奥羽古城散策
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長井氏

大江広元は奥州合戦後に全国各地に地頭職を賜り、後に次男の時広には出羽国置賜郡の長井庄の地頭職を継承させた。そして時広は地頭職からとって長井氏を称したのが始まり。しかし、長井氏当主は幕府の要職を務めていたために鎌倉に出仕しており、武蔵国の横山庄の所領に居ることの方が多く、長井庄の経営は一族の代官に任せていたという。南北朝時代には伊達宗遠が置賜郡へと攻め込んで長井庄を制圧し、長井氏は出羽国の所領を失うことになった。その後、室町時代に長井氏は扇谷上杉氏の家臣となった。

歴代当主

【大江広元】 おおえ ひろもと (1148~1225)
 長井氏遠祖。出自は諸説あって定かではない。朝廷の官人だったが、後に源頼朝に仕えて鎌倉に下向した。公文所別当として頼朝を主に政の面で支え、守護地頭の制度を進めたのも広元だとされる。幕府から全国各地の守護・地頭職を与えられ、それぞれ子に分けて継承させている。
【長井時広】 ながい ときひろ (~1241)
 長井氏初代。大江広元の次男。父より出羽国置賜郡の長井庄の地頭職を与えられて長井氏を称した。米沢には長井時広の下向の言い伝えがあるが、時広は鎌倉幕府の要職に付いており、結局は長井庄に下向しなかったともされている。兄・親広が「承久の乱」で失脚したため、事実上の大江広元の跡継ぎであったという。
【長井泰秀】 ながい やすひで (1212~1254)
 長井氏2代目。長井時広の嫡男。父同様に幕府の要職についており、1242年には評定衆となっている。泰秀もまた鎌倉から離れておらず、長井庄の経営は代官に任せていたとされる。
【長井貞秀】 ながい さだひで (1293~)
 長井氏5代目。長井宗秀の嫡男。幕府の評定衆を務めており、先代までと同様に鎌倉に出仕していたが、長井庄の経営にも積極的に関与したようで貞秀を開基とする寺社が米沢にある。
【長井広秀】 ながい ひろひで
 長井氏6代目。長井貞秀の嫡男。広秀は幕府の要職にあったが、1331年の「元弘の乱」では天皇側に味方し、後に足利尊氏、足利直義の傘下に入った。南北朝の騒乱が始まると北朝勢として戦い、1352年の「武蔵野合戦」にも参戦した。北朝が優勢となると主に京都に拠点を置いたという。
【長井時春】 ながい ときはる
 長井氏7代目。長井時千の嫡男。広秀の養子となる。義父同様に北朝勢として活躍する。1348年に置賜郡の成島八幡神社を修復している。
【長井広房】 ながい ひろふさ
 長井氏8代目。長井時春の嫡男。1380年に伊達宗遠が置賜郡へと侵攻し、最初は足利氏満の命で周辺勢力が長井広房に味方したため撃退することに成功した。しかし、その後も伊達軍は執拗に侵攻を繰り返し、「六本仏の合戦」で長井氏名代の新田遠江守が謀殺されたことで長井軍は総崩れとなって敗北した。これにより長井氏一門は置賜郡内の所領を全て失い、武蔵国の所領に引き揚げることになったという。

居城

城名 概略
米沢城 鎌倉時代に長井時広が築いた出羽国における長井氏代々の居城とされる。実際は長井氏当主は鎌倉や京に居ることが多く、築城も管理も代官によるものと考えられている。
長井氏館 長井氏当主は代々幕府の要職にあったため、奥州に下向することはほとんど無く、武蔵国のこの館が実質的な居城だったとされる。
片倉城 長井広秀による築城説があるが定かではない。長井氏は「和田義盛の乱」で失脚した横山党の武蔵国横山庄を与えられており、横山氏の城を改修して利用したとも伝わる。伊達宗遠に奥州の所領奪われた長井広房は、その後はこの城を居城としたという。
初沢城 1504年の立河原合戦で山内上杉氏に攻め落とされた城で、この城を守っていた扇谷上杉氏家臣の長井広直は討死したという。この戦いで長井氏は没落し、長井氏の所領の多くが山内上杉氏家臣の大石氏のものとなったという。

一門衆・家臣団

居城 概略
長井泰茂 米沢城? 一門衆。長井泰秀の弟で、鎌倉から離れられない兄に代わって家臣を引き連れて出羽国の長井庄へと下向したとされる。
新田氏 館山城
田沢城
長井氏家臣。口田沢の領主。平安時代に藤原経衡がこの地を領したのが始まりで、1189年に奥州藤原氏が滅亡した後はこの地の地頭となった大江氏(長井氏)の家臣となった。1380年に伊達宗遠によって新田遠江守が謀殺されるが、伊達氏が置賜郡を制圧するとその家臣となった。
大須賀氏 荒館 長井氏家臣。小出の領主。下総国大須賀郷の出身の大須賀長光が長井泰茂の出羽国長井庄下向に同行してそのまま土着したのが始まり。大須賀長任の代には出家して長遠寺の住職となり義昌を称した。
船山氏 小松城 長井氏家臣。小松の領主。長井時広の家臣の船山因幡守が鎌倉時代に置賜郡に下向し、小松に居を構えたという。