
薄衣城 うすぎぬじょう
1253年に千葉胤堅によって北上川左岸に突き出た高台の上に築かれた丘城で、大崎氏・葛西氏の動乱の中で戦場になったが落城した記録は無い。1590年の「奥州仕置」で葛西氏が没落すると家臣の薄衣氏も没落して廃城となったとされる。▼遺構や見所
■ 主郭 ■
丘の頂上部が主郭で、東半分ほどは現在畑になっている。主郭の西側にやや低い場所があり、恐らく腰郭と思われる。虎口らしきものがあるが、車両を通す為に広げた跡があり、元々どういう形だったのかは定かではない。
■ 井戸 ■
主郭の中心部付近に井戸があり、現在も水を一杯に貯えていた。恐らく畑に水を撒くのに使用されていると思われるが、昔からある井戸なのかは不明。
■ 二の郭 ■
二の郭は主郭より低い西側にあり、搦手口より登ってきた場所に虎口の跡がある。西側には土塁のような盛り土があるが、土塁にしては位置が内側に寄っており、どちらかというと塚のように見える。矢倉を建てる為の台座等なのだろうか?
■ 三の郭 ■
主郭の東側から堀切を挟んだ一段低い場所に三の郭があり、こちらも主郭同様に部分的に畑になっていた。この郭の堀切側にはハッキリ土塁も残っていた。
■ 堀切 ■
主郭と三の郭の間は堀切になっているが、車両が通れるようにするため埋めたり削ったりした跡が見られる。道になっていない南側の奥も凹んでいるため、堀切だったことは間違いない。
■ 四の郭 ■
三の郭より一段低い北側が四の郭だが、内部は完全に藪でよくわからなかった。四の郭より北側は背後の山との間の鞍部で、今はここに民家がある。
■ 城跡からの景色 ■
城跡の眼下には北上川が見渡せて、なかなかの絶景である。まさにここが北上川の水運を抑える要所であることが良く判る。画像は城の南側の景色だが、城の北側には北上大橋が良く見える。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1253年2月千葉胤堅が磐井郡の薄衣庄に移り住んで薄衣氏を称し、城を築いて居城とした。千葉胤堅
- 1339年薄衣氏は南朝に属していたが、北朝側の葛西高清に攻められて降伏し、以後は葛西氏に臣従した。薄衣某
- 1499年薄衣美濃入道は大崎義兼を支援したことが原因で、葛西氏の軍勢に城を包囲されるが、伊達氏と南部氏の支援を得てこれを凌いだ。『薄衣状』薄衣美濃入道
- 1590年「奥州仕置」によって葛西氏が没落すると、その配下にあった薄衣氏も没落し、城は廃城となった。薄衣氏の最後は諸説あり定かではない。薄衣某
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年4月23日 |
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別名 | 米倉館、葛丸館、搦手館、古館 |
前身 | - |
普請開始 | 1253年 |
築城完了 | 1253年 |
築城者 (設計者) | 千葉胤堅 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 東西200m×南北200m |
標高 | 標高:80m、比高:約65m |
文化財指定 | 市指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、堀切、井戸、郭跡 |
標柱・説明板 | 主郭と西の崖下に説明板あり。麓は搦手口に標柱あり。 |
現状 | 史跡公園、畑、雑木林 |
イベント | - |
注意事項 | 車道が付いていますが、車道の先は民家でUターン無理なので歩いて登った方がいい。 |
場所 | 岩手県一関市川崎町字古舘 |