
平城 たいらじょう
1603年に鳥居忠政が物見岡に築いた梯郭式の近世平山城。磐城平藩の藩庁。幕末の戊辰戦争で焼失する。現在は大半が私有地で一部公園。▼遺構や見所
■ 本丸 ■
丘の上にある本丸跡はほぼ私有地であるが、東側の広大な一角だけはイベント等で不定期的に一般公開される時がある。画像中央奥に見えるのは鉄骨を組んだ展望台で、かつてそこには二階建ての八棟櫓があった。
■ 旧仮藩庁【現存】 ■
本丸にあった藩庁舎は1868年の戊辰戦争時に焼失したが、1869年に藩知事の政務を執る場所として仮藩庁が再建された。1871年には廃藩置県で役割を失うが、廃城後も幾度かの改築を経て今に残った。
■ 白蛇堀 ■
本丸北東部にあった内堀で、本丸斜面から湧き出る水を貯めていた水の手兼水堀でもあった。堀の中に白蛇が住み着いた伝承から、白蛇堀と呼ばれている。
■ 塗師櫓跡の石垣(現状) ■
城内に散見される遺構の中で最もよく残っていた櫓台の石垣だったが、2011年3月11日の大震災で崩壊してしまった。一応、仮で修復されたが、上層部が撤去されている。
■ 塗師櫓跡の石垣(震災前) ■
参考までに震災前の石垣の様子も掲載。比較すると現状がいかに悲惨なことかがよくわかる。
■ 中ノ門跡の石垣 ■
中ノ門跡は北側の石垣だけが現存していたが、ここも2011年3月11日の大震災で一部が崩壊した。かつては石垣の上に登れて、上に銅像が立っていたが、2017年時点では立ち入り禁止になっている。
■ 丹後沢(水堀) ■
城の北側の沢をせき止めて作られた水堀で、この堰の工事は難航したが丹後と言う老人が人柱になって完成したため、丹後沢と呼ばれるようになった。現在は公園として整備されている。
■ 水手曲輪 ■
本丸より一段低い北東部にある曲輪で、城の裏門を見下ろす重要な位置にある。曲輪の半分以上が住宅地になっているが、弓櫓があった付近だけ展望台として整備されている。ただし、中に入れるのは本丸の開放日のみ。
■ 外堀跡 ■
画像の右が内記郭跡で、左が城外となる。かつては土橋がかけられていたが、外堀に車道を通す際に画像のような陸橋に変わった。
■ 龍ヶ城美術館 ■
平藩の資料と美術品を展示していた資料館。
開館:閉鎖中
時間:-
休館日:-
入館料:-
場所:福島県いわき市平旧城跡27
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1602年関ヶ原の戦い後、飯野平の領主の岩城氏は佐竹氏に連座して所領没収となり、代わって飯野平には鳥居忠政が転封されて磐城平藩が誕生した。-
- 1603年鳥居忠政は飯野平の物見岡にあった飯野八幡宮を台地の西側に遷宮し、物見岡に新たに築城を開始した。鳥居忠政
- 1615年築城工事が概ね完了する。鳥居忠政
- 1622年鳥居忠政が山形に転封されると、代わって内藤政長が転封されて藩主となり城に入った。内藤政長
- 1747年領民に重税を強いて一揆を誘発させた処罰などから内藤政樹が延岡へと転封され、井上正経が代わって藩主となった。井上正経
- 1758年井上正経が浜松へと転封され、代わって安藤信成が父の代の不始末から減封の上で磐城平藩に移された。安藤信成
- 1863年安藤信正は甥の信勇に藩主を譲り隠居する。安藤信勇
- 1868年7月13日「戊辰戦争」が勃発すると磐城平藩は奥羽越列藩同盟軍に加わり新政府軍と戦うが、力及ばず敗北したため、城に火を放って敗走した。安藤信正
- 1869年9月24日版籍奉還により安藤信勇が知藩事となり、城の焼け跡に仮藩庁が再建された。安藤信勇
- 1871年廃藩置県により磐城平藩は無くなり、城跡も民間に払い下げられた。民有地
- 2001年4月27日城跡の一部が市指定史跡となる。民有地、いわき市
- 2011年3月11日「東日本大震災」により塗師櫓、中ノ門の石垣が崩れる被害を受ける。他にも地盤沈下などの被害。民有地、いわき市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年4月15日 |
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別名 | 龍ヶ城、飯野城 |
前身 | - |
普請開始 | 1603年 |
築城完了 | 1615年 |
築城者 (設計者) | 鳥居忠政 |
分類 | 梯郭式近世平山城 |
規模 | 面積:東西700m×南北500m |
標高 | 標高:35m、比高:約25m |
文化財指定 | 市指定史跡(塗師櫓石垣) |
現存建造物 | 移築門が2つ? |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀 |
現状 | 丹後沢公園、住宅地 |
注意事項 | イベント日のみ開放される区画あり。震災から復旧していない箇所あり。 |
場所 | 福島県いわき市平字旧城跡 |