奥羽古城散策
■城跡データ
■人物・氏族データ
ouukojosansaku

管理人:貞庵

HOME -> 城跡データ -> 福島県の城跡一覧(会津地方) -> 久川城

久川城 ひさがわじょう

別名
時代
安土桃山時代~江戸時代
分類
中世山城
規模
面積:南北565m×東西250m、標高:628m、比高:約53m
現状
県指定文化財/公園・キャンプ場
場所
福島県南会津郡南会津町青柳字久川
最終訪城日
2010年11月21日

河原田盛次が築いた山城で河原田氏の居城。現在は公園とキャンプ場となっている。

城史

年代 出来事
1589年秋 河原田盛次は伊達政宗の勧告を拒否して伊達軍の襲撃に備えることにしたが、駒寄城では大軍を相手に出来ないために新たに久川城を築いてこれに備えた。そして長沼盛秀を先鋒とする伊達軍を篭城戦の末に撃退した。
1590年 「奥州仕置」により河原田氏は所領没収となり、伊南郷は新しく会津の領主となった蒲生氏郷に与えられることになった。これに伴い、久川城には蒲生郷可が城代として派遣された。
1591年 蒲生郷可は「九戸の乱」での戦功により長井郡の中山城の城代となり、久川城には替わって弟の蒲生郷治が配置された。
1598年 蒲生秀行が御家騒動で下野に転封されると、会津には替わって上杉景勝が移され、久川城には清野長範が配置された。
1602年 「関ヶ原の合戦」で東軍が勝つと、西軍に加担していた上杉家は減封されて米沢に移り、1601年には会津には再び蒲生秀行が入った。そして翌年に久川城には蒲生忠右衛門が配置された。
1611年 蒲生忠右衛門は失政により伊南郷を召し上げられ、この時に城は廃城となったという。

縄張り

城は伊南川と滝倉川の合流地点の丘陵に築かれており、丘陵の東西と北側は急斜面で特に西側は断崖絶壁となっている。南の丘陵続きの場所には堀切が設けられており、現在はその堀切を車道が通っている。

【本丸(稲荷神社)】
丘陵中央の土塁に囲まれた一角が本丸で、本丸南西隅の一段高くなった場所に稲荷神社が祀られている。

【空堀】
本丸、二の丸、三の丸には空堀が設けられており、郭の周囲を囲む横堀と、西側の屏風のような山の削り残しを利用した巨大塁壁に造られた竪堀と堀切が連結した構造になっている。

【建物跡】
城内東側の伊南川を見下ろす腰郭のような場所では、発掘調査によって建物の跡が発見されている。なお、この郭の下には水の手の郭がある。

【搦手虎口】
丘陵東側の南北2箇所の九十九折の登城路を登った先には虎口が設けられており、北側の搦手には内枡形の跡が良く残っている。

【大手角馬出】
丘陵東側の南北2箇所の登城路の麓には角馬出があったとされ、南側の大手には今もハッキリとその遺構が残されている。北側の搦手の角馬出は現在は失われてしまっており、どこからどこまでが馬出の範囲だったのかすら判らなかった。『新編会津風土記』によれば石垣もあったようだが、これも現在は確認できなかった。

関連施設

【奥会津博物館伊南館】
天保古剣道防具と久川城の模型を展示している。旧久川城資料館。
<開館時間>9時15分~16時
<休館日>火曜日、水曜日、11月~4月
<入館料>300円
<駐車場>無料
<場所>福島県南会津郡南会津町青柳字久川

アクセス

関連リンク情報