
小高城 おだかじょう
元は行方氏の居城だったが、1326年頃に相馬氏の居城となり、相馬光胤によって改築された。南北朝時代に一度落城している。1598年に牛越城に居城を移すが、関ヶ原の合戦後の1602年に所領を没収される。嘆願が受理されて同年に大名に復帰すると再び小高城へと入った。1611年に中村城に居城を移して廃城となる。▼遺構や見所
■ 小高神社(主郭跡) ■
主郭跡は小高神社の境内になっており、郭は三角形の形をしている。東側の二の郭との間に土塁(土居)が残っているが、他の縁の部分にもかすかに土塁が確認できる。
■ 南二の郭跡 ■
二の郭は主郭より一段低く、神社の参道が通る南側と東側、そして雑木林の北側の3か所にある。いずれの郭も規模が小さいため、主郭を守るための腰曲輪と思われる。
■ 馬場 ■
大手口と見られる東側から城内に入ってすぐの場所が馬場だとされており、現在は畑になっている。奥に見える一段高い雑木林が北二の郭。
■ 水堀 ■
城は舌状台地にあるため、北側を堀切で寸断し、残りの三方を水堀もしくは空堀で囲んでいたとされる。現在は東側に水堀が現存しており、堀の中に浮かぶ小島には弁財天が祀られているという。写真の通り島があるのは確認できるが、茂みが深くて祠みたいなものは確認できない。
■ 小高川 ■
城のすぐ南を川が流れており、実質的にこの川が外堀となっている。相馬氏は北上してくる北畠顕家を迎え撃つために小高城を築いており、川と台地の位置関係でこの場所を選んだと思われる。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 12世紀?正確な年代は不明だが、行方氏がこの場所に堀之内城を築いたという。行方氏
- 1326年相馬重胤が別所館から堀之内城に居城を移した。相馬重胤
- 1326年?鎌倉に向かった相馬重胤に代わり城を守っていた相馬光胤は南朝の襲撃に備えて城を大規模に改築し、以後この新しい城を小高城とした。相馬光胤
- 14世紀北畠顕家が海道を北上して小高城に攻め寄せ、激戦の末に相馬光胤が討ち死にして落城した。この時、相馬胤頼は城を脱出して山へと逃れたという。相馬光胤
- 14世紀相馬胤頼が小高城に復帰する。相馬胤頼
- 1542年伊達家の「天文の乱」では相馬顕胤は伊達稙宗に味方し、一時的に稙宗を小高城に引き取ったりもした。相馬顕胤
- 1596年相馬義胤が牛越城の築城を開始する。相馬義胤
- 1598年相馬義胤は居城を牛越城に移す。相馬義胤
- 1602年5月相馬義胤は佐竹氏や岩城氏に連座して所領を没収されたため、三春の蒲生郷成を頼って大倉に移り住んだ。なお、この所領没収の凶報は野馬追の打ち上げで盛り上がっている宴席で伝えられたという。-
- 1602年10月相馬氏の訴えが認められて大名に復帰すると、家督を継いだ相馬利胤は牛越城を不吉として、再び小高城を相馬氏の居城とした。相馬利胤
- 1611年相馬利胤は中村城を改築して居城を移したため、小高城は廃城となった。相馬利胤
- 1958年8月1日城跡が県指定史跡となる。小高神社
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年4月16日 |
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別名 | 紅梅山浮舟城 |
前身 | 堀之内城 |
普請開始 | 1326年 |
築城完了 | 1326年 |
築城者 (設計者) | 相馬光胤 |
分類 | 中世平山城 |
規模 | 面積:東西220m×南北160m |
標高 | 標高:12m、比高:約10m |
文化財指定 | 県指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、水堀、堀切 |
現状 | 小高神社 |
注意事項 | - |
場所 | 福島県南相馬市小高区小高字古城下 |