巨大戦艦ビスマルク

独・英艦隊、最後の大海戦

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ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク 著/佐和誠 訳
カバー写真・図面提供 月刊・世界の艦船(発行・海人社)
カバーデザイン ハヤカワ・デザイン
ハヤカワ文庫NF
ISBN4-15-050269-2 \940(税別)

(たぶん最後の)海洋ロマン

 1941年5月19日、ゴーテンハーフェン軍港を一隻の重巡洋艦を伴って出航した巨大な戦艦があった。当時世界最強といわれていたドイツの新鋭戦艦、ビスマルク。一行は英国を相手の通商破壊作戦、作戦名「ライン演習」のため北海を経由、アイスランドを回って北大西洋を目指す航路についたのだ。強力なビスマルクが大西洋を自由に動き回り、英国の生存のための命綱とも言うべき大西洋航路を思うままに荒らし回れば、その損害の大きさは計り知れないものになるだろう。直接の被害もさることながら、まだ見ぬビスマルクから商船団を守るために、少なからぬ英国海軍の艦船を、いるかいないか分からぬビスマルク警戒のために遊弋させる必要が生じるだけでも、戦争遂行上無視できない影響があるのだ。英国は総力を挙げてビスマルクの進路をつかもうと躍起になる…。

 大和の存在が秘密にされていたため、世界最大、最強といわれていたドイツのビスマルク級戦艦のネームシップ、ビスマルクの最初にして最後の戦闘航海を、実際にビスマルクに乗り組み、かろうじて救助された人物が克明につづるノン・フィクション。著者のミュレンハイム=レッヒベルクは"フォン"が付くところからも分かるとおり、旧ドイツの男爵家の出身で、この一族は代々の軍人一家。海軍に入ったレッヒベルクは順調にキャリアを積み、ビスマルクでは後部射撃指揮を担当する少佐の地位にあり、さらに短い期間ではあるがビスマルクの艦長、リンデマン大佐の副官まで務めたこともある人物。ちなみにビスマルクの生存者、百数十名の中では、彼が最高位であったんだそうだ。

 ビスマルクの物語というと、ルートヴィク・ケネディの「追跡」(文庫版タイトルは『戦艦ビスマルクの最後』)が有名だけど、向こうが徹底的な取材の末に生まれた作品だとしたら、こちらは実際に、現場でその最期を見取った人物の手記。なにせ"フォン"付きのお方なので筆致はあくまで抑制がきいている。実際その軍艦で勤務していたわけだから、ほいほい持ち場を離れるわけにも行かないし。そんななか、その抑えた文章からは、とりわけ修羅場以外の状況下での乗員たちの心の動きみたいなものが鮮明に見えてきて、さらにそれを通して(著者自身も見ることはできなかった)指令中枢である艦橋において、艦を預かるリンデマン艦長と艦隊を預かるリュチェンス提督の間の微妙な軋みみたいなものが艦内に伝染していく、その雰囲気がとてもよく伝わってくるものになっている。このへんは、そのとき、その場にいないと分からないものなのだろうな。

 いろんな書物で、「ライン演習」作戦については語られているし、そもそも作戦の遂行者であったリュチエンス提督が戦死してしまっている以上、そこで何があったのか、というのは永遠に分からない(日本人的には、たとえばレイテ海戦での栗田艦隊の"謎の反転"と通じるものがあるのだろう)のだけれど、一つ言えるのは、意思が統一されないところに成功はあり得ない、ってことかな。わずか一隻の戦艦を葬るために40隻以上の艦艇を集中してのけた英国と、三軍が全く連携を取ることなく(ドイツじゃ戦艦に載ってる水上機も空軍の管轄であったとは知りませなんだ)、戦力の集中運用(戦術の基本)すらおぼつかなかったドイツ、この先に待ってる戦争の帰趨を占うかのようなイベントの一つであったことであります。

 それでもなお、この大海戦にはまだしも、ロマンティックな部分もあるんだよな。この先世界の戦史上ではもう一度、レイテで日米の戦艦群がまともに撃ち合う大海戦があったわけだけど、そっちには欠けてる、敵を好敵手と見なす気持ちが生き残っていることが大きいような気がする。ともに光学測距がメインの独英の海戦と、米艦のセンチメートル波測距で正確きわまりない射撃にめった打ちにされた日本艦隊の差、って感じか。人間が技術の上に座する、最後の戦いであったのかもしれんね。

02/09/10

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