奥羽古城散策
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管理人:貞庵

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仙北小野寺氏

1189年の奥州合戦での戦功により小野寺道綱は出羽国雄勝郡の地頭職を賜り、後に小野寺経道が雄勝郡に土着したのが仙北小野寺氏の始まりという。経道の子孫は小野寺氏の代官として出羽国の雄勝郡などを管理していたが、泰道の代に宗家に替わって仙北の領主となったとされている。小野寺氏は一時は北は山本郡(北浦)、西は由利郡、南は最上郡にまで勢力を拡大し、出羽国有数の戦国大名となるが、最上義光との戦いでやがて衰退し、1600年の慶長出羽合戦で上杉氏に連動して最上領へ攻め込んだため、戦後は徳川家康に敵対したとみなされて所領を没収された。そして小野寺義道は石見国津和野に流され、以後子孫は津和野藩士となったという。

歴代当主

【小野寺経道】 おのでら つねみち (1249~1293)
 仙北小野寺氏初代。三浦泰村の次男で三浦景泰と称していたが、『宝治合戦』で三浦氏が滅亡すると、景泰は出羽国大泉庄へと逃れた。その後、姉の嫁ぎ先の小野寺道業の元に迎えられ、以後は小野寺経道を称して稲庭を領したという。
【小野寺道有】 おのでら みちあり (1269~1307)
 仙北小野寺氏3代目。小野寺忠道の嫡男。元々は沼館に居たが、1300年に横手に城を築いて移り住んだと伝わる。
【小野寺泰道】 おのでら やすみち (1403~1477)
 仙北小野寺氏10代目。小野寺氏継の嫡男。1458年には小野寺氏は仙北へ進出してきた南部氏に降るが、1465年より南部氏に反旗を翻し、激戦の末に仙北地方より南部氏を追い出した。だが、この戦いで宗家の出羽小野寺氏の道有が討死したため、以後は泰道が仙北の領主となったという。
【小野寺稙道】 おのでら たねみち (~1546)
 仙北小野寺氏12代目。小野寺景道の嫡男。雅道と称していたが、将軍足利義稙の偏諱を受けて稙道を称した。1521年に京の屋敷に移り、仙北は叔父の道俊が代官を勤めることになったという。その後、家臣の姉崎四郎左衛門の画策によって仙北の所領を横領されたため、仙北へ再び舞い戻って姉崎氏を誅したという。だが、その後横手佐渡と金沢金乗坊の謀反に合い、湯沢城にて自害して果てたという。
【小野寺輝道】 おのでら てるみち (~1598)
 仙北小野寺氏13代目。小野寺稙道の嫡男。将軍足利義輝の偏諱を受けて輝道を称した。横手佐渡らの謀反によって父を失うが、大宝寺氏の援助と家臣達の助けによって横手佐渡を打ち倒し、仙北の領主として地位を取り戻したという。その後、輝道は勢力を拡大し、小野寺氏最大の版図を築いたという。
【小野寺義道】 おのでら よしみち (1566~1645)
 仙北小野寺氏14代目。小野寺輝道の次男。1581年に鮭延氏に離反されて最上郡の所領を失い、1582年には由利郡での「大沢合戦」で敗れて由利郡への影響力を失うことになった。1586年の「有屋峠の戦い」ではなんとか最上軍と傷み分けとなったが、1590年の「仙北一揆」が原因で所領の1/3を失うことになってしまった。1591年には讒言に騙されて由利郡で唯一小野寺氏の味方だった大井満安を自害に追い込み、さらに1595年には最上義光の策略に引っ掛かって忠臣の八柏道為を暗殺し、自らの手足をもぎ取るように自滅に追い込まれていった。結局、義道は疑心暗鬼に追い込まれたようで、1595年に最上軍が湯沢城に攻め込んでも援軍を出さず、城主の小野寺孫七郎は奮戦の末に討死した。雄勝郡の半分が最上氏の手に落ち、大森城まで攻め込まれた所で和睦を結ぶが、1600年の慶長出羽合戦では上杉氏に同調して最上領に攻め込み、これが原因で戦後は徳川家康に敵対したとみなされ改易された。1601年、没落した小野寺義道は石見国津和野へ流され、坂崎氏へと預けられた。

居城

城名 概略
稲庭城 小野寺経道が築いて居城とした場所で、後に稲庭氏の居城となった。
沼館城 古代城柵の「沼の柵」を小野寺忠道が改築して居城としたとされるが定かではない。
横手平城 『小野寺御伝記』の中で小野寺泰道が「横手の平城」に移ると出てくるものがこの城址だと思われる。
横手城 鎌倉時代築城説、小野寺道有築城説、小野寺輝道築城説などがあって定かではない。少なくとも小野寺輝道と子の義道の居城となった。
吉田城 小野寺輝道が隠居後に居城とした場所。

一門衆・家臣団

居城 概略
西馬音内氏 西馬音内城 一門衆。小野寺経道の次男の道直が西馬音内に移り住んだのが始まりという。西馬音内氏は一度断絶したようで、後に小野寺輝道の庶子の茂道が西馬音内に移って西馬音内氏を継いでいる。1591年に茂道は婿に当たる由利の大井満安を城に匿うが、これが原因で小野寺義道にあらぬ疑いをかけられ、城を攻められる事態となった。この時、大井満安は義父の潔白を示すために自害して果てたという。
湯沢氏 湯沢城 一門衆。小野寺経道の三男の道定が湯沢に移り住んだのが始まりという。
神宮寺氏 神宮寺館 一門衆。小野寺信道の三男の道珍が神宮寺に移り住んで神宮寺藤七を称したのが始まり。後に戸沢氏が勢力拡大すると小野寺氏を離れて戸沢氏傘下に降った。前田道信の三男は神宮寺氏に養子に入り、後に神宮寺掃部を称した。
馬鞍氏 馬鞍城 一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。1596年には馬鞍右門尉が馬鞍城を守っていたが、最上軍に攻められ陥落した。
樋口氏 樋ノ口城 一門衆。小野寺高道の三男の道守が樋ノ口に移り住んで樋口弥五郎を称したのが始まり。1468年に樋口道一は佐藤忠継と姉崎光親を家客に迎えている。
稲庭氏 稲庭城 一門衆。小野寺泰道の次男の道俊は甥の稙道の代官として仙北を治めていたが、家臣の姉崎四郎左衛門に唆されて仙北の領主を称し、独断で将軍足利義晴の偏諱を受けて晴道を称した。後に稙道が仙北に帰還するとその座を返上し、稲庭に移って稲庭氏の始まりとなったという。
鍋倉氏 鍋倉城 一門衆。小野寺泰道の三男の道周が鍋倉に移り住んだのが始まり。1582年の「大沢合戦」には鍋倉左近が参加し、由利勢と戦って討死している。1590年の太閤検地では鍋倉四郎が検地に反対して増田城に立て篭もり、上杉・大谷の検地軍に征伐された。
大森氏 大森城 一門衆。小野寺泰道の四男の道高が大森に移り住んだのが始まり。後に小野寺輝道の三男の康道が大森氏を継いでいる。大森康道は1600年10月の「大森城合戦」で最上軍を主力とした1万の軍勢から城を守りきった。
沼館氏
(大築地氏)
沼館城 一門衆。小野寺稙道の長男の秀道は、庶子のために家督は継げず、沼館に移り住んで沼館氏を称したという。1587年の「阿気野合戦」では秀道は攻め込んできた戸沢盛安と戦うが激戦の末に敗れた。
金沢氏 金沢城 一門衆。小野寺景道の次男の道秀が金沢に移り住んだのが始まり。
前田氏 大曲城
西荒井小館
一門衆。小野寺氏一族というが血縁関係は不明。神宮寺氏に前田氏から養子が入っているため、神宮寺氏と同族の可能性がある。後に戸沢氏が勢力拡大すると小野寺氏を離れて戸沢氏傘下に降った。
浅舞氏 浅舞城 一門衆。小野寺義道の長男の光道が浅舞に移り住んだのが始まり。光道は1590年の「仙北一揆」の際に自害して果てたという。1596年と1598年の合戦には浅舞刑部、浅舞右京が参加しているが血縁関係は不明。
八柏氏
(落合氏)
落合城
八柏館
小野寺氏家臣。落合・八柏の領主。三浦景泰の家臣の落合十郎を祖とする。落合氏は沼館城の城代を任されていたが、1460年に八柏に移り住んで八柏氏を称したのが始まり。八柏道為は1586年の「有屋峠合戦」などで活躍し、小野寺氏一の智謀の将として最上義光に警戒されたという。このため、1595年に義光は道為が最上氏に内応の約束をしていると見せかけた偽の書状を送り、この書状に惑わされた小野寺義道に城に呼び出された八柏道為は、横手城下において義道の命令を受けた黒沢甚兵衛らによって暗殺されてしまった。
姉崎氏 小野城
松館
鵜沼城
平岡館
小野寺氏家臣。小野の領主。三浦景泰の家臣の姉崎六郎を祖とし、六郎が景泰に付き従って仙北に移り住み小野に居を構えたのが始まり。姉崎四郎左衛門は小野寺道俊を当主にするべく画策し、上洛中の小野寺稙道を死んだことにして事を進めるが、八柏氏の通報で京の稙道に露見し、後に仙北へと戻った稙道に誅された。
関口氏
(佐々木氏)
関口城 小野寺氏家臣。関口の領主。三浦景泰の家臣の関口出羽を祖とし、出羽が景泰に付き従って仙北に移り住み湯沢に居を構えたのが始まり。伝承に違いがあるが鮭延氏と同族と思われる。
鮭延氏
(佐々木氏)
鮭延城
岩鼻館
金山館
庭月館
小野寺氏家臣。鮭延の領主。佐々木綱村が出羽国に移り住んで小野寺氏の客将となり、関口に所領を与えられたという。その後、貞綱の代に鮭延に移り住んだのが始まり。1581年の鮭延秀綱の代に最上氏に居城を攻められ、篭城戦の末に開城して最上氏の傘下に降ったという。伝承に違いがあるが関口氏と同族と思われる。
横手氏
(大和田氏)
横手城 小野寺氏家臣。横手の領主。小野寺氏が稲庭に居た頃に家老の横手道前が横手に居たと伝わる。1546年に横手佐渡(大和田光盛)は金沢金乗坊と共謀して謀反を起こし、小野寺稙道を湯沢城に追い詰めて自害させた。だが、横手佐渡は後に稙道の子の輝道によって討ち取られている。
猪岡氏 猪ノ岡館 小野寺氏家臣。飯岡の領主。1573~1592年に起きた「和賀仙北合戦」には猪岡市右衛門が参加している。
西野氏 西野館 小野寺氏家臣。黒川の領主。1586年の「有屋峠合戦」には西野道俊が参加し、最上軍と戦って首級16をあげている。1587年の唐松野合戦にも道俊が参戦しており、小野寺氏の援軍として参陣したと思われるが、なぜか西野館は『戸沢三十五館』に含まれており、もしかすると戸沢氏と繋がりがあったのかもしれない。
真壁氏 真壁館 小野寺氏家臣。境の領主。1586年の「有屋峠合戦」には真壁対馬守が参加し、最上軍と戦って討死している。
新田目氏 荒田目城 小野寺氏家臣。荒田目の領主。1582年の「大沢合戦」には新田目内膳が参加し、由利勢と戦って討死している。
植田氏
(大石氏)
植田城 小野寺氏家臣。植田の領主。植田定景は1586年の「有屋峠合戦」に参加し、1595年10月の「大島原合戦」にも参加したが湯沢城下の燕橋で討死した。
黒沢氏 黒沢城
黒沢甚兵衛屋敷
小野寺氏家臣。黒沢の領主。1586年の「有屋峠合戦」には黒沢島之助が参加し、最上軍と戦って討死している。1595年には黒沢甚兵衛が主君の小野寺義道の命令で横手城下にて八柏道為を暗殺している。
砂子田氏 砂子田城 小野寺氏家臣。砂子田の領主。砂子田伊勢守の名が伝わる。
戸波氏 戸波城 小野寺氏家臣。戸波の領主。小野寺氏の次弟の戸波宗右衛門の名前が伝わるが血縁関係は不明。1586年の「有屋峠合戦」と1600年の吉田城の攻防戦に戸波平右衛門が参加している。小野寺氏滅亡後、1603年に戸波惣右衛門が六郷での一揆に参加して佐竹義重を襲っている。
土肥氏 亀岡城
増田城
小野寺氏家臣。川連の領主。後に土肥頼景が川連から増田に移されている。土肥氏は後に最上氏に鞍替えし、1595年の皆瀬川合戦には最上軍として参加している。
岩崎氏 岩崎城 小野寺氏家臣。岩崎の領主。岩崎道高の娘の能恵姫にまつわる伝説が今も残っている。