オウム法廷(10)

地下鉄サリンの「実行犯」たち

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降幡賢一 著
カバー装幀 神田昇和
朝日文庫
ISBN4-02-261397-1 \1,300

さまざまな、生死を分けるものごと

 地下鉄サリン事件で直接サリンの袋に穴を開け、空前の地獄絵図を現出させるきっかけを作った実行犯、豊田亨、広瀬健一、林泰男。それぞれ東大、早大という日本のトップクラスの大学で高い水準の教育をうけ、将来を嘱望されていた豊田、広瀬の両名はなぜ、全く正反対の方向に自らの歩む道を求めることになったのか。犯行後、我に返ったかのように真摯な反省の態度を見せ、自らの行いの非道を恥じ、すべてのオウムの犯罪の頂点にある人物、松本智津夫(麻原彰晃)との対立姿勢を鮮明にした彼らへ、司法が下した判決は…

 というあたりを中心に展開する「オウム法廷」の10巻目。これまで何度も言われてきたことだけど、高い教育を受け、充分に論理的な思考のできるはずの青年たちが、なぜにこうもいかがわしい教えを手もなく信じてしまったのか、という部分と、ここに来てもなお、「教祖」への信仰を捨てきれずにいるものもいるという事実。それはいったいなぜなのか、何が悪かったのか、そこに明確な答えは見いだせないまま、取り返しのつかない事件を次々と起こしてきたこの教団の信者たちには、次々と刑が要求され、確定していく。そこには多分に世論に後押しされた、ちょうど宮崎勤の事件のときと同じような一種のヒステリカルなものが感じられてしまう。

 もとよりどんなに高い教育を受けていようと、事件の後でどんなに反省して見せようと、やったことの重さは厳然としてあるわけだけれども、毒ガスを実際に発生させたから死刑、彼らの運転手役だったから無期、というやや機械的な判決は、多分に世間の評判を気にしたものであったように思えてしまうのだな。広瀬被告の最終弁論で、弁護側はこんな論陣をはっている。

(麻原彰晃を頂点とし、村井らの側近、井上、林という教団幹部、土谷、遠藤らサリン製造者、広瀬ら実行犯、杉本ら運転手役、という構造を説明したあと) 麻原の指示がなければ村井は被告人らに実行を命じることができなかったのであり、仮に被告人らが実行を命じられても毒性を保有するサリンが製造さえされなければ、本件事件は発生しえなかったのであり(地下鉄サリン事件直前の霞ヶ関駅前におけるアタッシェケース事件がその例である)、首謀者、サリン製造者と実行者との量刑の在り方も考慮される必要がある。

 というのは充分説得力のある意見だと思う。だが、オウム憎しで盛り上がった世論を前にしては、冷静な判断をすることもまた危険、という事だったんだろうか。被告人たちの反省の態度を完全に疑いないものと認めながら、それでもなお下された判決は"究極の刑罰"である死刑であったことは、いろんな意味で重たいものだと思う。同じ広瀬弁護団の最終弁論の結び近くにこんな一節がある。

 そして、オウム心理教壇およびその犯罪に関して、様々な書物が出版され、幾多の論議の中で指摘されてきたように、我が国の教育の問題、宗教の問題、政治の現状、地球環境の問題、時代の閉塞状況等がその背景に存していたことに照らせば、国家、社会もオウム真理教団の出現とそのもたらした被害の結果について、その責任を分かち合うべきであり、死刑という殺人によって一信徒であった被告人にすべての責任を取らせるのは不十分というべきである。

 実際に肉親を殺されてないからそんなことが言えるんだ、といわれればそれまでだけど、それでも司法の下す決断なんて言うのは絶対に満額回答ではあるべきでない、と私は思っている(極端は良くない、と思うのだ)んで、こういう、判決、死刑!当然!!みたいな流れができあがるのは、カルト教団が跋扈する状況と同じくらい、薄気味の悪いものを感じてしまうのだよな。

03/04/29

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