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室町時代から安土桃山時代の津軽為信に滅ぼされるまで続いた浪岡北畠氏の居城。二重堀が特徴的な平城で空堀以外にも土塁などの遺構が残る。北館には平面復元された屋敷跡もある。現在は桜の名所。
年代 | 出来事 |
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15世紀後半 | 浪岡氏4代目の北畠顕義が浪岡城を築城し、東山根より居城を移す。 『左近顕忠覚書』 |
1532~1554年頃 | 城主は浪岡氏6代目の北畠具永で、田舎館郡と奥法郡を治めていた。 『津軽郡中名字』 |
1562年1月1日 | 「川原御所の変」が起こり、浪岡氏8代目の北畠具運が川原御所の北畠具信によって殺害される。北畠顕村がわずか5歳で具運の跡を継いで9代目当主となり、具運の弟の顕範が後見人となる。 『永禄日記』 |
1578年7月20日 | 大浦為信は浪岡城を落とすべく軍を3つに分けて攻め寄せたが、城主の北畠顕村は城を捨てて逃げたため、城はあっさりと陥落した。その後、顕村は大浦軍に捕まり、寺で自害して果てたという。 『津軽一統志』『北畠文書』『工藤家記』 |
1585年3月 | 大浦為信は浪岡城を拠点に油川へ軍を向け、新城の集落に放火をしたところ、油川城の城主の奥瀬善九郎は城を捨てて田名部へ逃げたという。 『津軽一統志』 |
1590~1615年 | 大浦為信は外ヶ浜攻略時までは浪岡城を使用していたようだが、江戸期には既に廃城となっていたとされる。 |
1940年2月 | 国指定史跡に指定される。 |
1977年 | 第1回の発掘調査が行われる。 |
城は浪岡川の右岸の段丘に築かれており、検校館、西館、内館、北館、外郭、猿楽館、東館、新館の8つの郭から成り立っている。東側から西側に行くに従い低くなるが、各郭の高低差はあまり無い。郭と郭の間は最大で幅20m、深さ5mの空堀で仕切られており、中枢部は堀の中央に畝が走る二重堀になっている。