
新地城 しんちじょう
黒木清定が築いた城とされるが定かではない。1566年に相馬盛胤によって新地の丘に築かれ、伊達と相馬の境目を守る城となる。だが、1589年に伊達政宗の侵攻を受けて落城し、以後は伊達領となった。藩政時代は谷地小屋要害に機能を移したため、1630年に廃城となる。▼遺構や見所
■ 本丸 ■
丘陵の上にある本丸は台形、というか北西部分はカーブを描いているので扇型に近い形をしている。周囲は土塁に囲まれており、内部は今は空き地になっている。遊具が少しあるので公園かもしれない。
■ 内堀 ■
本丸の周囲には内堀(空堀)が設けられており、現在は堀底がチューリップ畑になっている。構造的には本丸と東館の間にも堀がありそうだが、現状は土塁しか確認できない。
■ 西館 ■
本丸の西側にある城内で最も大きな郭で、何気に本丸よりも標高が2mほど高い。西側には「西虎口」があったという。現在は全面がチューリップ畑。
■ 虎口 ■
東館の南側にある虎口で、ここが大手側とされる。かつては坂を下りた先にも「坂下の虎口」があった。
■ 外堀跡 ■
麓から坂を上っていく途中に見える中腹の腰郭のような平場だが、今は埋まっているのか外堀の跡だという。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 16世紀黒木清定が1750石でこの地を領し、城を築いたとされるが定かではない。黒木清定
- 1544年相馬顕胤によって黒木城の黒木信房が討たれ、黒木清定は伊具郡の丸森へと逃れた。以後、この地は相馬領となる。黒木清定
- 1566年相馬盛胤は平地の谷地小屋館では守りに難がある(其地要害悪し)ことから、付近の新地山に新たに城を築いて門馬雅楽助を城代とした。『奥相茶話記』『東奥中村記』門馬雅楽助
- 1589年
5月19日伊達政宗が伊具郡より峠を越えて宇多郡に侵攻し、5月19日に駒ヶ嶺城を攻め落とした。そして続けて新地城へと攻め込んだ。『東奥中村記』泉田甲斐 - 1589年
5月21日新地城では昼夜に渡って伊達勢の攻撃が続き、これに耐え切れなくなった泉田甲斐は城を抜け出して落ち延びた。そして城は21日には陥落した。『東奥中村記』泉田甲斐 - 1589年伊達政宗は新地城を亘理重宗に与え、城には城代として坂本三河が置かれた。坂本三河
- 1591年亘理重宗が涌谷へ転封されたため、坂本氏も城代の任を解かれた。城には替わって刈田郡より大町頼隆が移された。大町頼隆
- 1597年大町頼隆が伏見邸の留守居中に亡くなった為、大町元頼が継いで城主となった。大町元頼
- 1628年新地一帯が伊達成実に与えられ、成実は廃城となっていた谷地小屋館を改修して谷地小屋要害として相馬方面への拠点とした。大町元頼
- 1630年大町氏は磐井郡の藤沢本郷へと転封となり。新地城の担っていた役目は谷地小屋要害へと移されて廃城となった。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年4月16日 |
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別名 | 蓑首城、谷地小屋城 |
前身 | 黒木清定の城か? |
普請開始 | 1566年 |
築城完了 | 1566年 |
築城者 (設計者) | 相馬盛胤 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 面積:3748坪、東西350m×南北250m |
標高 | 標高:48.2m、比高:35.5m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、空堀、郭跡 |
標柱・説明板 | 本丸跡に説明板あり |
現状 | チューリップ畑、雑木林 |
イベント | チューリップ祭り(4月下旬) |
注意事項 | - |
場所 | 福島県相馬郡新地町谷地小屋字館前 |