
二本松城 にほんまつじょう
15世紀に畠山満泰が白旗山に築いた中世山城を、1591年に蒲生氏が再整備し、1643年に丹羽光重が大改築して整備した近世山城。二本松藩の藩庁。現在は城址公園。『日本百名城』の一つ。▼遺構や見所
■ 本丸 ■
山頂にある本丸は総石垣造りの不等辺四角形の郭で、天守台1つと櫓台2つを隅に配置している。入口は桝形虎口1つだけで、裏口は無い。視界を遮るものがないため、ここからの眺めは絶景。
■ 中世大石垣 ■
本丸石垣のさらに下にある野面積みの石垣で、城内で最も古い石垣。丹羽氏の石垣はどれも打ち込みハギのため、この部分は蒲生氏時代の石垣を残したものとされる。なお、真ん中あたりが孕んでいるが震災以前からこの状態であり、石垣の真下は立ち入り禁止になっている。
なお、画像の右下は石垣ではなく斜面保護用のブロック石。
■ 箕輪門【復興】 ■
丹羽光重が箕輪村の御神木で建てたのが名前の由来で三の丸の正門にあたる。戊辰戦争で焼失したが、1982年に再建された。本来の門は石垣を渡したシンプルな櫓門のため、復元ではない。
■ 洗心亭【移築】 ■
別名「墨絵の御茶屋」。17世紀頃に城内に建てられた茶屋で、1837年に崖崩れのため地蔵河原に移築された。その後、1907年に城内の現在の場所に再移築された。市指定有形文化財。
■ 日影の井 ■
深さは16mでそこからさらに14m岩盤をくり貫いている中世からの井戸。印西の「月影の井」、鎌倉の「星影の井」と共に「日本三井戸」とされる。日本三井戸については印西の月影の井の縁起を書いた昔の人が称したのが由来のようだが、鎌倉は知名度もあり同じ関東のためまだ分かるが、二本松の井戸が何故選ばれたか謎である。
■ 搦手門跡 ■
本丸西側の山の中腹に搦手口があり、門の石垣と礎石が残されている。
■ 空堀(堀切) ■
城の背後の山伝いの箇所には堀切が設けられているが、現在は土橋状に埋められて二の丸まで砂利道の車道が通されている。
■ 布袋の滝 ■
城内へは城の背後の山から二合田用水が引かれており、生活用水として利用される他に庭園への水の供給にも使われていた。「布袋の滝」はその用水から庭園に落ちる箇所にある滝である。なお、「相生の滝」というのもあるが、こちらは昭和の公園整備で作られた新しい滝。
■ 大手門跡(坂下門) ■
1670年頃に観音丘陵の外側の奥州街道から城内へと向かう久保丁口に造られた大手門で、久保丁坂の下にあるので「坂下門」と呼ばれた。当初は予算の関係で冠木門だったが、1832年に丹羽長富の命で水堀が設けられ石垣造りの櫓門へと建替えられた。門は戊辰戦争で灰燼と化し、今は石垣が部分的に残るだけとなっている。
■ 観音丘陵 ■
画像は本丸から見た様子で、中央を横切る細長い丘陵が観音丘陵。画像左側に大手口の切通、右側に松坂口の切通が見える。この丘陵を境にして手前が武士の町(武家屋敷)、奥が民衆の町(城下町)になる。
■ 二本松歴史資料館 ■
畠山氏と丹羽氏、美術品を展示した資料館。
開館:1月~12月
時間:9:00~16:30(17時閉館)
休館日:日曜祝日の翌日、年末年始
入館料:100円(高校生50円、小中生30円)
場所:福島県二本松市本町1-102
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1414年畠山満泰が白旗山に城を築き、殿岡より居城を移した。以後、二本松畠山氏の代々の居城となる。畠山満泰
- 1585年
10月8日畠山義継は大内定綱に味方して伊達政宗と争っていたが、和睦を結ぶために宮森城を訪れた際に、伊達輝宗を拉致して逃亡した。義継は阿武隈川の河原で伊達軍に包囲されるが、輝宗を殺害して討ち死にした。『粟ノ須の変』畠山義継 - 1585年
10月15日当主を失った畠山軍だったが、幼い畠山国王丸を擁立して二本松城へ篭城し、城に攻め寄せた伊達軍を相手に激戦を繰り広げた。畠山国王丸 - 1585年
11月畠山氏救援のため佐竹軍と蘆名軍を主力とする連合軍が安積郡まで進軍したため、伊達軍による城の包囲は一旦解かれる形になった。畠山国王丸 - 1586年春城は再び伊達軍によって包囲されるが、新城盛継などの奮戦により落城はしなかった。畠山国王丸
- 1586年
7月16日畠山軍の内部にも離反者が出始めて篭城戦が難しくなったため、7月16日に相馬氏の仲介で開城し、畠山氏は会津へと逃れた。畠山国王丸 - 1586年
9月13日畠山氏退去後、城は伊達氏家臣の片倉景綱に預けられるが、9月13日に伊達成実が正式に城代として置かれた。伊達成実 - 1590年
8月「奥州仕置き」によって伊達政宗は二本松を含む各地の所領を没収され、二本松城には会津の領主となった蒲生氏郷の家臣の蒲生郷成が城代として置かれた。この時に城は改修されて本丸の下に野面積みの石垣が組まれた。蒲生郷成 - 1591年城代が町野重乃に変更になる。町野重乃
- 1598年蒲生氏が御家騒動で宇都宮に転封されると、会津には上杉景勝が120万石で入り、城には上杉家臣の下条忠親と秋山定綱の2人が城代として置かれた。下条忠親・秋山定綱
- 1601年「関ヶ原の合戦」(奥州では「慶長出羽合戦」)で西軍に味方した上杉景勝は会津の所領を没収されて米沢へと移り、会津には再び蒲生氏が入ることになった。そして、城には蒲生氏家臣の梅原弥左衛門と門屋助右衛門の2人が城代として置かれることになった。梅原弥左衛門・門屋助右衛門
- 1627年蒲生忠郷の急死によって蒲生氏は伊予国に移され、替わって会津には加藤嘉明が入り、二本松城には家臣の松下重綱が城代として置かれた。松下重綱
- 1641年加藤明利の急死により、二本松は幕府領となる。江戸幕府
- 1643年丹羽光重が白河から二本松へと10万石で転封となり、二本松藩が誕生する。この時より山の麓付近に城の中枢を移す大改築が始まる。丹羽光重
- 1845年城の改築が概ね完了し、麓に近い位置に御殿を設けた三の丸を作り、要所に石垣と城壁を設けた近世山城となる。丹羽光重
- 1868年
7月29日「戊辰戦争」が勃発すると二本松では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の間で激しい戦闘が行われ、二本松城は炎上し落城したという。この時、城と運命を共にするつもりだった丹羽長国は家臣に布団に包まれて籠に入れられ、米沢藩へと脱出したという。丹羽長国 - 1872年新政府による廃城令により廃城となる。-
- 1949年城跡が県立公園として整備される。二本松市
- 1982年箕輪門が再建されるが、この時は考証は行われなかった。二本松市
- 1995年荒廃して崩れかけていた本丸が整備され、石垣が修復される。二本松市
- 2007年
7月26日国指定史跡となる。二本松市 - 2011年
3月11日「東日本大震災」により本丸を含む城内数か所に被害を受ける。※2017年の時点では復旧済み。二本松市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年2月12日 |
---|---|
別名 | 霞ヶ城、白旗城 |
前身 | 中世二本松城 |
普請開始 | 1643年 |
築城完了 | 1645年 |
築城者 (設計者) | 丹羽光重 |
分類 | 梯郭式近世山城 |
規模 | 面積:東西560m×南北640m |
標高 | 標高:345m、比高:約120m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | 洗心亭 |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 箕輪門 |
遺構 | 石垣、土塁、空堀、井戸、用水、庭園 |
現状 | 県立霞ヶ城公園、市街地 |
注意事項 | - |
場所 | 福島県二本松市郭内 |