戦火の果て

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デイヴィッド・L・ロビンズ 著/村上和久 訳
カバー装画 小沢信一
カバー印刷 鏡明印刷
デザイン 新潮社装幀室
新潮文庫
ISBN4-10-221923-4 \705(税別)
ISBN4-10-221924-2 \743(税別)

「意味」を求める人々の苦闘

 1945年。ヨーロッパの戦争はいよいよ終局に向かって加速を始めつつあった。西からは米英の連合軍、東からはソ連軍がベルリンを目指して進撃を続けている。その渦中に生い立ちも境遇も全く異なる三人の人物の姿があった。一度は戦線を離脱しながら、再び戦場に戻ることを選んだアメリカ人カメラマン、バンディ。将校の地位にありながら係累の不注意な一言がスターリンの怒りを買ったばかりに懲罰部隊の一兵卒に格下げされてしまったロシア人、イーリャ、そして崩壊寸前のベルリンにとどまり、ベルリン・フィルのチェリストとして不安な日々を送るドイツ人女性ロティー。戦争の最後の段階で彼らが目にしたものとは…

 「鼠たちの戦争」で独ソの卓越した狙撃兵を中心に据えてスターリングラードの戦闘を描いたロビンス、今度のお話はベルリン攻防戦に至る戦争の流れを、大局からはローズヴェルト、チャーチル、スターリンの連合国三首脳、個別の物事は前述の三人を通じて描き出してみせるもの。前作があくまで限定された局地戦での人間同士の戦いに的を絞って描いたものだったとすれば、今回は(本人の前書きにもあるとおり)戦争というイベントの中で神を演じる各国首脳のドラマと、神の僕の一齣にすぎない個人のドラマが交互に描かれる。それゆえ、特にお話の前半は少々散漫な印象もなくはないのだけど、それを補うだけの「考える材料」みたいなものがお話を追って行くにつれてこちらに重たく突きつけられてくる。

 個人のレベルで戦争なんて止められるものではない。それが始まり、それに人々が関わらざるを得なくなってしまうという流れを大元でコントロールしうるのは、それぞれの国の「神」の立場にいる一握りの人々でしかない。そして「神」の意志がひとたび決まってしまえば、神様の僕でしかない民衆は、否応なくその意志の元で自分の身の振り方を考えざるを得ない。「神」はあくまで比喩としての「神」でしかないので、すべての民衆に神の目は行き届いたりはしない。そのとき「個」としての民衆は何を思い、どう行動するのか、って辺りに切り込んだ作品といえるか。ものすごく重たい話だ。

 で、この重たい話というのはつまりは「自分は今ここで何をしているんだ?」を探し求める話と言うことになるか。「神」の立場で先の世界を見通そうとする各国首脳の物語と、もっとミクロな視野ではあるけれど、自分が何をし、何のためにそれをやっているのかを模索する三人の物語の混じり合い具合がかなりいい。どちらかというと淡泊な部類に入るお話かも知れないのだけど、よかったら読んでみて欲しいな。ある意味悲劇で終わるお話なのだけど、その悲劇を乗り越えようとする力みたいなものも同時に感じられる作品なので。

02/09/13

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