ソラリス

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監督・脚本スティーヴン・ソダーバーグ
製作 ジェイムズ・キャメローン
レイ・サンチーニ
ジョン・ランドー
製作総指揮 グレゴリー・ジェイコブズ
音楽 クリス・マルティネス
原作 スタニスラフ・レム
キャスト
ジョージ・クルーニー
ナターシャ・マケルホーン
ジェレミー・デイヴィス
ヴィオラ・デイヴィス/ウルリッヒ・トゥクール
公式サイト(英語)
http://www.solaristhemovie.com/

 惑星開発の可能性を探るべく、惑星ソラリスの軌道を回る探査ステーション、プロメテウス。今、このステーション内部では説明できない不可解な現象が発生していた。ステーションに勤務するジバリアンから、地球の親友で精神科医を営むクリスに宛てたビデオメールでも、プロメテウスで何が起きているのかその真実をうかがい知ることはできない。ここにいたって当局は、ついに民間人であるクリスを、プロメテウスに派遣することを決定する。だが、クリスがステーションに到着したとき、すでにジバリアンは自殺していた…。

 その不可解さでSF映画の東の正横綱に君臨する「惑星ソラリス」のリメイク版…ではないな、むしろレムの原作を元に、SFテイストをまぶしつつ、ハリウッドスタイルのラブストーリーを作ろうとした作品、と言った方がいいのかもしれない。で、その試みはどう見ても成功しているとは言い難い。以下、今回ややネタバレ気味に話が進みますがご容赦。

 やはり「惑星ソラリス」があまりにも大きすぎる存在なのだよね、半端なことをやったのではあちらの出来の悪いパロディにしかなりようがない。やるなら相当大胆に大鉈を振るう必要がある。でもそこに勇気が足りなかったかなあ、と。今風の技術でタルコフスキーの「ソラリス」をリメイクするんでもなく、ハリウッド風のすぱっとした割り切りの元に作られた「ソラリス」でもない、タルコフスキー版の退屈と、ハリウッド・スタイルのご都合主義を兼ね備えた「ソラリス」になっちゃったような気がする。あまりのことにわたしゃ途中で少し気絶してしまったよ。

 一応評価できる部分が一点だけあって、それはソラリスによってプローブとして実体化したレイア(ハリーのアナグラムだそうで。しかしその名前はちょっとなあ)の扱い。彼女はクリスの記憶のみで構成されており、クリスにとっては間違いなく彼が知っているレイア。だけどレイア・プローブ(と便宜的に呼びます)にしてみれば、自分の記憶にあるのはクリスが覚えていることだけであって、レイア本体の記憶は全く欠落してしまっている。ここで、クリスにとってはレイア・プローブは「君こそ僕の理想の人だー」になるんだけど、レイア・プローブから見たらクリスの記憶のみで構成された自分なんて、自分として不完全な存在ではないの、という疑問がわき起こってしまう。ひたすらレイア(プローブ)を追いかけ回すクリスと、自分の存在に疑問を持ってしまったレイア・プローブとの相克みたいな部分はかなり見てる側の興味を惹くと思うわけで、もう、他は全部すっ飛ばしてこの一点に集中したお話作りをした方が良かったんじゃないのかなあ。

 変に思わせぶりにタルコフスキーの「ソラリス」を連想させるようなカットなんか挟む(ていうかさあ、彼女をロケットに押し込めて宇宙に打ち出そうとするシーンがきたら、『そこでクリスは火傷するやろー』と思うし、レイア・プローブが液体酸素を呑んだら、科学的にはどうあれ見てる方はやっぱり凍ってた身体が溶けてスケスケ・シーンが来るだろうと期待するよねえ。え、オレだけですかそうですか)のやめて、もういきなりクリスはステーションに到着、そこからはひたすらクリスとレイア・プローブのお話があり、できればそこにソラリスの海(これがまた出番がないんだ)が絡んでくるような展開だったら、まだしも見ている側の興味を惹く映画になったのじゃないかな。そこら辺の思い切りの良さに、著しく欠けてるんだよなあ、この映画。

 「プライベート・ライアン」のアパム伍長役がなかなかだったジェレミー・デイヴィス(ってこの人、「CQ」の主役じゃん)の芝居が妙にエキセントリックで面白いような全然場にそぐわんようなイメージだったり、未来社会が描けてるような描けてないような描写だったり、どうも全体にちぐはぐな印象が残ってしまう映画ではあった。いったいどこら辺に勝算ありと見て、この映画を作ったんだろう。わからん。

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