■熊本県■

熊本城 くまもとじょう

築城年代
1606年築城
築城者
加藤清正
分類
梯郭式近世平山城
遺構・復元物
櫓、城門、天守閣(外復)、御殿(復元)、櫓(復元)、城門(復元)、長塀、石垣、水堀、空堀
現状
重要文化財、国指定史跡/城址公園
場所
熊本県熊本市本丸
最終訪城日
2011年12月22日

【歴史概要】
1606年に加藤清正によって築かれた平山城で、以後は熊本藩の藩庁となった。1632年に加藤氏が改易されると、細川氏が入って明治まで続いた。1877年の西南戦争では4千の篭城兵で西郷軍1万4千を撃退し、難攻不落の名城であることを知らしめた。

【感想】
とにかく広い城内に多くの遺構と建造物があり、見所だらけで散策が大変だった。現像建造物では宇土櫓と東側の櫓群が素晴らしく、復元建造物では本丸御殿の地下道構造が独特で面白かった。強いて言えば、本丸北の立ち入り禁止エリアと天守閣の内部だけは少々残念な状態だった。

富岡城 とみおかじょう

築城年代
1605年築城
築城者
寺沢広高
分類
近世山城
遺構・復元物
櫓(外復)、城門(復元)、塀(復元)、石垣、土塁、水堀
現状
富岡ビジターセンター・公園・雑木林
場所
熊本県天草郡苓北町富岡
最終訪城日
2011年12月23日

【歴史概要】
1605年に寺沢広高によって築かれた城で、唐津藩の飛び地として城代が置かれていた。1637年の「天草島原の乱」では城代の三宅藤兵衛が討死し、城下まで一揆軍に攻め込まれたが、城は陥落しなかった。

【感想】
城は陸繋島に築かれており、その立地もなかなか面白いが、池と海との間の堤防を大手道とする構造もなかなか興味深いものだった。山の上の櫓は外観復元が主だが、麓から見るとなかなか絵になる光景で印象的だった。

本渡城 ほんどじょう

築城年代
築城年代不詳
築城者
天草氏?
分類
中世山城
遺構・復元物
郭跡と城址碑のみ
現状
天草キリシタン館・公園・墓地
場所
熊本県天草市船之尾町
最終訪城日
2011年12月23日

【歴史概要】
築城年代不詳だが天草氏の城と伝わる。1589年に天草氏が宇土城普請の要請を拒否したことで始まった戦いで、加藤清正に攻め落とされた。1637年の「天草島原の乱」では一揆勢に一度占領されている。

【感想】
城は本渡の町を見渡すことが出来る高台にあるが、今はキリシタン館や公園、墓地となって明確な遺構はあまり見られなかった。なお、キリシタン館はいわゆる歴史資料館で、展示では本渡城についても言及していた。

内牧城 うちのまきじょう

築城年代
16世紀頃?築城
築城者
辺春盛道?
分類
連郭式中世平城
遺構・復元物
石垣、水堀(旧河川)
現状
体育館・市街地
場所
熊本県阿蘇市内牧
最終訪城日
2011年12月25日

【歴史概要】
正確な築城年は不詳で、阿蘇氏家臣の辺春盛道の居城だったという。加藤清正が熊本城に入ってからは、内牧に加藤可重が入り、1615年に廃城となった。その後、細川氏の時代に御茶屋(参勤交代時の宿泊地)として再利用された。

【感想】
城跡は今は完全に市街地に埋没しており、外堀だった河川跡が残っているおかげで辛うじて縄張りが判る程度だった。遺構としては、前述の外堀の他に二の丸跡で加藤氏時代の石垣が確認でき、近くの寺に移築された城門も一応確認できた。

■長崎県■

島原城 しまばらじょう

築城年代
1624年築城
築城者
松倉重政
分類
連郭式近世平城
遺構・復元物
天守閣(外復)、櫓(外復)、石垣、水堀
現状
市指定史跡/資料館・公園・市街地
場所
長崎県島原市城内
最終訪城日
2011年12月24日

【歴史概要】
松倉重政は日野江城が手狭なために1624年に島原城を築いて移り住んだが、この城の築城のために領民に重い負担をかけたために「島原の乱」を引き起こすきっかけとなった。乱後に松倉氏は改易となり、以後は4家が入れ替わり島原藩の藩庁として続いた。

【感想】
城は堀の外から見るとかなり立派で、失礼ながらこの地方にこれほどの城があったということが信じられないくらいだった。しかし、観光施設としての整備の仕方が微妙で、本丸まで行くと天守閣の周囲が駐車場というガッカリな景色がなんとも印象的だった。

原城 はらじょう

築城年代
1496年築城
築城者
有馬貴純
分類
中世平山城
遺構・復元物
石垣、土塁、空堀
現状
国指定史跡/公園・畑
場所
長崎県南島原市南有馬町
最終訪城日
2011年12月24日

【歴史概要】
1496年頃に有馬氏によって築かれた支城で、有馬直純の頃には日野江城から居城を移すべく改築を始めたが、1614年に有馬氏は転封となり未完に終わった。1637年には『島原の乱』が勃発し、原城に篭城した3万人の農民やキリシタンが虐殺された。

【感想】
城は海に面した丘の上にあり、石垣の一部が残る本丸跡は近世城郭の跡みたいな構造だが、それ以外は自然地形のままの箇所が多く、未完の城だったといのも頷けるものだった。かつて3万人が玉砕した悲劇の地とは思えないほど現在は長閑な場所で、二の丸と三の丸には畑が広がっていた。

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