奥羽古城散策
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川原北畠氏

北畠顕信の次男の守親、又は天童丸が津軽へと落ち延びて浪岡北畠氏を補佐するために土着したのが始まりという。しかし、この系統(前期川原氏)は後に断絶したと考えられている。その後、北畠顕具の次男の具信が川原御所を継承して後期の川原北畠氏が生まれたという。川原北畠氏は1562年に「川原御所の変」を起こして滅亡する。

歴代当主

【北畠守親】 きたばたけ もりちか
前期川原北畠氏初代。北畠顕信の次男。父・顕信に従って陸奥国に下向し、南朝の将として各地を転戦したという。1355年の南朝の挙兵時にその名が確認できる。陸奥国の大半が北朝に降った後は南部氏を頼って落ち延び、後に浪岡に移って伯父の子孫である浪岡北畠氏を補佐したという。
【北畠具信】 きたばたけ とものぶ
後期川原北畠氏初代。北畠顕具の次男。川原北畠氏を復興させて川原御所を継承した。後に滝井北畠氏と所領の境界争いを起こし、当主の浪岡北畠氏が滝井北畠氏寄りの判決を出したため、1562年の正月に浪岡御所内で当主の具運を殺害する「川原御所の変」を起こす。この時、具信は子の顕重ともども北畠顕範によって討伐され、川原北畠氏は滅亡した。
【北畠利顕】 きたばたけ としあき
後期川原北畠氏3代目。北畠顕重の嫡男。1562年の「川原御所の変」で父と祖父は討ち取られるが、幼少だった利顕は許されて唯一生き残ったという。1578年に浪岡氏が大浦為信によって滅亡すると、大浦氏の家臣となったという。

居城

城名 概略
川原御所 北畠守親によって築かれた平城で、前期川原北畠氏の時代と、後期川原北畠氏の具信、顕重の頃まで代々の居城となった。
水木館 1562年の「川原御所の変」の後、川原北畠氏一族は討死・離散するが、幼少だった利顕のみが許されて生き残り、この館に移されたという。

一門衆・家臣団

居城 概略
水木氏 水木館
相馬水木館
一門衆。水木(溝城、水渓)の領主。水渓綱親の名が伝わる。1562年の「川原御所の変」の後、浪岡より逃れた一族が相馬郷に隠れ住んだという。