が優れているか、どうして「なぜ啼くの」の方が歌われなくなり消えてしまったかわかります。

      <原作『なぜ啼くの』>
▲海沼実著『童謡心に
残る歌とその時代』、
NHK出版、平成十五年
三月二十五日発行
表紙
▲海沼実著『海沼實の生涯』
ノースランド出版、平成二十一年
四月二十五日発行
表紙


   一、お山の鴉(からす)は なぜなくの
      わたしは それを 知ってます
      夕焼け お日さんに いうことにゃ
      赤い ぞんぞ 頂戴(ちょうだい)な
      赤い 帯 頂戴なと
      カアカア なくのね

   二、田圃(たんぼ)の蛙は なぜなくの
      わたしは それを 知ってます
      雨降り お月さんに いうことにゃ
      傘を かして頂戴な
      みのを かして頂戴なと
      ゲッコゲッコ なくのね

   三、牧場の子馬は なぜなくの
      わたしは それを 知ってます 
      父さん お馬に いうことにゃ
      お靴を 買って 頂戴な
      お鈴を つけて 頂戴なと
      ヒンヒン なくのね

   四、かわいい お人形 なぜなくの
      わたしは それを 知ってます
      お眼めが さめると いうことにゃ
      おいしい おめざを 頂戴な
      早く 起こして 頂戴なと
      マアマア なくのね

   ※傍線部分は作曲時に削除したという。(ところが、原詩を確認すると、もともとこの行はなかった)
   上記の詩は、『海沼實の生涯』(ノースランド出版)による。

 大阪府立中央図書館国際児童文学館から、やすし第八童謠集『ズブヌレ雀』(童謠作家協會發行)の複写が送られて来ました(2016年5月9日)。
  「仲よし小道」が掲載されている『ズブヌレ雀』は謄写版刷りの童謠集でした。目次を眺めていると、「お空の幼稚園」(十五篇)の中に「なぜなくの」二五ページがありました。私は目を疑いました。
 早速、複写を注文しました。送られて来た詩を見て驚きました。なんと、『海沼實の生涯』に引用されている詩とはちがって、題名はひらがなで「なぜなくの」でしたし、作曲時に削除したとされる「わたしは それを 知ってます」の行は、もともとありませんでした。

 原詩と『海沼實の生涯』に引用されている詩との違い。
 <一番では>
 原詩の「お山の鴉」が引用詩では「お山の鴉は」になっている。「夕焼け お陽さんに」が「夕焼け お陽さんに いうことにゃ」と原詩になかった「いうことにゃ」の挿入がある。原詩「欲しいよ」が「頂戴な」になっている。
 <二番では>
 「田圃の蛙」が「田圃の蛙は」に。「傘 かして おくれ」が「傘を かして頂戴なに。「蓑 かして おくれ と」が「みのを かして頂戴なと」になっている。
 <三番では>
 「牧場の仔馬」が「牧場の子馬は」に。「靴 かって おくれ 鈴 つけて おくれ」が「お靴を 買って 頂戴な お鈴を つけて 頂戴なと」になっている。
 <四番では。
 「おっぱい ちやうだい 抱っこ して ちやうだいと」が「おいしい おめざを 頂戴な」「早く 起こして 頂戴なと」になっている。

 原詩は以下の詩です。



        ▼「からすのあかちゃん」絵・安泰(やすたい) 「観察絵本キンダーブック どうぶつのうた」昭和36年フレーベル館

 【曲と歌い方】
 「からすの赤ちゃん」がヒットしたのは、動物が出て来る歌詞が楽しいこともありますが、歌いやすいメロディーをつけた事にもあります。
 前奏は琴の調べのような日本風な感じです。レコード童謡は踊りの振付が付いていたので一般的に前奏が長い。
 曲は、ヨナ抜き短音階で、歌謡曲的なメロディーで作られています。子どもの演歌のような歌謡曲調童謡なので、子どもだけでなく大人にも喜ばれました。日本人はこのようなメロディーが大好き。
▲ロ短調(h moll)の音階
▼「からすの赤ちゃん」ヨナ抜き短音階
  第四音と第七音が使われていない。

 一番の「からすの赤ちゃん」は、高い音で歌い出しますが、「赤いおぼうし」のはじめの音は低いので、気張った、おしつけたような歌い方にならないように軽く声を出しましょう。「ほしいよと」の「と」の音は、強く歌うとおかしいです。「かあかあなくのね」の「ね」の音は、短く切れてしまわないようにしましょう。
 二番は「おーねーむーにー」と歌います。ここは間違えて歌っている人が多い。
 三番の「ほうずき提灯」の「提灯」を、川田孝子は、「ほおずきちょうちん」と歌っています。川田孝子の歌声は、CD『甦える童謡歌手大全集』で聞く事ができます。後に出版された楽譜は、「ほうずきぢょうちん」と歌詞付けされています。「ちょうちん」と書かれた楽譜は、見つける事ができませんでした。
 (註)川田孝子は、『お猿のかごや』でも「おだわらちょうちん」と歌っています。 これは、海沼實の指導だったのでしょうか。

 【童謡歌手の発声について】
 ある日、『池田小百合なっとく童謡・唱歌』を見ているというアメリカ在住の日本人のオペラ歌手からメールが来て、「童謡歌手の発声は、納得がいかない。なぜみんなこのような口先だけの声の出し方なのか」と書いてあった。私の童謡の会の会員からも、「童謡は、昔の童謡歌手が歌っていたような発声で歌うものなのですか」と質問されたことがあった。
 『からすの赤ちゃん』を歌った川田孝子の歌声は、たいへんかわいらしく、この童謡にぴったりの歌い方です。当時の童謡歌手の歌は、このかわいらしさが重視されました。実際、海沼は「童謡は、やはり“かわいらしい”ことが先決です」という言葉を残している。
 川田三姉妹はじめ、本居三姉妹、河村三姉妹、村山姉妹、大道真弓、平井英子、永岡志津子、宮下晴子、大川澄子、平井美代子ほか、どの童謡歌手もレコードの爆発的な売れ行きと人気にもかかわらず、活動期間は極めて短かったのです。無理な発声法に問題があり、声が出なくなり引退して行ったのです。

 【海沼實の略歴】
  ・明治四十二年(1909年)一月三十一日、長野県埴科郡(はにしなぐん 現・長野市)松代町で、菓子屋の長男として生まれました。
  ・昭和七年(1932年)に上京。草川信を訪ねて師弟関係を結ぶ。
  ・昭和八年(1933年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)予科にピアノ専攻で入学。児童合唱団「音羽ゆりかご会」を創設
  ・昭和十年(1935年)音羽洋裁女学校内に「童謠音樂團音羽ゆりかご會」を設置して合併。川田正子、孝子、美智子ほか多くの童謡歌手の育成にも努めました。「音羽」は地元の地名。「ゆりかご」は「揺籠のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)からとった。海沼が創設した小さな合唱団は、草川信を名義上の会長とし、北原白秋が命名した「ゆりかご会」という名を得たことによって、多くの人々の助力を得ながら急成長を遂げて行く。現存する児童合唱団としては、最も歴史が古い。
  ・童謡の作曲家になり、「からすの赤ちゃん」ほか「みかんの花咲く丘」「里の秋」「蛙の笛」「夢のお馬車」「見てござる」などヒット曲を次々出し活躍。
  ・昭和四十六年(1971年)六月十三日、心筋梗塞で亡くなりました。享年六十二歳でした。

 【童謡はおやつ】
 生前、自分の童謡について「唱歌が主食だとしたら、童謡はおやつだね」と語っていたといいます(川田正子著『童謡は心のふるさと』東京新聞出版局)。

 【歌碑】
 東京都文京区の護国寺境内には、『からすの赤ちゃん』の歌碑があります(歌詞と楽譜)。昭和四十八年(1973年)六月十三日建立。海沼實が育てた合唱団『音羽ゆりかご会』創立四十周年と、海沼實の三回忌に合わせて、生前の業績をたたえ、記念の碑が建てられたものです。 「海沼実 作詞 作曲」と書いてあります。
 護国寺は、五代将軍徳川綱吉が建立したもので、綱吉は供揃え千人を従えて、しばしば参詣したそうです。この碑の建てられた場所には、かつて護国寺幼稚園(大正四年、護国寺により創立。現・音羽幼稚園)がありました。
 音羽幼稚園の音楽教室『音羽ゆりかご会』から川田三姉妹、大道真弓、田端典子、岩田佐知子ほか多くの童謡スター歌手が誕生しました。

 【三苫やすし「燕の旅」】

         燕の旅  
              作詞:三苫やすし  作曲:海沼  實   歌:川田正子

    (一) つばめ つばめ 海越えて
       はるばる渡る つばくらめ
       とうさんつばめ かあさんつばめ
       子どものつばめを まん中に
       すいすいすい 空の旅

    (二) つばめ つばめ 波越えて
        どこまで渡る つばくらめ
       お日様赤い つばさも赤い
       夕やけ小やけの 波の上
       すいすいすい 空の旅

    (三) つばめ つばめ 月夜には
        しぶきにぬれる つばくらめ
       灯台光る お星も光る
       あしたの日の出を 楽しみに
       すいすいすい 空の旅


  〔後記Ⅰ〕
 これまでの童謡や唱歌を歌う会では、一般的にリクエストに応じて二時間、次々二十曲も三十曲も歌うのが普通だった。沢山歌うのが自慢だった。時折、指導者が曲の解説をする所は、特別人気があり多くの人が集まった。 そもそも、童謡や唱歌は一曲歌っても、一分から三分しかかからない。歌詞は、二番か三番しかなく、短い。逆に簡単に暗唱できる利点がある。
 この短い童謡や唱歌を中心に二時間の歌う会をやるのには、工夫が求められる。別紙資料として、曲の解説、作詞・作曲者の事を書いたり、新聞の記事を掲載して話題にしたり、紙芝居や手品、腹話術やフラダンスのゲストを呼んだり、あの手この手で持ちこたえている。二時間はけっこう長い。
 2001年のある日、齋藤孝著『声に出して読みたい日本語』(草思社)を手にした。この本は、百五十万部を超えるベストセラーとなった本です。付属のCDを聴いているうちに、ハタとひらめいた。「そうだ、童謡や唱歌を歌う前に歌詞を読んで、それから歌うようにしよう」と。そして翌月から実行した。「これから歌う歌詞を、はっきりと読んで下さい。声に出して読むという事は、脳に刺激が行ってとてもいいそうです。健康のためにやってみましょう」。みんなで歌詞を読んでから歌った。好評だった。そのあと、私が歌い方や作詞・作曲者の解説をしてから、もう一度歌う。あれから十年以上の歳月が流れた。
 私の童謡の会ではずっと、最初に歌詞を読んでから歌っている。歌詞を声に出して読むことは、特に高齢者に好評です。家で歌詞を書いて覚え、暗唱している人も多い。熱心な童謡の会です。
 この事を夫に話すと、「僕は小学校から帰ると、母親の前で国語の本を読んで聞かせた。それで国語の内容を全部覚えた」「当時流行ったソニーのテープレコーダーを買ってもらって、朗読を吹き込んで遊んだりした。声に出して読む事は、とてもいいのです」と、得意そうに言った。 私も、ソニーのテープレコーダーを買ってもらい、聴音の練習に活用した。テープに自分でピアノを弾いたメロディーを吹き込み、それを再生して譜面に書き取る練習であった。
 昔は、聴音が重視され、音楽大学の受験には必ずあった。今は、学校の音楽教育から聴音がなくなり、譜面を書く指導はほとんど行われていない。聴音は、作曲にも通じ、音を譜面に書きあらわす練習は大切な事なのだが。
 それより、今は耳から覚える音楽です。 嫁に行ったので空き部屋になった娘の部屋にテープが落ちていた。聴いてみると小学生の娘の声が聞こえて来た。「トラひげ現る、ヨーソロー!」と、『ひょっこりひょうたん島』の朗読が入っていた。

  〔後記Ⅱ〕
 『からすの赤ちゃん』は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。海沼実著『正しい唱歌・童謡のススメ』(ノースランド出版)の「お奨めします!唱歌・童謡60選」にも選ばれていません。
 海沼實の幼児向けの童謡の代表作なのに、みんなで歌わなければ消えてしまいます。

著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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やさしいお母さま

作詞 稲穂雅巳
作曲 海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2014/08/25)


  【川澄健一作曲の発表年】
 “海沼が作曲するより以前の昭和一二(一九三七)年頃に、川澄健一によってすでに作曲され、もともとは大阪放送局(JOBK)の提唱で結成された「母をまもる会」のイメージソングであったそうですが、その作品はレコード化されることもなく、消えてしまったということです。”
  (註)海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)による。

  <静岡新聞によると>
  平成6年(1994年)3月25日の静岡新聞には次のように書いてあります。
  “このほど鳥取県で行われた第五回「ふるさと」音楽賞創作童謡コンクールで、御殿場市ぐみ沢の童謡作家稲穂雅巳さん(八四)の作品「カバさんのあくび」が最優秀の「ふるさと」音楽賞を受賞した。稲穂さんは昭和十二年に発表した童謡「やさしいお母さま」が全国的に知られる作詞家。”

  <「わたし」とは、だれか>
  稲穂雅巳からの書簡によると、「わたし」は自身の事を書いたそうです。男の子を歌ったものです。

  【海沼實作曲の発表年】
 昭和十五年(1940年)二月、海沼實が作曲し、ラジオJOAKで発表。
 “太平洋戦争が始まるかという時期に発表されたこの作品は、軍歌や少国民歌が中心の時代であっただけに、当時の子どもたちに大変好まれました。”
  (註)海沼実著『正しい唱歌・童謡のススメ』(ノースランド出版)による。

  <「母の日」について>
 “1914年にアメリカで「5月の第二日曜日を母の日とする」ことが決まり、その数年後から日本でも「母の日」が行われるようになったのです。
 ちなみに1931年からは5月ではなく、当時の皇后陛下の誕生日であった3月6日に改められて、「国のお母さん」に感謝をしようという主旨を持たせたようです。やがて終戦の2年後(1947年)からは、再び現在のように5月の第二日曜日が正式な「母の日」と制定されました。”
 (註)海沼実著『正しい唱歌・童謡のススメ』(ノースランド出版)による。

  【GHQのクレーム】
 二節までの作品として演奏されていたこともありました。
 “終戦と同時にGHQ(連合軍総司令部)のクレームにより歌うことを禁止されてしまいます。彼らによれば、第三節の「ご恩をお返し致します」が忠君愛国の思想に通じる危険があるのだとか?・・・やがてこうした誤解が解けてからは、多くの子ども達に愛唱される人気曲となりました。
  (註)海沼実著『正しい唱歌・童謡のススメ』(ノースランド出版)による。

  【コンクール優勝曲?「やさしいお母さま」】
   『森の木』第二号(平成二年一月十日発行)、『森の木』第三号(平成二年四月十日発行)の川田正子の回想には記憶違いによる誤記が多い。後ほど当時の新聞等により記録を正します。

  【「音羽ゆりかご会」について】
 長野県から上京。翌年の“昭和八(一九三三)年四月に、文京区の護国寺境内に音羽ゆりかご会を創設した作曲家・海沼實は、自ら会長となり、同郷の先輩・草川信を後見役として、合唱団の運営を始めます。音羽ゆりかご会の名称は、草川と親交のあった詩人・北原白秋の名付けによるもので、北原と草川の気に入っていた代表作「揺籃のうた」に、創設地名の音羽をつなげて付けられたものでした”。合唱団の会歌は「揺籃のうた」。
 “同じ時期、童謡の必要性を重視し始めていた東京放送局(JOAK)は、数多い合唱団体に呼びかけ、「東京放送児童合唱団」設立のためのコンクールも行います。審査員は編成局長をはじめ、報道音楽部長、音楽担当ディレクターなどで、ガラス越しのミキサー室でマイクをとおした審査が行われた結果、二位に大差をつけた音羽ゆりかご会は、初代東京放送児童合唱団に任命され、以後ラジオ放送を通じて、数多くの作品を世に送り出すこととなります”。
  (註)海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)による。


  【優勝をめぐって】
  別冊太陽 構成・解説 秋山正美『子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』 (平凡社)秋山正美著「川田正子‐日本の希望を歌声に乗せて」のページには、次のように書いてあります。
  “一九四三(昭和十八年)年五月、関東児童唱歌研究会の主催で、児童唱歌コンクール」がおこなわれ、正子は、大道真弓と共に出場することになる。正子の歌う童謡は、富原薫作詞・草川信作曲の『兵隊さんの汽車』であった。川田正子は、この歌を歌って、一席に選ばれ、これがデビュー曲となって、童謡歌手への道をあゆみ始める”
  ●「五月」は間違い。「七月十日」が正しい。
  ●「関東児童唱歌研究会の主催」、正しくは「東京兒童音樂研究會主催、教育音盤研究會共催」。優勝旗には「關東兒童唱歌研究會」と書いてある。
  ●「児童唱歌コンクール」正しくは「兒童音樂競演會」。優勝旗には「兒童唱歌コンクール」と書いてある。第一回から第三回までは「兒童唱歌コンクール」だった。
  ●「一席に」選ばれは間違い。「二等一席に」が正しい。

  仁藤祐治(にとうゆうじ)著『汽車ぽっぽ やさしいお母さま 歌碑建設記念』(悦声社)には次のように書いてあります。
  “川田正子は、昭和十八年の「関東児童唱歌コンクール」に出場した。ここで歌ったのが「兵隊さんの汽車」で、見事、優勝してしまったのである。この時、おしまいの「万々歳(下がる)」を、彼女はハイソプラノなので「万々歳」と上げた。それが、よく声が出る、で、優勝ということに。ところが、その結果、優勝がなんと二人になってしまった。もう一人は大道真弓ちゃんで、歌はなんと、稲穂雅巳の「やさしいお母さま」であった。優勝曲は二曲とも御殿場の作曲家、作詞家の作品。なんと素晴らしい話ではないか。だが残念、戦局は悪化、これが最後のコンクールとなってしまった。”
  ●「優勝してしまった」は間違い。「二等一席」が正しい。
  ●「優勝が二人」は間違い。「大道真弓」が優勝。
 (註)この件については、川田正子が著『童謡は心のふるさと』(2001.10)で説明しているほか、長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(1994.11)、海沼実著『童謡 心に残る歌とその時代』(2003.3)、『海沼實の生涯』(2009.4)には、ほぼ正しく記されています。

 なお、これら以前に、1984年3月14日、TBSで製作放映されたドラマ「子どもが『少国民』といわれたころ」でコンクールの順位などに間違いがあることから、これに対し、[事前に]大道真弓らから訂正申し入れがされている。この件は新聞にも報道されています(昭和59.3.8読売新聞)。
  (註)この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から新聞記事を送っていただきました。ありがとうございました(2016年5月23日)。

  【二つの「児童唱歌コンクール」について
  <そのI>
 昭和七年から始まった全国規模の「児童唱歌コンクール」は、日本教育音樂協會主催のもの。地域の代表校(尋常小学五年生、男女別それぞれ十五名)が参加する形式で、毎年十一月に開催。昭和十五年、十六年は名称形式など変更されているがコンクールは存続。しかし、戦局は悪化、十年間続いた「児童唱歌コンクール」は、昭和十六年が最後で、十七年、十八年は合唱祭となりました。戦後復活して現在はNHK全国学校音楽コンクールとして開催されている。

            ▼昭和七年(1932年)十一月二十六日 読売新聞より

  〔第一回〕昭和七年十一月二十六日、JOAKラヂオ夜七時三十分~九時放送。 全国二十五府県百三十五の小学校から選ばれた十三校の尋常五年生が唱歌競技。
  男子課題曲(イ)冬景色(文部省唱歌)、(ロ)スキー(新尋常小学唱歌)「♪ツララ ツツララ 楽しいスキー」。
  女子課題曲(イ)海(文部省唱歌)、(ロ)田舎の冬(新尋常小学唱歌第五学年用)。
  (註)島崎赤太郎が中心になって制作された日本教育音楽協会編『新尋常小学唱歌』(音楽教育書出版協会 昭和六年刊行)は当時としては高度な内容を持っていたが、現在、全く知られていない。

                  ▼田舎の冬  作詞 日本教育音楽協会    作曲 島崎赤太郎

  <そのII>上記とは別系統で東京市兒童唱歌研究會主催『第一回 兒童唱歌コンクール』が開催された。


 〔第一回〕
  昭和十四年五月六日の東京日日新聞、昭和十四年五月七日の読売新聞夕刊(右画像参照)、昭和十四年五月二十二日の朝日新聞には東京市兒童唱歌研究會主催の「第一回 兒童唱歌コンクール」の広告があり、対象は東京市内在住、五-十二歳とある。これが東京(のち関東)地区を対象に行われた「児童唱歌コンクール」の第一回に相当する。開始時期は昭和十四年。


   課題曲 文部省檢定唱歌「少國民愛國歌」

   選擇曲 文部省小學唱歌中ヨリ一曲御選擇ノコト
          但シ學齢以下ハ随意ノ童謠二曲御選擇ノコト 

   審査員 田村虎藏[先生。以下、先生を省略]、梁田貞、柴田知常、松原至大、中山晋平 

          
▼「第一回 兒童唱歌コンクール」の結果 東日小學生新聞(昭和十四年六月十四日)掲載
            東京市兒童唱歌研究會主催、東日小学生新聞後援。
 決勝は昭和十四年六月十一日午後から神田区今川橋のビクター吹込所で行われた。
 九十九校二百余人の中から予選に通った五十一人の中から優勝、二等賞、三等賞、入賞を選ぶ。
 優勝は板橋区開進第三校六年生 白根菊江。課題曲“少国民愛國歌”のほかに文部省唱歌“朧月夜”を歌いました。

  〔第二回〕
  第一回が好評だったので、「第二回 兒童唱歌コンクール」は参画者を関東全部として開催。コンクールは昭和十五年五月二十六日、神田区今川橋のビクター吹込所で行われた。発表会は六月八日、麹町区有楽町の蚕糸会館で開催。関東児童唱歌研究会主催、東日小学生新聞後援。審査員に小尾範治、橋本国彦が加わった。

  〔第三回〕
  「第三回 兒童唱歌コンクール」は昭和十六年六月十五日、京橋区築地の日本ビクター社で行われた。発表会は六月二十八日、麹町区有楽町の蚕糸会館で開催。関東児童唱歌研究会主催、少国民新聞、大政翼賛会後援。審査員に小松耕輔、井上武士が加わった。昭和十六年四月二十六日の 読売新聞夕刊には「第三回 兒童唱歌コンクール」の応募広告があり、対象は東京及近県在住者、五-十三歳とある。

  〔第四回〕
  年一回開催だが、昭和十七年は開催されず、大道真弓が優勝したのは第四回。会の名称は「兒童音樂競演會」。昭和十八年七月十日、麹町區永田町國民學校講堂で開催された大会に出場した大道が「やさしいお母さま」を歌って優勝しました。 このときの審査員は、青柳善吾、有坂愛彦、井上武士、上田友継、木下保、小松耕輔、柴田知常、関根嘉男、近森一重、中山晋平、中野義見、橋本國彦、松原至大、梁田貞。

  (註)新聞については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年9月26日)

▼「第四回 兒童音樂競演會」の広告  昭和十八年六月九日 少國民新聞より

東京兒童音樂研究會主催、教育音盤研究會共催、少國民新聞、少國民文化協會後援。
一、 資格=國民学校在學中の者で、校長先生に推薦して頂いたもの。音盤會社に入っていないもの。
一、 参加費=金一圓
一、 日時 <一次豫選>六月二十六日(土)午後一時、二十七日(日)午後九時。
  課題曲 一、二、三年「ぐんかん」  四、五、六年「若葉」  高等科「鷗」
       <第二次豫選>七月三日(土)午後一時
  課題曲 一、二、三年「山の歌」  四、五、六年「牧場の朝」  高等科「月見草」
        <本選>七月十日(土)午後一時
  ○この他にもう一曲、應募者で、すきな歌を選ぶ事
       (國民學校藝能科音樂教科書から選んでもよろしい)
  ○本選の歌唱曲は、第一次、第二次豫選課題曲より、一曲應募者が選ぶ事。
   伴奏する人、樂譜は、参加者が必ず準備する事。


▼「第四回 兒童音樂競演會」の結果  昭和十八年七月十一日 少國民新聞より

  “昭和十八年七月十一日、「第四回 東京兒童音樂競演會」が麹町國民學校講堂で開催。
 三回もの豫選を通過した九名の獨唱者と、二回の豫選を通った五合唱團體は、火の出るやうな競演をしました”。
 “厳重な審査の結果、獨唱では一年生の大道眞弓さんが誉の第一位を得、晴れの優勝旗を、
 會長の小松耕輔先生からいただきました”。
 “惜しくも第二位以下になった人も、差は紙一重で、本當に上手な人たちばかりでありました”。
   <獨唱> 一等 豐島區高田第四校一年 大道眞弓
         二等一席 芝區西櫻校三年  川田正子
【註】 当時、音羽ゆりかご会には十四、五名がいて、会の代表という事で
川田正子と大道真弓が出場することになりました。
大道真弓は昭和十年一月一日生まれの豐島區高田第四國民學校一年生でした。
川田正子は芝區西櫻國民學校三年生でした。
 はじめに課題曲(文部省唱歌の「ぐんかん」「山の歌」)があり、二人共二回の予選をパスしました。
二回の予選をパスしたのは九名。次の本選は自由曲です。
 大道真弓が「やさしいお母さま」を歌い優勝しました。
 二等一席は「兵隊さんの汽車」(冨原薫作詞・草川信作曲。戦後、歌詞が改められ「汽車ぽっぽ」という名で今も
歌い継がれている)を歌った川田正子でした。
 「音羽ゆりかご会」の二人が一等と二等一席を独占し、その実力で他の合唱団を圧倒しました。

 第一回から第三回までの「兒童唱歌コンクール」を第四回は「兒童音樂競演會」としたのは、
「コンクール」は敵性語として使用がはばかられたためでしょう。

  【謎の優勝について】
 長い間、川田正子が優勝とされていました。それはなぜでしょうか。理由があります。優勝旗の前で海沼實と川田正子が一緒に撮った写真が公開されていたためです。
                             ▲優勝旗の前の海沼實と川田正子、八歳。

  写真の解説には「関東児童唱歌研究会児童唱歌コンクール優賞 海沼実先生と」(S18年)と書いてある。『森の木』第七号(平成三年八月一日発行)による。
 川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)によると次のようです。
  “課題曲の後、自由曲となって、私が歌ったのは「兵隊さんの汽車」。海沼先生がこれを選んだのは、恩師、草川先生の作品だからというだけでなく、比較的簡単で元気よく歌えばいいような歌だからです。加えて先生は私の高音に着眼していました。曲の最後、「兵隊さん 兵隊さん万々歳」を一オクターブ上げて歌わせたのです。そんな高い声が出る子供はめったにいません。私はそこを歌い切り、コンクールは終わりました。
  審査の結果が発表され、「優勝よ」と母に言われました。海沼先生が家に優勝旗を持って来て、一緒に撮った写真が残っています。二人が「優勝」と言うのだから、そうなんだろうと私は長い間信じていました。けれども、事実は、一位は大道さんで私は二位だったのです。
  関東児童唱歌コンクールでの「優勝」は幻でした。私は優勝という言葉の意味も分からなかったのですが、実際に一位は大道真弓さんで、私は二位だったのです。なぜ母と海沼先生は優勝だと言ったのか。私を傷つけたくなかったのか、あるいは少女歌手としてのデビューに向けて、レールを敷こうという思惑があったのかもしれません。母はそのくらい一生懸命な人でした。”

  【大ヒット】
  いわゆる「レコード童謡」の一つです。広く親しまれるようになったのは戦後の事です。ていねい語と「おねむ」などの幼児語が可愛らしい。
 今の世の中では、「おかあさま」に「ご恩をお返し」などとは古臭いのでしょうか。日本には「親孝行、したい時には親はなし」という言葉があります。育てた子どもから感謝の言葉を言われる時ほど母親として嬉しい事はありません。近年、物があまり、豊かな生活をしているように見える中で、平気で子どもを殺したり、親を殺したり、信じられない事件が次々起きます。母親に対する感謝の気持ちを込めて「やさしいお母さま」を歌い継いで行きたいものです。楽譜の冒頭には「感謝の気持ちで(余り遅くなく)」と書いてあります。みんなで歌って行かなければ忘れられてしまう童謡です。

  【歌碑】
  <稲穂雅巳の故郷・御殿場に歌碑>
 神奈川県御殿場市中央公園童謡の広場に歌碑があります。平成六年四月二十九日の除幕式には、川田正子と、御殿場小学校児童による童謡コンサートが開かれました。稲穂雅巳と、みね子夫人も元気に出席しています。

▲「やさしいお母さま」の歌碑
長崎の平和祈念像を作った北村西望作「慈愛」像



除幕式

中央・川田正子

川田の左・稲穂雅巳

右・稲穂夫人
  みね子

左から・稲穂雅巳

稲穂夫人みね子

冨原薫夫人さき

川田正子

後ろに
「やさしいお母さま」
の像が見える。

  <海沼實の故郷・松代に歌碑>
 長野県長野市立松代小学校の玄関前にも「やさしいおかあさま」の歌碑が建てられています。歌詞は川田正子の書。平成七年十二月、「唱歌と童謡を愛する会」が建てたもの。
 海沼實は昭和七年に上京。それ以前には生家近くの蓮乗寺で子どもたちに歌を教えたりしていた。バイオリンも得意だった。上京した翌年の四月に東洋音楽学校(現・東京音大)に入学する。この年に、文京区音羽・護国寺の音羽幼稚園で子どもたちへ歌を教え始める。故郷での体験を役立てた。

  【稲穂雅巳の略歴】
 ・ 明治四十三年(1910年)一月四日、静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)生まれ。実家は静岡県御殿場で農業を営む。
 ・十七歳で御殿場を出て童謡詩人を目指して上京。野口雨情などに師事し、新聞への作品投稿を通じて注目されるようになった。
 ・昭和十年代から二十年代にかけて多くの童謡を世に出し、レコードに吹き込まれているだけでも約二百曲。ようやく大平、テイチク、オーゴン各レコードに吹き込みができるようになった頃、戦争になる。
 ・その後、熱海市よりの要望で熱海市消防署勤務をしながら、勧められて日本放送協会の静岡放送局(JOPK)の子供の時間、第一水曜日を受け持ち、時折JOAKにも出演ということでラジオ放送の専属団体として少女合唱団「三鈴会」(東京へ出るようになってからは「美鈴会」に名称変更した)を主宰した。
 ・この間にも常に手には鉛筆とメモノートがあった。その頃、『律動教育』という月刊雑誌を白眉社より出版した。
 ・ 昭和二十二年、「音羽ゆりかご会」の海沼實、川田姉妹を迎えて熱海の観光会館で大々的なコンサートが開催された。集合写真には海沼實を囲んで、稲穂雅巳、足羽章、川田正子、孝子、美智子、海沼夫人、小坂一也、浜木綿子、少女合唱団「三鈴会」の団員は、地元の学校の先生が推薦する選りすぐりの生徒たち。合唱団のピアノは、沼津の伴野悦子さん(富士山東表口登山道を拓いた伴野佐吉の孫)が受け持った。
                  ▲熱海の観光会館にて

  ・数多くの作曲家とコンビを組んだ。コンビを組んだ作曲家は、小室等、長谷川きよし、杉田二郎、 杉本真人、後藤悦治郎ほか。
  ・ 昭和四十四年、喉頭癌の手術で声帯を失った。故郷の御殿場に帰郷。呼気発声法を編み出し、声を失った人たちに伝授。知事から感謝状が贈られた。
  ・御殿場東小学校の校歌、創立20周年を記念して国立駿河療養所准看護学校の校歌を手掛ける。共に、作詞:稲穂雅巳、作曲:足羽章。

▲詩集『残照』(育成社)昭和六十三年八月二十二日発行
この詩集には「やさしいお母さま」「さよならの歌」は掲載されていない。
▲三鈴正人(稲穂雅巳の号)「春」「夏」「秋」「椿と母子」の絵

  ・ 平成二年六月二日、川田正子は静岡県御殿場市を訪れ、市長と面談したあと、同市ぐみ沢の稲穂の家に立ち寄った。『森の木』第四号(平成二年七月十日発行)に対談の記録が残っている。
   稲穂:マーちゃん(川田正子)はおとなしい、いい子でしたね。タカちゃん(川田孝子)の方は・・・・
   正子:あの子は男の子みたいだったでしょう。
   稲穂:私の「やさしいお母さま」ね、本当は、タカちゃんが歌う事になっていたんですよ。
   正子:あら、初耳だわ。でも、どういうイメージになったのかしらね。今思うとちょっと不思議だわ。
   稲穂:スタジオに着きましたらね、タカちゃんが眠っちゃって、そしい起こしたら「歌うのいやだ」って駄々をこねて・・・。
   正子:まあ・・・
   稲穂:海沼先生も困ってしまいましてね。丁度「音羽ゆりかご会」を連れていましたから、その中の大道真弓さんが急拠歌う事になって。
   正子:そうでしたの。あの歌は、大道さんのデビュー曲でしたわよね。
   稲穂:そう、私としても、最も愛着のある歌です。タカちゃんが眠らなければ、タカちゃんのデビュー曲になったかもしれませんでしたね。

▲稲穂家にて 稲穂雅巳と川田正子 ▲稲穂雅巳「童心とは」

▲童謡集『晩鐘』(育成社)
平成二年七月一日発行
この童謡集には「やさしいお母さま」
「さよならの歌」は掲載されていない。

               ▲赤字の校正が見られるページ
         『愛の種々相と童謡』(次集)に改訂して掲載する予定だったようだ。

 ・ 平成六年三月二十日(1994年)、鳥取県で行われた田村虎蔵没後50年記念 第5回「ふるさと」音楽賞日本創作童謡コンクール(同県、日本童謡協会など主催)で、静岡県御殿場市ぐみ沢の稲穂雅巳作詞、東京都豊島区池袋本町の足羽章作曲の「カバさんのあくび」が最優秀の「ふるさと」音楽賞を受賞した。受賞の翌月には、御殿場中央公園内に「やさしいお母さま」の歌碑が立った。


 ・ 平成七年(1995年)三月三十一日、妻みね子逝去。

 著者・私、池田小百合は、平成七年夏、御殿場市中央公園の「汽車ぽっぽ」「やさしいお母さま」の歌碑の写真を撮りに行った事を、稲穂雅巳に手紙で報告すると、詩集『残照』と童謡集『晩鐘』が送られて来た。
                       ▲平成7年9月13日、娘夫婦と同居。本を二冊送った事が書いてある。

  ▲詩集『残照』の裏紙に走り書きのメモがある。まだ未完の詩。
  母さんが亡(なく)なって二(ふた)七日の晩 父さんは死ぬまで
   うたを書いて下さいと云って夢枕に現れる
    生ある時と同じように ほほ笑んでいた
    その夢の中で何となく歌った

      一 とんびが輪を書き笛を吹く
        富士のお山のてっぺんで
         ぴーろろ ぴろろと 笛を吹く

      二 お山は晴れたぞ晴天だ
         六根清浄で登って来い  とんびが笛ふき呼んでいる
         ぴーろろ ぴろろと まねく笛

     六月一日の朝。夢の中で歌った童謡 母さんと二人で、いろいろと話した。
    その時に出たうた。忘れまいと思っていたので それからねむれなかった

   この頃、鳥取ではコンクールの録音テープを配布していた。
  私・池田小百合も受け取ったので、「稲穂先生にも送りましょうか」と手紙を出すと、「自分の家にも送られて来たと思うが、取り込んでいたので所在がわからない。まだ聴いていないので、送って下さい」との事だったので、ダビングして送った。


▲平成7年10月25日、テープのお礼状

▲平成7年11月、妻みね子の喪中の葉書

▲平成9年(1997年)の年賀状 椿の絵

▲平成9年5月20日、八十九歳の時の便り

▲平成9年7月3日、暑中見舞状

⇒平成七年「祭りの夜」の詩と楽譜に同封の手紙

  【稲穂雅巳の言葉】
  「私にできるのは童謡を書く事だけ。命がある限り子供の心を忘れず、書き続けたい」。
 毎日のように構想が浮かぶとメモにペンを走らせていた。
 平成十一年(1999年)四月二十二日に亡くなりました。文通をした葉書・手紙が沢山残っています。平成十一年は、NHK『おかあさんといっしょ』から「だんご3兄弟」が大ヒットしていました。
            ▲1995年秋の作品「祭りの夜」 平成七年十一月四日、池田小百合へ送られた自筆原稿と楽譜。


  【海沼實の略歴

  【後記】
   稲穂雅巳氏とは、長く文通をしていたので、資料が沢山あり、まとめるのに手間取りました。
  「やさしいお母さま」の関係者(作詞者の稲穂雅巳氏・作曲者の海沼實氏・歌手の川田正子氏・御殿場の歌碑建立に貢献した仁藤祐治氏)は、すでに亡くなり、歌も、童謡や唱歌の出版物から外されています。
  みんなで歌い継いで行きましょう。歌わなければ消えてしまいます。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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