池田小百合トップページに戻る
なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る
池田小百合 なっとく童謡・唱歌 |
橋本国彦・佐々木すぐる作曲の童謡唱歌 |
朝はどこから 赤ちゃんのお耳 スキーの歌 |
都築益世の略歴 |
童謡・唱歌 事典 (編集中) |
【初出】 『新訂 尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)昭和七年発行に掲載されました。 ※『新訂尋常小学唱歌』参照。 【歌詞について】 スキーに乗って野山を滑る元気な気持ちを歌ったものです。 「日の影」日の光のこと。 「はゆる」光りにあたって輝く。 「一白影なき」一面に真っ白な。 「躍れば」(飛鳥のように)飛び越せば 「さながら」まるで。 「飛鳥の心地」飛んでいる鳥のような気持ち。
【曲について】 イ長調(A Dur)、四分の四拍子、♩=120、二部形式で作られています。「かがやくひのかーげ」は、リズムが生き生きしています。「はゆーるーのやーま」は音程の幅の広い音の高さを正しく歌う事が大切です。ここを正しく歌うのは難しい。元気で躍動感のみなぎったものになっていますから、スキーに乗った時のような、爽快な気持ちで、はぎれよく元気に歌いましょう。 この時代の曲は、国民歌謡に見られたような、溌剌(はつらつ)とした曲調がめだつ。 <コーダについて> コーダ=曲の終結部。終結を完全にするための部分。この曲では、最後にコーダが付けられています。具体的には、「こゆきはまいたーちーかぜーはーさけーぶ」で終っているが、完全に終結させるために「かぜはさけーぶ」がある。つまり、曲の終わりの言葉を繰り返し、これで終わりですよと念をおしている。ここが曲の山なのでとても強く歌います。コーダを付けることにより重みのある大きな曲になる。コーダの威力は絶大。 <月の沙漠>にもコーダが付いている。歌詞の最後の二行がコーダになっている。長い(終止部)が加わり雄大な曲に仕上がっている。 <椰子の實>にもコーダが付いている。ABの二部形式ですが、三番に締め括りの五小節の節(結尾)が加えられ終わるようになっています。コーダが、この曲の山になっている。 <シャボン玉>にもコーダが付いている。曲をつける時、一連と二連、三連と四連を対として五連で結び一曲として仕上げました。初めの八小節の繰り返し(AA)と、コーダ(B)の四小節からなっています。(AABの旋律形)。それに前奏四小節と後奏四小節が付いています。 【異彩を放つ名曲】 最後、コーダの部分は、二重唱で歌ってみましょう。合唱の基本的な形が、ここにあります。 この曲には、これまでの唱歌と違う新しい試みがなされています。それがコーダの二重唱です。 【教科書での扱い】 ・『初等科音楽四』国民学校初等科第六学年用(文部省)昭和十七年十二月発行には掲載されていません。時雨音羽作詞 平井康三郎(保喜)作曲の<スキー>(♪山は白銀、朝日を浴びて)が載っています。 ・昭和二十二年、最後の文部省編纂の教科書には掲載されていない。『五年生の音楽』(文部省)に、別の岩佐東一郎作詞 イギリス民謡<スキー>(♪すべるよ、すべる、雪の山を)が掲載されている。 ●民間の教科書、『小学生の音楽6』(音楽之友社)昭和三十三年発行には、<スキー>(部分二部合唱)のタイトルで掲載されている。これは間違い。<スキーの歌>が正しい。 この教科書には、文部省唱歌 橋本国彦作曲と書いてある。林柳波作詞と書かれていないのには、何か理由があるのでしょうか。 イ長調(A Dur)、四分の四拍子、♩=120は同じです。(リズムと音の高さを正しく、はずんで歌いましょう)と書いてある。子どもでも弾けるように簡易伴奏が付いています。 ・昭和五十二年改訂から小学校音楽共通教材(歌唱)の第五学年用に選ばれました。 ・『小学生の音楽5』(教育芸術社)平成八年発行には、<スキーの歌>のタイトルで掲載。文部省唱歌 林柳波作詞 橋本国彦作曲と書いてある。ト長調(G Dur)に移調してある。四分の四拍子、♩=112~120。 ・平成二十一年発行の小学五年生の教科書にも掲載されている。 【林柳波の略歴】『ウタノホン』「うみ」参照 【橋本國彦の略歴】 ・明治三十七年(1904年)九月十四日、東京・本郷で生まれました。 ・大正十二年(1923年)、大阪府立北野中学校(現・北野高校)卒、東京音楽学校(現・東京藝術大学)器楽部入学。ヴァイオリンを専攻。ヴァイオリンは安藤幸に学ぶ。指揮法も学ぶ。作曲は独学だったが、同校研究科で作曲を学んだ。 ![]() ・昭和三年(1928年)、歌曲「お菓子と娘」(西條八十作詞)、「黴」「笛吹き女」「斑猫」(深尾須磨子作詞)で作曲家としての名声を取得。その他、管弦楽曲では「感傷的諧謔」を作曲。 ・昭和四年(1929年)、母校講師を勤め、またヴァイオリニストとして活躍。歌曲「舞」(深尾須磨子作詞)、「あぶくなら」「親芋子芋」(浜田廣介作詞)、「お六娘」(林柳波作詞)、「旅役者」「百姓唄」(北原白秋作詞)、「富士山見たら」(久保田宵二作詞)を作曲。 ・昭和五年(1930年)、「田植唄」(林柳波作詞)を作曲。「幌馬車」(1931年 西條八十作詞)、「スキーの歌」(1932年 林柳波作詞 新訂尋常小学唱歌)、「ぼろぼろな駝鳥」(1933年 高村光太郎作詞)を作曲。 ・昭和八年(1933年)、母校の教員に就任(昭和五年 教務嘱託、昭和八年十月時点で講師)。バレエ音楽「天女と漁夫」を作曲。 ・昭和九年(1934年)、皇太子殿下御誕生奉祝大演奏会で、カンタータ「皇太子殿下御誕生奉祝歌」の作曲と指揮をして、作曲者、指揮者として認められた。昭和九年十月時点と昭和十五年二月時点で助教授、昭和十五年十月時点で教授。 ・文部省の命により昭和九年(1934年)から昭和十二年(1937年)の間、ウイーンに留学する。エゴン・ヴェレッシュ(ヴェレス)に師事。積極的に新しい音楽を学んだ。 <十二音音階と橋本> 十二音音階は、十二の半音からなる音階。半音階は幹音から半音変化された派生音が生じている形であるのに対して、十二音音階は、幹音、派生音の区別なく全部の音を同時に取り扱うもの。現在行われている十二音の技法はシェーンベルクによって開発されたものであって彼はそれを「十二の互に隣接する音のみに関係づけられた音による作曲」と言っている。 橋本國彦は、東京音楽学校を昭和二年(1927年)に卒業。東京音楽学校にはその頃作曲科が置かれてなく(設置されたのは1933年)ヴァイオリンを専攻。文部省留学生としてドイツに渡り、エゴン・ヴェレッシュ(ヴェレス)、エルネスト・クシェネックなど、当時の前衛作曲家たちの教えを受けた。このころはまだシェーンベルクも十二音技法はとってはいなかったにせよ、ウイーンでの、いわゆる新ウイーン楽派の影響は、山田のドイツ後期ロマン派のそれよりも強かったようである。橋本は帰国途中に寄ったアメリカ・ロサンゼルスでシェーンベルクに会い、作曲上の諸問題、書法についての教示を得ている(『日本歌曲全集』解説書 畑中良輔著『日本歌曲について』より抜粋)。 ・帰国後は、母校で理論や作曲の教鞭をとった。音楽教育者としても評判がよかった。作曲、編曲家として活躍。門下には朝比奈隆、畑中良輔、矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎、大中恩、清水脩、高橋悠治らがいる。 ・昭和十五年(1940年)、皇紀二千六百年奉祝曲の『交響曲第一番ニ調』を作曲。シャンドル・ヴェレシュの交響曲「日本の皇紀二千六百年へのハンガリーからの贈り物」の初演を指揮した。また、十二音技法による創作を試みた。(1943年)には交声曲「英霊讃歌」を作曲。 ・軍国歌謡も多数作曲している。 「廟行鎮決死隊の歌」(1932年 佐伯孝夫作詞)、「母の歌」(1937年 板谷節子作詞)、「大日本の歌」(1938年 芳賀秀次郎作詞)、「國民協和の歌」(1941年 大政翼賛会作詞)、「大東亜戦争海軍の歌」(1942年 河西新太郎作詞)、「戦ふ花」(1944年 深尾須磨子作詞)、「学徒進軍歌」(1944年 西條八十作詞)、「勝ち抜く僕等少國民」(1945年 上村数馬作詞)などを作曲。 ・戦後は、戦時下の行動の責任を取って母校を辞任。 ・昭和二十年(1945年)、「四季の組曲」(深尾須磨子作詞)を作曲。 ・昭和二十一年(1946年)、NHKラジオ歌謡「朝はどこから」(森まさる作詞)を作曲。 ・昭和二十二年(1947年)、「交響曲第二番へ調」は新憲法発布を記念して初演された。 ・昭和二十三年(1948年)、戦禍に倒れた人々を追悼するために独唱と管弦楽のための「三つの和讃」を作曲。 ・昭和二十四年(1949年)五月六日、胃癌のため四十四歳で鎌倉にて逝去した。あらゆるジャンルの作曲をした。日本ビクターの専属作曲家だった。1948年のNHKラジオ歌謡「アカシヤの花」(松坂直美作詞)が遺作となった。 【「ラジオ体操第三」のピアノ曲を作曲】 初代1939年12月1日から1946年4月13日まで放送。これは現存しない。 二代目は1946年4月14日から1947年8月31日まで放送。二代目の「ラジオ体操第三」は、両腕を大回転して屈伸したり、両脚を開閉してリズム良く跳びはねるなどの複雑で躍動的な動きが特色。放送時は音声でその動きを伝えるのが困難なため、普及せず、短期間で放送が終了した。 近年、スポーツブームで、その激しい動きが注目され、再び挑戦する人々が出現。先日、朝のNHKニュースで体育館に集まって「ラジオ体操第三」を行う人々を放送したが、参加した人は一様に息切れしていた。「かなりきついです」「いい運動になります」「一汗かきました」「一種のスポーツですね」という感想でした。高齢者には無理です。 ≪著者・池田小百合≫ 著作権についてお願い ![]() |
【詞の成立】 「赤ちゃんのお耳」と同じ成立経過で、朝日新聞社が募集した『ホームソング』です。一九四六(昭和二十一)年三月十四日(募集の記事)と、昭和二十一年五月十一日(発表の記事掲載)の『朝日新聞』は、朝日新聞社広報室で見る事ができます。 【詞の募集内容】 朝日新聞社は、敗戦の翌年の昭和二十一年三月十四日(木曜日)の紙面で『ホームソング』を募集しました。紙面は次のようです。「今の日本には子供も、大人も、みんなが聲を合せて歌へる樂しい朗かな歌がない。みんなが揃つて心愉しく歌へる『ホームソング(家庭の歌)』を募集する」。募集規定「歌詞平明、微笑ましい機智のある家庭の歌、題は随意だが新鮮なる格調を希望す。章節は三節以内。入選二篇(賞金一千円づつ)。応募方法・・・締切は三月三十一日。発表四月下旬」。 【詞と曲の発表】 応募作品一万五百二十六篇の中から審査の結果、一般向には、森まさるの「朝はどこから」、児童向には都築益世の「赤ちゃんのお耳」の二篇が入選と決定し、昭和二十一年五月十一日(土曜日)の朝日新聞紙上で発表しました。「樂しく唱はうホーム・ソング」という大見出しの紙面には、歌詞と楽譜が同時に掲載されています。「朝はどこから」の作曲は橋本國彦。「赤ちゃんのお耳」の作曲は佐々木すぐる。いずれの楽譜にも「朝日新聞社撰定」と書いてあります。そして「近く発表会を行ふが、十二日からNHKのラジオ歌謡の時間に放送する」と予告があります。入選発表の翌日には、ラジオから歌が放送されたことになります。 ●長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア、平成十九年発行)に「3月3日、応募作品10,526篇の中から1等当選」と書いてあるのは間違い。 【放送時期】 <国民歌謡>の歴史を継ぐ歌番組<ラジオ歌謡>がスタートしたのは昭和二十一年五月一日でした。この時は週二回、日曜日と水曜日の朝七時四十五分から八時までの放送だった。 第一回、一作目は「風はそよ風」で東京放送合唱団と東京放送児童合唱団が歌った。 二作目は「朝はどこから」で、予告のとおり五月十二日から放送された。 安西愛子の歌唱指導のもと東京放送合唱団が歌いました。 四作目の「赤ちゃんのお耳」も、六月十六日から東京放送児童合唱団の歌で放送になりました。 ●しかし、季刊『どうよう』(チャイルド本社)第9号に足羽章が書いた「童謡制作の想い出」には「レコードと同様のコンビで放送となり」とあり、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)昭和五十四年発行には「岡本敦郎と安西愛子が東京放送合唱団の女声コーラスをバックに歌った。安西と岡本がハモッて歌ったのが、当時はまだ珍しい試みで新鮮な感じを与えた」と書いてあります。いずれも記憶違いです。 【レコードの発売】 歌は、復員兵の帰郷にともなう「希望の家庭」と「ベビーブーム」の始まりで反響を呼び、日本コロムビアからラジオ放送に合わせてレコードが録音・発売されました。これはコロムビアが戦後制作発売した最初のレコードです。 A面は「朝はどこから」(レコード番号A97a/1946年(昭和21年)5月20日録音/昭和21年6月発売)で、B面は「赤ちゃんのお耳」(レコード番号A97b/1946年(昭和21年)5月15日録音/昭和21年6月発売)でした。 (註)レコードについては、CD『20世紀の軌跡ラジオの時代3』復刻担当 郡修彦による。 【「朝はどこから」レコードの歌唱】 歌:岡本敦郎、安西愛子、コロムビア女声合唱団 「朝はどこから」のレコードでは、歌の一番は、岡本敦郎の独唱で始まり、後半コロムビア女声合唱団が入ります。最初の四行までが独唱で、後半が合唱になっていますが、歌手が否定である「いえいえさうではありませぬ」も歌うのはおかしいのではないでしょうか。「お早よう」「お早よう」の部分で歌手と女声合唱団のかけ合いがあります。歌手と合唱団のかけ合いは、当時としては画期的な試みでした。 二番は安西愛子の独唱で、後半コロムビア女声合唱団が入ります。安西愛子は、「歌は話し言葉のように歌う」をモットーにしていたので、当然「かてーから」と歌っていると思いましたが、女声合唱団と一緒に「かていから」と歌っています(岡本敦郎も同じ)。 三番は、安西愛子とコロムビア女声合唱団で歌われ、後半から岡本敦郎も加わります。男性の声が入る事で、いっそう活気に満ちた歌になります。 武蔵野音楽学校を卒業したばかりの岡本敦郎は、戦後第一回のオーディションでコロムビアへ入りました。この歌がデビュー曲となりました。編曲は作曲者の橋本國彦。ディレクターは足羽章。 ●季刊『どうよう』(チャイルド本社)第9号に足羽章が書いた「童謡制作の想い出」の「歌手は、一、二番は安西愛子さんと、新人の岡本敦郎さんと二人で掛け合いと二重唱を、三番は女声合唱で盛り上げることにして録音しました」は記憶違い。 <岡本敦郎さん逝く> 岡本敦郎(おかもと・あつお)さんが平成二十四年十二月二十八日、脳梗塞で亡くなった。享年八十八歳。北海道小樽市生まれ。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)を卒業後、一九四六年、日本コロムビアの専属歌手になり、安西愛子さんと組んで歌ったラジオ歌謡「朝はどこから」でデビューした。澄んだ美声の正統派歌唱でNHKの<ラジオ歌謡>を中心に活躍した。「白い花の咲く頃」などの叙情歌を大ヒットさせた。紅白歌合戦には第二回から計七回出場した。代表曲は他に「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」「リラの花咲く頃」など。 「お早よう」「今日は」「今晩は」の三つの挨拶の言葉が印象に残るように作曲されている、さわやかな曲です。明るい挨拶は、楽しい家庭から生れるものです。子供たちに歌って伝えたいことです。 【教科書での扱い】 『五年生の音楽』(教育芸術社)昭和三十年発行に掲載の『朝はどこから』は、「いえいえ そうではありません」となっています。 以後これにならって「ありません」の出版物が多くなりました。「現代かなづかい」の施行により「ぬ」「む」「ん」の表記が「ん」に統一されたためです。 しかし、「ありませぬ」を「ありません」にすると初出がわからなくなってしまいます。 【『朝はどこから』の作詞者】 森まさるの本名は森勝治。昭和三十四年埼玉県県会議員に当選、二期務めた後、昭和四十年、埼玉選出の参議院議員に当選、二期務めました。『朝はどこから』は、森まさるが埼玉県浦和市高砂町(現・さいたま市浦和区高砂)に住んでいた三十二歳の時の作品です。 ≪著者・池田小百合≫ 著作権についてお願い ![]() |
|||||||||||||||||||
【詞の成立】 「朝はどこから」と同じ成立経過で、朝日新聞社が募集した『ホームソング』です。一九四六(昭和二十一)年三月十四日(募集の記事)と、昭和二十一年五月十一日(発表の記事掲載)の『朝日新聞』は、朝日新聞社広報室で見る事ができます。 【詞の募集内容】 朝日新聞社は、敗戦の翌年の昭和二十一年三月十四日(木曜日)の紙面で『ホームソング』を募集しました。紙面は次のようです。「今の日本には子供も、大人も、みんなが聲を合せて歌へる樂しい朗かな歌がない。みんなが揃つて心愉しく歌へる『ホームソング(家庭の歌)』を募集する」。募集規定「歌詞平明、微笑ましい機智のある家庭の歌、題は随意だが新鮮なる格調を希望す。章節は三節以内。入選二篇(賞金一千円づつ)。応募方法・・・締切は三月三十一日。発表四月下旬」。 【詞と曲の発表】 応募作品一万五百二十六篇の中から審査の結果、一般向には、森まさるの『朝はどこから』、児童向には都築益世の『赤ちゃんのお耳』の二篇が入選と決定し、昭和二十一年五月十一日(土曜日)の朝日新聞紙上で発表しました。「樂しく唱はうホーム・ソング」という大見出しの紙面には、歌詞と楽譜が同時に掲載されています。『朝はどこから』の作曲は橋本國彦。『赤ちゃんのお耳』の作曲は佐々木すぐる。いずれの楽譜にも「朝日新聞社撰定」と書いてあります。そして「近く発表会を行ふが、十二日からNHKのラジオ歌謡の時間に放送する」と予告があります。入選発表の翌日には、ラジオから歌が放送されたことになります。 入選者の顔写真や経歴も紹介されており、女性名と誤認しやすい都築益世氏も男性であることが分る。 ●長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア、平成十九年発行)に「3月3日、応募作品10,526篇の中から1等当選」と書いてあるのは間違い。 【「赤ちゃんのお耳」の直筆楽譜】 『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱 歌・童画100』(平凡社)で「赤ちゃんのお耳」の直筆楽譜を見る事ができます。 タイトルの左側に3の数字が書いてあります。右側には五月六日、その下には都築益世作詞と書いてあります。発表は、昭和二十一年五月十一日(土曜日)の朝日新聞紙上なので、五日前に作曲していたことになります。 へ長調(ヨナ抜き長音階)、四分の二拍子の明るい旋律は、敗戦で暗い生活をしている人々に大きな慰めとなった。曲調は唱歌スタイルに近い。
【放送時期】 <国民歌謡>の歴史を継ぐ歌番組<ラジオ歌謡>がスタートしたのは昭和二十一年五月一日でした。この時は週二回、日曜日と水曜日の朝七時四十五分から八時までの放送だった。 第一回、一作目は「風はそよ風」で東京放送合唱団と東京放送児童合唱団が歌った。 二作目は「朝はどこから」で、予告のとおり五月十二日から放送された。 安西愛子の歌唱指導のもと東京放送合唱団が歌いました。 四作目の「赤ちゃんのお耳」も、六月十六日から東京放送児童合唱団の歌で放送になりました。 【レコードの発売】 歌は、復員兵の帰郷にともなう「希望の家庭」と「ベビーブーム」の始まりで反響を呼び、日本コロムビアからラジオ放送に合わせてレコードが録音・発売されました。これはコロムビアが戦後制作発売した最初のレコードです。 A面は「朝はどこから」(レコード番号A97a/1946年(昭和21)5月20日録音/昭和21年6月発売)で、B面は「赤ちゃんのお耳」(レコード番号A97b/1946年(昭和21)5月15日録音/昭和21年6月発売)でした。 (註)レコードについては、CD『20世紀の軌跡ラジオの時代3』復刻担当 郡修彦による。 【「赤ちゃんのお耳」レコードの歌唱】 歌:加賀美一郎、川田正子、コロムビアゆりかご会 「赤ちゃんのお耳」の作曲は、コロムビア専属作曲家の佐々木すぐるが担当しました。レコードでは、歌は四谷第四小学校児童のボーイソプラノの加賀美一郎が一番を歌い、昭和二十一年一月二十四日にコロムビア専属歌手になったばかりの川田正子が二番を歌い、三番は一緒に歌いました。そして、もう一度一番から三番までを、コロムビアゆりかご会が繰り返し歌って終わります。川田正子もコロムビアゆりかご会も、「きれーな お耳」と話すように歌っています。佐々木すぐるのオーケストレーションと指導、ディレクターは足羽章で録音しました。 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)の解説に「佳作入選」「昭和22年7月にレコード発売」とあるのは記憶違い。
【都築益世(つづきますよ)の略歴】 ・明治三十一年(1898年)六月二十九日、大阪市玉造で生まれた。女性名と誤認しやすいが、男性である。 ・大正九年八月号の雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)に「てんとう蟲」が「推奨」され、童謡詩人として出発。
募集童謡について北原白秋は“今月推奨の「てんとう蟲」(都築君)は簡潔でいゝ。太鼓たゝいてがいゝ”と書いている。 後に中田一次が作曲し、『ら・て・れ』昭和三十三年九月号に発表した。 『赤い鳥』『金の船』『おとぎの世界』の定連投書家としてそのリーダー格だった。入選を繰り返し、子どもらしい目と言葉を通して風物風景、人物などを自然観照風に歌ったおだやかで温かさに満ちた童謡を書いた。 <童謡同人誌『とんぼ』> ・大正九年(1920年)九月、童謡投書家たちの中での独自の集まりが発足。都築益世、加田愛咲(かだあいさく)、佐藤勝熊など、初期の『赤い鳥』『金の船』の童謡作家二十四名が出席し、第一回「東京童謡会」(あるいは「『金の船』童謡会」と言われていた)は、二十六日午後一時から四谷區舟町(ふなまち、現・東京都新宿区舟町)三番地 都築病院の三層楼上で盛大に開かれた。 ・大正十年(1921年)四月、「日本童謡会とんぼ社」を結成。四月号から九月号まで機関誌『とんぼ』(日本童謡会)を刊行。『童謡研究月刊雑誌 とんぼ』は四月一日創刊、六冊発行して九月廃刊。九月以降は「東京童謡研究会」となった。都築益世が『とんぼ』を創刊したのは医学部在学中でした。 “創刊された『とんぼ』は、編輯人を加田愛咲、発行人を都築益世としているが、顧問として北原白秋、西條八十、野口雨情、三木露風、山村暮鳥、藤森秀夫、西川勉、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世という当時の代表的な詩人・作曲家の名前が挙がっている。同人の作品のほかに白秋、八十、雨情をはじめ山村暮鳥、西川勉、藤森秀夫も寄稿しており、かなり本格的な童謡誌となっている。『金の船』という商業誌を母体にして発足した事、当代の代表的詩人・作曲家を顧問にして権威づけをしていることなどからすると、自立した同人誌と言えるのかどうか疑問であるが、「白秋門下とはちがった、行動的で会合ずきの都会育ちの童謡愛好学生」の集まりと見るならば、本格的な童謡同人誌の先駆として位置づけることができよう。 しかし、第六号(1921年9月)で終刊してしまった。この間、同人で活躍したのは、都築益世、加田愛咲、中条辰夫、黒田光明、山田健二、佐藤勝熊など数名である。特に加田愛咲は作品と研究の両面で活躍し、都築益世とともに注目された。顧問では山村暮鳥と野口雨情が作品を寄せる機会が多く、西川勉は研究的文章を積極的に寄せていた。総じて、童謡史に残るような作品や斬新な作品は見られず、研究的なエッセイにおいても特に注目するようなものもなく、『とんぼ』は結局、童謡同人誌の先駆という存在意識だけにとどまった” (畑中圭一著『日本の童謡 誕生から九〇年の歩み』(平凡社)による)。 仙台の天江登美草(あまえとみぞう)、鈴木栄吉(筆名・スズキヘキ)などの童謡誌『おてんとさん』(1921年3月15日創刊、発行所「おてんとさん社」)、吉井友海の『童詩』にも参加。 ▼「赤ちゃんのお眼」前島とも・絵 『コドモノクニ』(東京社)昭和十年九月号掲載 ・大正十一年十月、『とんぼ』の総決算であるアンソロジー『影絵の国』(米本書店)出版。 その後、『詩篇時代』『炬火』『民謡音楽』『創作地帯』『獅子』『プレイアド』『時雨』などに関係。葉室金泥、君島茂と号したこともある。 ・東京市四谷第二尋常小学校、東京府立第二中学校、慶應義塾大学予科を経て、大正十三年(1924年)、慶応義塾大学医学部卒業。 ・昭和七年(1932年)、医学博士となり、昭和十年一月以来、東京四谷で小児科医を開業している。 ・昭和十五年、十一月に『童謡集』(竹村書房)出版し、童謡詩人に復帰。童謡詩人会会員。 ・戦後、朝日新聞社のホームソングに「赤ちゃんのお耳」が入選。当時は四十九歳で、山梨県西八代郡富里村下部九九六に住んでいました。 戦時中は疎開学童の常駐医として子供たちの保健衛生に専念していました。 ・「赤ちゃんのお耳」は、お医者さんらしい歌詞です。昭和十七年に、『コドモ ノクニ』(東京社)八月号に「お耳」として発表した詩を改作したものです。改作したので、タイトルも「赤ちゃんのお耳」に変えてあります。「赤ちゃんおふろ」(『ら・て・れ』昭和二十三年二月号発表)という詩も書いています。 <らてれの会の『ら・て・れ』> “童謡の同人誌『ら・て・れ』は、一九五七年六月一日に創刊された。発行所は東京都杉並区天沼(あまぬま)の都築益世(つづきますよ)方、らてれの会で、「編集責任」として勢〆(せしめ)信義、高田三九三(さくぞう)、都築益世の名前が挙がっている。 創刊時の同人は安藤徇之介(じゅんのすけ)、青戸かいち、小島秀一、勢〆信義、高田三九三、多胡羊歯(たこようし)、都築益世、額賀誠志(ぬかがせいし)、額賀たかし、羽曾部忠(はそべただし)、武鹿(ぶしか)悦子、水上(みずかみ)不二、米山愛紫など二〇人だった。その後、遠藤和多利(わたり)、神沢(かんざわ)利子、木坂俊平、小春久一郎(ひさいちろう)、古村徹三、近藤益雄、高橋仁、坪松一郎、長野晶水、水谷京(たかし)、湯沢淳などが同人として入会している。 創刊の辞には、ラジオの「ら」、テレビの「て」、レコードの「れ」から『ら・て・れ』という誌名が生まれたことを告げたあと、次のように主張している。 童謡は、文学としては詩を、形態には音楽性を、子どものための うた としては普遍性を。(中略)詩も 曲も 印刷だけにとどまっては、その使命が 不十分である。そこで さらに広く協力を求め、『ら・て・れ』を、子どもの文化財として 意義ある仕事に 発展させたい。 ここにはマス・メディアとの連携または協力関係を確立して、童謡を「子どもの文化財」として広めたいという意図が見える。童謡の社会的・文化的意義というものを打ちだした新しい童謡観である。 『ら・て・れ』は、判型もユニークで、第二八号までは新書版スタイルという斬新なものであったが、第二九号から終刊まではA五判というオーソドックスな判型となった。 このように童謡の普遍性・社会性ということを志向して出発した『ら・て・れ』は、新曲の曲譜を毎号数多く発表し、また同人以外の人たちにも執筆依頼して、童謡に関する評論やエッセイを掲載した。なかでも都築益世が執筆したエッセイ「なおざね談義」は評判がよく、終刊号まで連載された。 しかし、次第に同人数が増えて組織が大きくなったために、マス・メディアと連携して童謡を広めようという当初のねらいに足並みをそろえるのが難しくなり、同人がそれぞれの童謡世界を充実させるというかたちで『ら・て・れ』は刊行されていった。創刊から七年後の一九六四年五月、『ら・て・れ』は通巻三三号で終刊した。ただし、別冊が二冊(「安藤徇之介追悼集」「小島秀一追悼集」)あったので、発行総冊数は三五冊です” (畑中圭一著『日本の童謡 誕生から九〇年の歩み』(平凡社)による)。 ・都築益世は親分肌の親切な人柄により、いつもグループの中心的な存在になり、数多くの同人をまとめながら、みずからも創作をつづけた。 ・昭和三十六年、『メロンとらくだ』というアンソロジーも出版した。 ・昭和三十八年(1963年)、『都築益世作品集 幼児のうた』(ら・て・れの会)出版。 ・昭和三十九年五月、『ら・て・れ』廃刊の後は、昭和四十一年『山びこ』を創刊した。 ・昭和四十五年十月、『てっくりてっくり・てっくりこ』(日本詩人連盟)出版。 ・日本童謡協会、日本詩人クラブ、児童ペンクラブに所属。主な著書に詩集『明るい街』(1931年)、童謡集『ふしぎな家』、『都築益世詩集』(1978年)などがある。 以上は藤田圭雄著『解題 戦後日本童謡年表』(東京書籍)を参考にしました。 ・昭和五十八年(1983年)七月十六日、逝去。
●元コロムビアレコード会社のディレクター足羽章は、日本童謡協会編 季刊『どうよう』第9号(チャイルド本社)の<私の制作した童謡 童謡制作の想い出「赤ちゃんのお耳」>で、“作者は東京都杉並区荻窪の都築益世さんという小児科のお医者さんでした”と書いている。 インターネットで検索してみると、現在の東京都杉並区荻窪2-31-5に『都筑外科・形成外科医院』がある。連絡をしてみると、全く違っていました。そもそも病院は「都筑」で「都築」ではありません。私も早とちりをしましたが、足羽さんも勘違いされたようです。都筑医院の先生にはお忙しいのに御迷惑をかけてしまいました。お詫びをしました。 以上のように、この季刊『どうよう』(チャイルド本社)第9号に足羽章が書いたものは、記憶違いが多い。 次のようなあいまいな文で始まっています。“終戦年の末であったか、或いは翌二十一年の正月であったか定かではないですが、朝日新聞社の音楽記者、野呂信次郎氏から私に電話があって、「この暗い荒涼とした世の中を、少しでも明るくしたく、誰もが口ずさめる楽しい健康的な歌、いわばホームソングを一般から懸賞募集しようと思うので、手伝ってくれませんか」との事でした”。 しかし、重要な事も書いてあります。“作曲について、朝日新聞社としては、レコードA面の「朝はどこから」を橋本国彦氏に依嘱するが、B面の「赤ちゃんのお耳」は足羽さんにまかす、との事なので、当時、私が勤めていたコロムビアの専属作曲家、佐々木すぐる先生にお願いする事にしました。なお、橋本国彦先生は、ビクターの専属でしたが、この出来上がりの曲の版権は朝日が買い上げることになっていて、コロムビアでの録音は差し支えない、との事でした”。 藤田圭雄著『日本童謡史 I 』(あかね書房)には、“都築の行く所、どこにも笑いがあり、にぎやかな雰囲気を身につけた人だ”と書いてある。 ●「昭和五十七年七月十六日死去」の昭和五十七年は間違い。正しくは昭和五十八年。 【収録】 国土社の詩の本1 昭和五十年(1975年)十月二十五日初版発行 「山の春」以下四十五篇。 「赤ちゃんのお耳」「赤ちゃんおふろ」「てんとうむし」も収録してあります。 ■著者 都築(つづき)益(ます)世(よ) 一八九八年大阪に生まれる。一九二四年慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。日本童謡協会、日本新人クラブ、児童ペンクラブに所属。主な著書に詩集『明るい街』、童謡集『ふしぎな家』等がある。 ◆現住所=〒167東京都杉並区天沼3-22-12 以上は「国土社の詩の本1」による。 ●初出発表年月「東京朝日新聞」昭22・9の「東京朝日新聞 昭22・9」は間違い。 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の「昭22・7改作」は間違い。 【後記】奇妙な名前 童謡『赤ちゃんのお耳』の作詞者は、都築(つづき)益(ます)世(よ)。 「(つづきますよ)だなんて、これは絶対に本名じゃあないね」と夫が言い出した。今まで思ってもみなかった事だ。言われてみれば、(つづきますよ)とは奇妙な名前だ。 「調べてみても、(都築益世)はペンネームと書いてある物がない。本名と書いてあるものもない。やはり、これは本名で、ペンネームとして使っていたのだと思うわ」。 略歴によると、文学者仲間では親分肌の親切な人柄により、いつもグループの中心的な存在になり、昭和三十二年には、ラジオ、テレビ、レコードの略称を誌名とした『ら・て・れ』を創刊。都築の行く所、どこにも笑いあり、にぎやかな雰囲気を身につけた人だったようだ。 「ほーら、みんな、だまされていたのさ。都築益世が創刊した同人雑誌や、創作した童話・童謡が(つづきますよ)とは、なかなかいいじゃないですか。しかし、小児科医院を開業していたのなら、医者の名前が(つづきますよ)ではいけない。病気が(つづきますよ)では、患者が来ない。これは絶対にペンネームであって、本名ではないね。医者をする時は、本名の都築○○だったと思うよ」。 「そうかなあ、父親の代から医者で、父親もハイカラな趣味人で、そこに男の子が生まれた。何をしようが自由だが、この医院だけは(続きますように)という願いを込めて(つづきますよ 都築益世)にしたのだと思うわ」 「よくそんなでたらめがすらすら出るね」。 たとえば、唱歌『旅愁』の作詞者、犬童球渓(いんどうきゅうけい)の本名は信蔵(のぶぞう)。「犬童」は熊本県に多くある名字で筆名の「球渓」は郷土の球磨川(くまがわ)渓谷(けいこく)にちなんだものです。 「都築益世について、どうやったら調べられるかしら?」 「インターネットで東京都杉並区荻窪の病院を検索すると東京都杉並区荻窪2-31-5に『都筑外科・形成外科医院』があるよ。問い合わせたらどうですか。今訊いておかないと、うやむやになってしまいますよ」と夫が言った。 この一言で、スイッチが入り、手紙を書いた。メールより手紙の方が、誠実と思ったから。一昔前(ひとむかしまえ)は図書館への問い合わせも手紙だった。近日、私へのメールでの問い合わせは全国から頻繁(ひんぱん)に来る。答えを送ると「ワッかりましたぁ」「どうもです」で終わる。「教えていただき、ありがとうございました」の返事が無い場合が多い。 ところが、荻窪の病院に連絡をしてみると、全く違っていました。そもそも病院は「都筑」で「都築」ではありません。私は仰天し、慌てました。返信メールには、「このあたり都筑という姓は割と多いですが、みな都筑であって都築はまれです」と書いてありました。都筑医院の都筑先生には、私の早とちりで、お忙しいのに御迷惑をかけてしまいました。お詫びをしました。 元コロムビアレコード会社のディレクター足羽章さんは、日本童謡協会編 季刊『どうよう』第9号(チャイルド本社)の<私の制作した童謡 童謡制作の想い出「赤ちゃんのお耳」>で、「作者は東京都杉並区荻窪の都築益世さんという小児科のお医者さんでした」と書いている。足羽章さんが書いたものは、記憶違いが多い。 〈愛読者の人の意見〉 都築益世 は本名でしょう。 一、「慶應義塾大学医学部一覧」「慶應義塾大学医学部二十周年記念誌」などの卒業生・学位授与名簿にも 都築益世 とある。 二、益世の弟達の名は 爲世(詩人、大正13年23歳で没)、経世、従世である。 なお、都築姓は愛知県三河地区に多い姓で、陸軍軍医(退官後開業医)であった益世の父甚之助は、現在の愛知県刈谷市出身です。 (2015年11月24日記。教えていただき、ありがとうございました)。 ≪著者・池田小百合≫ 著作権についてお願い ![]() |
|||||||||||||||||||
【著者より著作権についてのお願い】 文章を使用する場合は、<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>と書き添えてください。 |
![]() メール (+を@に変えて) |
![]() トップ |