オウム法廷(8)

無差別テロの源流

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降幡賢一 著
カバー装幀 神田昇和
朝日文庫
ISBN4-02-261369-6 \1,200(税別)

どうすればいいのかわからない人たち

 未曾有の無差別テロ、地下鉄サリン事件を初めとするオウム真理教の一連の犯罪事件の審理を克明に追い続けるシリーズの第8弾。裁判が長引くにつれて、自らの罪と真摯に向き合おうとするもの、自らの保身のために全てを教祖や特定の幹部になすりつけようとするもの、そしてそれに対して反駁を試みるものと、教祖の許に強固な一枚岩の宗教集団を形成していたかに見えたオウムの信徒たちにも、それぞれの思惑が見え始めた、裁判開始から4年が経過した法廷。その中でただ一人、かたくなに沈黙を守り続ける被告がいた。地下鉄サリン事件の実行犯の一人である横山真人。「証言しない」とすら口にしないこの被告の心の中にあるものは、今なお続く教祖への信頼なのか、それとも全く別のものなのか………

 4年目を迎え、何件かの(極刑を含む)判決も出たことで揺らぎ始めた信徒たちの中にあって、その宗教心の強固さ故に自らマインド・コントロールに近い状態におかれることを押しとどめられなかった、という論法を持ち出す古参幹部の一人、早川紀代秀被告と、ひたすらなにも語らないまま死刑判決を受けるに至った横山真人被告の公判が中心になっているのだが、やはり印象深いのは後半の横山被告の裁判所における態度だろうな。

 検察側はおろか、弁護側からの緒質問に対しても、ほとんど「………」でしか応じることのないまま、死刑の求刑を受け、実際に判決も死刑。それでもなお沈黙を通し続ける被告の心境とはどういうものだったのだろうか。著者、降幡氏は判決直後の印象としてこんな風に記している。

 しかし、自分の心に正面から向き合って、ギリギリと自分を責めるよりも、口を閉ざして、「教祖」に頼っていた方が楽には違いない。被告は結局、事件のことを考えるつらさ、苦しさから逃避して、自分を甘やかすことしかできなかったのだ。そして、そう決めてしまった被告は、それが事実を覆い隠してしまうことになることに目をつぶってしまった。

 しかしそうだろうか?オレは横山真人という人物こそ、実は今の日本のごく平均的な若者の姿なのではないのかと思ってしまうのだが。彼の心に「楽」とか「つらい」とかを判断する部分というのは存在していないのではないか。ほんとうに、どうすればいいかわからない人なのではないだろうか。安易に教祖に頼って良しとするなら、判決が出た時点で教祖が頼むに足らぬ存在である事がわかった時点で、自分の思いを少しでも口にしそうなものではないだろうか。生来口べたで表現力が極度に乏しい人物であったとしても、だ。

 だけどこの人物はそれもしない。オレは、彼には本当に、その時々で何をすればいいのかがわかっていないのではないかと思う。それは、今の「指示待ち」などと言われる若い人たちの特徴が、オウムに入信したことでさらに濃縮されて自身のパーソナリティーを形成した姿であるように見える。オウムにいる限り、誰かが指示を出してくれる。指示通りにすれば誉めてもらえる。ゲームのキャラよろしくレベルアップもある。そんなところに居たが故に、それ以外の場所に出たときに、彼は自分で何を、どうすればいいのかが全くわからないのだろうと思う。そして、そんな彼の姿というのは、多かれ少なかれ今の世の中の若い人たちに共通して見受けられる特質であるように思えるのだな。

 第7巻の感想で、オウムの犯罪を「原因として少年犯罪」と捉えるべきである、とする弁護側の陳述を紹介したけれども、本書の横山被告の公判の模様など読んでいると、本当に、裁判官や検事、弁護士が相手にしている人物が、なりは大きいけれども人生経験において全くの子供であるような印象を受ける。降幡氏のそれが事実を覆い隠してしまうことになることに目をつぶってしまった。と言う記述は、多分にオウム・ウォッチャーとしての失意が混じっている点でも、そもそも本人に目をつぶるとかつぶらないとか言う意識がないと言う時点においても、的はずれなコメントなんではないかと思う。彼らの罪を明らかにし、それに相応な量刑を科すことはできても、このままでは「オウムのようなもの」がまた出てくることを阻止するための知恵のようなものは生まれてこないのではないか。そこが非常に気になるんである。

02/03/17

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